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マンシュタイン元帥自伝 一軍人の生涯より [回想録]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エーリヒ・フォン・マンシュタイン著の「マンシュタイン元帥自伝 一軍人の生涯より」を読破しました。

この1年半の間にマンシュタイン本が2冊も出版されるという異常事態。
ひとつは上下巻の伝記である「ヒトラーの元帥 マンシュタイン」、
もう一冊が1ヶ月ほど前に出た560ページの回想録です。
マンシュタインの回想録といえば「失われた勝利」がよく知られていますが、
あちらは1939年のポーランド戦から、すなわち第2次大戦に特化した回想録であり、
こちらはそれ以前、生い立ち~第2次大戦前まで・・というわけですね。
陸軍参謀本部でNo.2となり、また同僚らから「傲慢な性格」といった評価もあるなど、
特に平時の参謀本部の様子、有名軍人らの軋轢が赤裸々に・・、
なんてのをついつい期待してしまいます。

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「序章」は生い立ちから。
1887年11月24日、エドゥアルト・フォン・レヴィンスキー砲兵大将の第10子、
その後妻ヘレーネの第5子として生まれ、子供のいなかった母の妹ヘートヴィヒが
嫁いでいるマンシュタイン家に引き渡され、その養父母のもとで愛情に包まれて育ちます。

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父から受けた影響なども振り返りながら、自らの性格を自己分析。
曰く「私のなかに潜む反抗精神のおかげで、のちの人生においても、
私がまったく扱いやすい部下とされるようなことは、まずなくなってしまったのである。
少なくとも私を良く知らない相手からは、しばしば冷淡で辛辣な男だと思われたようだ」
そして父が贈ってくれたマンシュタイン家の歴史を書いた本の表紙には
「あくまで忠実に」・・これは、私のモットーとなった・・と。
いや~、いきなり意味深ですねぇ。

General Eduard von Lewinski, photographed in 1904, with his five living sons including, at his left shoulder, 14 year old cadet Erich von Manstein.jpeg

陸軍幼年学校時代の回想では、ベルリンの宮殿でドイツ皇帝臨席の祝典の様子が、
嬉々として語られます。
宮廷での「侍童勤務」がそれで、侍童衣装は裾が太股のなかほどまで届く緋色の長上着で
銀の組紐と肩章で飾られ、レースの飾りを胸と袖、白カシミアの半ズボンにつけ、
白い絹の長靴下、黒の留め金付きの短靴、特別の自慢だった優美な帯剣、
ダチョウの白い羽飾りの付いた平らな帽子で装束は完成。
本書にも写真が掲載されていますが、まぁ可愛らしい。。

008.JPG

陸軍幼年学校の彼らは、お客の中でも特に軍の高官に関心を寄せます。
例えば、陸軍内で高い名声を博していた老伯爵ヘーゼラー元帥に、
大参謀本部の総長シュリーフェン元帥・・といった具合。

Generalfeldmarschall Gottlieb von Haeseler.jpg

皇太子の結婚式にも召集された侍童マンシュタイン。
前日に6頭立ての馬車でにぎにぎしくベルリンに迎えられた皇太子妃に
何千ものベルリンっ子たちが魅力的な外見の若い花嫁に喝采を送ったそうですが、
この人は以前、なにかで調べましたねぇ。ちょっと男前な感じで。。

Cecilie von Mecklenburg-Schwerin Viktoria Luise.jpg

日本人として興味深かったのはこんな部分です。
「ほとんどすべての諸侯が代理人を結婚式に派遣しており、
日本の天皇も皇子を一人送り込んでいた。あいにくなことに彼は序列に従って、
食卓でロシアの大公と向かい合う席に着かなければならなかった。
当時、ロシアと日本はまだ戦争になってなかったが、大きな花かごが置かれ、
二人の対手が互いに見えないようにされた」
この結婚式は1905年6月6日、あれ? ひょっとして日露戦争の真っ最中??
天皇の皇子となると、大正天皇のことかも知れませんね。

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期待していた第一次世界大戦についてはわずか2ページ弱。
続く「結婚」には7ページを割いているわけですが、
まぁ「序言」でも小さな歯車の役割を果たしたに過ぎない・・と書いてますし。
こうして81ページから第1部「ライヒスヴェーア」が始まります。
ライヒスヴェーアとは、ワイマール共和国軍というか、
「ゼークトの10万人軍隊」と言った方が馴染みがありますね。

E.Manstein, his wife Jutta-Sibylle and his daughter Gisella.jpg

「カップ一揆」に触れながら、第5歩兵連隊の中隊長としての部隊勤務、
そして参謀将校には慣例となっている、その2年間の中隊長勤務を終えて、
参謀部、当時は「指揮官幕僚将校」と呼ばれていた部署に配置され、
その後、1929年9月、ヴェーファー中佐の後任として、「T1・第1課長」に。
「T1」とは部隊局第1部のことで、参謀本部作戦部に相当するそうで、
ヴェーファー中佐とは、初代空軍参謀総長の、あのヴェーファーでした。

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所属している若い参謀将校にはホイジンガーやカムフーバー
T1部長で直属の上官はヘルマン・ガイヤー大佐。
曰く「ガイヤーはカミソリのような理解力の持ち主だった」
さらに1つ上の上官が部隊局長のアダム将軍で、事実上の陸軍参謀総長です。
バイエルン出身者が参謀本部のトップに召されるのは初めてのことで、
コッチコチのプロイセン軍人マンシュタインとの相性が心配になるものの、
「アダム将軍はいつも格別に親切で、全幅の信頼を寄せてくれたのである。
私も、彼を特別に尊敬していた」

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1931年、海外旅行に出かけることになったマンシュタイン。
行先はアダム将軍を招待したソ連であり、その随行者に選ばれます。
赤軍はできる限り多くのことを見せようと努め、陸軍大学校の講義をはじめ、
空軍大学校、近代的施設を備えた付属研究所も見学。
続いて、キエフとハリコフへ豪華な客車の旅。
巨大なトラクター工場は近代的で、すべて米国の機械を設置され、
格別に興味深かったと回想します。
そ~か。ハリコフはこのときに下見済みだったのか・・。

モスクワでは国防相ヴォロシーロフの客人となって、
クレムリン内にある彼の住居へ。部屋数も少なく質素な印象です。
この旅行中に知り合った軍司令官たちにはブジョンヌイもいます。
軍人らしく、ぶっきらぼうで豪傑。別れの宴では隣の席に。。
しかし「その他の軍指揮官たちのなかで、今なお存命なのは・・」とあるように
赤軍参謀総長のエゴロフや、「なんとも興味深い人物」というトハチェフスキーなど、
数年後にはほとんどが「粛清」されてしまうのです。
そのトハチェフスキーについては
「聡明で無遠慮でありながら、うちとけない男であると感じられた。
技術的協力には熱心だったけれども、フランスの方に共感を寄せていた」

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当然、「レーニン廟」詣では必須であり、レニングラードに寄って
エルミタージュ美術館見学も楽しみます。
翌年にもソ連再訪し、ロストフ、バクーからトビリシまで。
とある駅では、憧れていた楽園を見つけられずに失望した
ドイツの共産主義者との出会いも。。
う~む、マンシュタインがこんなにソ連通だったなんて知りませんでした。
「バルバロッサ」でレニングラード奪取を目指したマンシュタインに
そこを防衛するヴォロシーロフ・・なんて図式もありましたしねぇ。

ブラウ作戦の下見から帰国後、コルベルクの第4歩兵連隊猟兵大隊長を継承。
率直で正直、親切な人柄の上官として全員の尊敬を受けるのは
連隊長のシュトラウス大佐です。
時を同じくして「ヒトラー内閣」が誕生。本書も250ページからナチナチしてきました。

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コルベルクで経験した「大政治集会」ではフォン・シーラッハが演説し、彼の指導の下に
全ての青少年を結集すべしと大柄な態度で訴え、大いに尊敬されていたトロータ提督の
青少年団体をけなしたことで、若い軍人たちの感情を害します。

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別の集会には「プロイセン州首相」のゲーリングが登場するということで、
ベルリンから1個儀仗中隊を配置せよとのおかしな命令が・・。
儀仗中隊を出すのは国家元首の訪問に際してのことで、州首相は対象外。
そこで式典の際には儀仗中隊をゲーリングではなく、第4歩兵連隊長に
表敬報告させる意趣返しをし、連隊長は儀仗中隊を閲兵。
ライヒスヴェーアはナチ党の警護隊ではないことを示すのでした。

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将来、参謀本部の要職に配置するため、ベルリンの軍管区司令部の参謀長などを
経験しておくべし・・と陸軍統帥部長官(陸軍最高司令官)ハマーシュタインから
言われていたとおり、1934年2月、第3軍管区参謀長に就任したマンシュタイン。
同時に軍管区司令官だったフォン・フリッチュ男爵はハマーシュタインの後任となり、
フリッチュの後任の軍管区司令官になったのはプロイセン貴族のヴィッツレーベンです。
「2人の協力関係は意見の相違もなく、ナチ党、特にそのいかがわしい代表者に対しては
彼はあからさまな嫌悪を以て接したのである」
あ~、「ワルキューレ」参加組ですからねぇ。。

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また、助手の作戦参謀には伯爵フォン・シュポネック大佐がいたそうな。。
クリミア戦での独断退却→マンシュタイン激怒→死刑宣告の彼ですね。

軍管区参謀長として、ナチ党諸機関との協力が必要とされるものの、
ブランデンブルク州を支配していたのは、州長官兼大管区指導者クーベ
公式には自分は国防軍と結びついていると強調しつつも、本当のところは
国防軍の宿敵であり、特に将校に対して反感を抱いていたクーベ。。
「その不品行ゆえに、ヒトラーも罷免せざるを得なかったが、理解しがたいことに
戦争中にクーベを呼び戻し、」と、パルチザンに爆殺される最期までボロカスに紹介。
マンシュタインにも、ハイドリヒにも嫌われたまさに最悪の人物のひとりですな。

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このあたりから俄然、盛上ってまいりましたので抜粋しましょう。
「格別にまずかったのは、当軍管区には、突撃隊(SA)の高位の幹部も配置されている
ことだった。ベルリンにおいて突撃隊の頂点にいる男、カール・エルンストのことだ。
威張り散らすばかりの若造で、早くに厳しいしつけを受けていれば、ひょっとしたら
彼も何ものかになれたかも知れない。彼は、自分の地位は、軍団長に相当するものと
思い込んでいたようだ。エルンストの登場の仕方は、傲慢、不当な要求、
前代未聞の浪費といった点で際立っていた」と、ゲーリングも出席した
カイザーホーフでの結婚式にまで触れられています。

Karl Ernst, Röhm and Göring.jpg

「シュレージェンで突撃隊のトップにいたのは、悪名高いエドムント・ハイネスだった。
犯罪者的性格がはっきりとみられた人物だ。ブレスラウの司令官ラーベナウ将軍は、
これ以上、突撃隊の不法行為に反対するなら殺すとハイネスに脅されたことがあった」

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そしてここから軍vs突撃隊、6月30日に起こった「長いナイフの夜」事件までを
軍管区参謀長マンシュタイン自身の経験をもとに振り返ります。
「時を経るごとに、SA最高指導部が、少なくとも軍を支配下に置こうと企図していることが
いっそう明確になってきた。彼らはクリューガー上級集団指導者のもとに
教育訓練幕僚部を新設したのだ。軍管区司令部に寄せられる、SAが秘密裏に
武器を調達しているとの情報は週を重ねるごとに増していく。
レームが「国民軍」編成を求め、そのなかにライヒスヴェーアを吸収しようとしている
こともわかってきた。しかし国防相ブロムベルク将軍にとっては、我々の警告は
お気に召さぬものであった。ブロムベルクは完全にヒトラーに魅了されており、
私とヴィッツレーベンは反動だとみなしていたのである」

Werner Blomberg, Hans Frank.jpg

「いずれにせよ、ヒトラーですら、彼のナチ党警衛隊と軍の緊張が拡大していくのを
看過することはできなかった。ゆえに調停を試みようと、軍、SA並びにSSの
高級指揮官を国防省に招集し、演説を行ったのだ。
直接ヒトラーを目撃し、その演説をじかに聴いたのは、このときが初めてであった。
ヒトラーは、国防軍こそが、国民中「唯一の武器の担い手」であるし、
これからも同様であると、明確に強調した。SAとヒトラーユーゲント
政治教育と兵役適格者の育成という仕事が割り当てられる。
だが、ヒトラーの説明に対して、SAやSSの一部指導者が示した態度から
我々軍人は、相手はこの協定を守らないだろうと結論付けたのみであった」

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「6月末、ベルリンでは緊張が進み、頂点に達そうとしていた。
SAがクーアフュルステン通りの軍管区司令部の向かい側にある家を押さえ
夜陰に乗じて、そこに機関銃を持ち込んだことが確認されたのである。
我々は執務所の衛兵を増強した。各部隊もまた、兵営が奇襲攻撃されるような
事態に備え、守備を固めておくべしとの指示を受領した。
軍管区司令部ではなく、グロース=リヒターフェルデに居住していた私は
6月30日直前の数夜においては、今夜にでもSAが自分を拉致しようと
するのではないかと覚悟していたのである」

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このようにして「長いナイフの夜」が発生し、シュライヒャーとブレドウ両将軍まで
殺害された軍と、その和解までの経緯が語られ、「そもそも・・」とまとめます。
「あのころ犯された決定的な誤りは、レームのような男を大臣に任命することに
内閣が賛成したことなのである。レームが同性愛の性交に耽っていることは、
そこかしこで噂されていた。法に従うならば監獄にいなければいけないような男が
入閣するということは、ほとんど想像を絶することと思われた。
ヒトラーが、もっと早くにレームと決別していれば、6月30日に実行された
血まみれの法律毀損は避けられたかもしれない」

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確かに水木しげるの「劇画ヒットラー」でも、
「お前はSAを野放ししすぎやしないか。苦情が絶えないじゃないか。
それとホモもやめてくれ。
いやしくも一国の大臣がホモなんて話、聞いたこともない」と
ヒトラーがレームに苦言を呈してましたからね。

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この殺されたシュライヒャーについて、10数ページ割いているのは興味深く、
人々は、陰謀家、権力を奪わんとした野心家、倒閣運動家、灰色の枢機卿
だと見たがっているものの、ワイマール共和国の安定のために尽くしたことも
忘れられており、ライヒスヴェーアを安定させ、それによって国家権力を
安定させようと、彼が努力したことについての判断も歪められているとします。
「シュライヒャー隷下で働いたことは一度もない」のに、マンシュタインのこの擁護は
ちょっと意外な感じがしました。

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また、マンシュタインが最も尊敬する軍人は1935年から参謀総長となった
ルートヴィヒ・ベックです。
「彼は徹頭徹尾遠慮深く、ゆえに、ことの裏側に常に隠れていた。
が、かかる特性には、その性格の誠実さと同じく、偉大なる作戦能力、
何ものにも左右されない明快な判断力、決して放棄されることのない義務観念、
多面的な教養が寄り添っていた。とにかく彼には、その偉大なる先達である
伯爵モルトケ元帥を彷彿とさせるものがあったのだ。
かのモルトケ元帥のおかげでドイツ参謀本部は世界的な名声を得たのだったが
実際、ベックを除けば、敢えてモルトケと比較できるような軍人には
私もお目にかかったことがない。
人間としてのベックは私が出会ったなかでも、最も貴族的なあり方をしていた。
それが仇となって、ヒトラーのごとき野蛮な輩に屈したのも無理はないことだと思われる」

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大絶賛ですが、平時の参謀総長なんであまり知られてないんですよね。
映画「ワルキューレ」のテレンス・スタンプといったら思い出す人がいるかも。。

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かつては陸戦の指揮に責任を負うカイザーの諮問役は参謀総長だけであり、
第1次大戦において、ヴィルヘルム2世の陸軍に対する統帥権行使は
名目的なものでしかなく、戦争指導は参謀総長に委ねられていたとした上で、
1930年代の陸軍参謀本部再生にあっては、まったく異なる事情に支配されます。

陸軍参謀総長はもはや、「最高司令官たる将帥」の相談役ではなく、単に
陸軍総司令官の相談役に過ぎず、それも彼が分担する領域に関してのみ。
さらに深刻なのは陸軍参謀総長が国家元首に直接働きかけるのは
不可能であり、国家元首と陸軍総司令部の間に、国防軍全体の最高司令官である
国防大臣が入ることによって、かつて「軍事の相談役筆頭」という地位から、
陸海空軍それぞれの総司令官の「補佐役相当」という三等職に転落・・。

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「装甲兵科の創設」は、思わず苦笑いしながら読んでしまいました。
当時、作戦部長・参謀次長だったマンシュタイン曰く
「陸軍拡張計画と禁じられていた兵器の導入に関して最優先とされたのは
装甲兵科の創設だった。まさにドイツ装甲兵科の創設者と呼ばれるグデーリアンは
彼の回想録で本件を詳述している。グデーリアンのタフさと戦闘的な気質がなければ
ドイツ陸軍が装甲兵科を保持することはなかった。戦争初期の数年間に
彼が挙げた戦果の大部分も、そうした性格に拠っているのだ。
しかしながら、装甲兵科の問題における陸軍参謀本部の活動は、
躊躇いがちなものだったとするグデーリアンの記述には賛成しかねる」

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「あらゆる革新者同様、グデーリアンが強い抵抗と闘わなければならなかったことは
間違いない。軍隊というのは、昔から保守的なものなのだ。
年長の将軍たちの多くが革命的なアイディアに対して、懐疑どころか、
拒絶を以て対応したこともはっきりしている。けれども、陸軍参謀本部が
装甲兵科の意義を認識しようとしなかったとか、グデーリアンに同調しようとせず、
この兵科が陣地戦を克服する手段になるとも思わなかったというようなことは、
絶対にない。両者の見解の相違は、むしろ本質的なところにあった。
彼の立場からすればわからないでもないが、グデーリアンが、ただ装甲兵科のこと
のみを注視していたのに対し、陸軍参謀本部は、陸軍全体のことに
目配りしていなければならなかったのである」

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戦車の運用は、装甲兵科によって集中的に行われることになるわけですが、
歩兵師団にとっても「機動性のある砲」が欲しいとマンシュタインが考えたのが
突撃砲兵」です。
参謀総長ベックでさえ「ふむ、マンシュタインよ。今度ばかりは君も的を外したな!」
と、当初は賛同を得られません。なにしろベックだけでなく、総司令官、
陸軍局長、兵器局長ら上層部は全員が砲兵出身であり、装甲兵科の者たちは
突撃砲兵を「ただ望ましくない競争相手」としか見ず、対戦車砲兵も
自分たちの専門の任務に他の者がもっと良い何かを得るなど許すハズもなし。
まぁ、そんな経緯からマンシュタインもグデーリアンの気持ちが良くわかるんですね。
そうか、陸軍大学校の同期生だったっけ。。

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1936年、ナポリ周辺で実施されたイタリア軍の演習の客になったマンシュタイン。
軍事的な面以外にも、特に彼のムッソリーニ評が印象的でした。
「現在の私は、ムッソリーニはいつでも人間的であったと言いたい。
ムッソリーニは、ヒトラーのような意志と知性だけの人というわけではなかった。
同様に彼がその「使命」についての思索だけに囚われていなかったことも確かである。
彼の目的は、その国民を以て、新たなローマ帝国を打ち立てることだった。
だがムッソリーニが祖国の運命と自らを同一視することは、ほとんどなかった。
ヒトラーが次第にそうした方向に傾いていったのとは、違うやりようだったのだ」

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陸海空3軍の差異についても言及します。
陸軍は数世紀に渡る伝統に一番深く根ざしているのは確か。
海軍も一定程度同様ながらも、カイザーの海軍。
空軍はナチ体制の産物であり、トップにはヒトラーに続く党人ゲーリングが。。
そしてヒトラーが不機嫌そうに言った言葉を紹介します。
「私はプロイセンの陸軍、カイザーの海軍、ナチスの空軍を持っている」

この3軍を統括する国防相ブロムベルクは、空軍総司令官ゲーリングの
上官になるわけですが、他方、両者は大臣として同格というヤヤコシさ。
さらに新設のOKWにどこまで統合指揮権を渡すか・・というプライドを賭けた問題が。
マンシュタインは当然、海空軍の指揮権もOKHが握るべきだと提案。
この提案にヨードル大佐は「何とも頭が痛いのは、OKHに居を構えているのは
最強の人物だということですよ。もし、フリッチュ、ベック、そして貴官がOKWにいたら
まったく別のことを考えるでしょう」

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こうしてブロムベルク=フリッチュ事件へと進み、
フリッチュの後任にはブラウヒッチュが、さらに大規模な人事異動により、
マンシュタインも次長の座を解任され、第18師団長に任命されます。
マンシュタインの後任はハルダー、ベックも怒りをあらわにします。
将来の参謀総長候補と目され、ベックの後任にと噂された、
参謀将校にとって最も栄光のある望みは潰えたマンシュタイン。

このあたり「ドイツ参謀本部」では、ベック参謀総長と、彼が後継者と目していた
マンシュタインのコンビがブラウヒッチュ総司令官にとって決して魅力のあるものではなく
この強力にして自信に満ちたプロイセン人を追い出すのに反対する理由はなかった・・
とし、軍管区司令官当時のブラウヒッチュが参謀本部から派遣されたマンシュタインの
高飛車な態度に腹を立て、その恨みが尾を引いていた・・とも。
本書では具体的な話はなく、ブラウヒッチュとも協力していると感じました。
ひょっとしたらマンシュタインが、その恨みに気づいていなかっただけかも。。

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最後はチェコ問題で戦争の危機。ベック抗議の辞任、ハルダーによる反乱計画
ミュンヘン協定」によってその計画もフイになるところまで。

非常に幅広い回想録で、ひとつひとつのエピソードも緻密に感じました。
どの時代のエピソードに興味を感じるかは人それぞれだと思いますが、
能無しの上官に、役立たずの部下の実名を挙げては毒づく・・ということもなく、
個人的には「ソ連ツアー」と「突撃隊バトル」を楽しく読みました。

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また、後半どうしても考えてしまったのは、
「もし」ハルダーに変わることなく参謀総長になっていたら・・?
ヒトラー排除を目論む尊敬するベックに従ったのか?
参謀総長として全く同じ「マンシュタイン・プラン」が立てられたのか?
あるいは「超」マンシュタイン・プランになったのか?
「バルバロッサ作戦」はもっと戦略目標が明確になったのか?
など、多少はその結果が違った気がします。
でもハルダーよりは早く罷免されそうですな・・。

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「最高の戦術家」は参謀であるべきなのか、前線の司令官であるべきなのか
そんな答えのないことまで悶々と考えを巡らせてしまう一冊でした。
それにしても1958年の本が、60年を経て翻訳出版されるのは素晴らしいことです。
今後も第2次大戦を経験した軍人の回顧録がバンバン出ることを希望します。










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失われた勝利〈下〉 -マンシュタイン回想録- [回想録]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エーリヒ・フォン マンシュタイン著の「失われた勝利〈下〉」を読破しました。

上巻の10章は、1938年~1942年まで、階級で言えば中将から元帥昇進まで、
別の言い方をすれば、参謀本部次長~第11軍司令官までの回想です。
基本的には自らが体験した戦闘の指揮状況が中心ですが、
各々の戦役全般についても解説しつつ、ヒトラーと陸軍総司令部の軋轢を危惧し、
その統一されない戦略についても、あくまで軍人の立場から見解を示します。
それにしても5年ぶりの再読かと思うほど、覚えている話が所々に出てきました。
コレは本書が西方電撃戦と独ソ戦の著名な戦記の元本になっているということなんでしょう。

失われた勝利_下.jpg

下巻は第11章、「軍統帥におけるヒトラー」からです。
クリミアを奪取して元帥となったものの、まだ一介の軍司令官という立場であり、
最高司令官であるヒトラーの直接干渉は受けていないマンシュタインでしたが、
軍集団司令官となったこれからは、そういうわけにはいきません。
犠牲を顧みず獲得した土地を「固守」するという硬直した原則、
技術的手段を重視すればするほど、ますます「数字狂」堕ち込んでいき、
新兵器が戦線に姿を現したということだけで満足して、
部隊の訓練や用法の慣熟はヒトラーにとって、どうでもよかったのだ・・と非難。

それでも勇敢な行為に与えられる「鉄十字章」の規定については肯定的で、
「もしも後世、ヒトラーが制定した多種多様の勲章類を物笑いの種にするのなら、
わが軍の将兵が成し遂げた業績を思い浮かべるべきである。
白兵戦章』や、『クリミア盾章』の如き勲章は、常に誇りをもって佩用されて然るべきものだ」。

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そしてヒトラーが怒りを爆発させて対談相手を委縮させるやり方も意識的な演出であり、
相手によっては距離を保った対応・・と個性に応じて使い分ける術を心得ており、
その相手の提言の意図を承知したうえで、あらかじめ自分の反論を準備していたとします。
この章の最後には、暴力をもって国家の統帥機構に変更を加えようという問題、
すなわち、1944年のヒトラー暗殺未遂事件に立ち入るつもりはないとし、
「戦線における責任ある一司令官として、戦争の最中のクーデターという思想には、
考慮の余地がないと信じている」。

このようなヒトラー評を踏まえたうえで次の章は「スターリングラードの悲劇」。
まずは犠牲となった20万人の第6軍兵士たちの英雄的精神を称え、追悼。
「結果が無駄となってしまうならば、その犠牲は無益なりとされるべきか。
尊敬できないような政権に捧げられる忠誠は、無意味とすべきか。
その頼るべき契りが偽りのものとわかったら、服従もまた過ちと判定すべきか。
しかしなお、その勇気、忠誠、責任観念こそは、ドイツ軍人精神の賛歌として不滅である!」

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マンシュタインが1942年11月のスターリングラード危機によって
急遽、新設の「ドン軍集団」司令官となった時の南部戦線の状況を解説します。
カフカスへ向かっていたA軍集団はリストを解任したことで、ヒトラー自らが司令官を兼任。
ヴァイクスのB軍集団は第6軍を含む、7個以上の軍を指揮し、そのうち4個は同盟国軍であり、
軍集団司令部というものは、有利な状況でも5個の軍を何とか指揮し得ることから、
この軍集団司令部の任務は能力をはるかに超えていたとします。
まして、ヒトラーが干渉し、第6軍の指揮に関しては閉め出される結果に・・。

WEICHS, PAULUS, AND SEYDLITZ.jpg

以上のような困難な状況を熟知していたOKHは、アントネスク元帥の統率の下に
「ドン軍集団」を編成しようと準備していたそうですが、
スターリングラードが陥落するまで・・と、ヒトラーによって"待った"がかかっていたのです。
マンシュタインは「元帥の作戦能力は、まだ実地に証明されていなかったものの、
登用を見送ったことは重大な過誤であった」と、アントネスクを非常に高く買っていますね。
ポイントは延伸しきった戦線翼側の危険な状況をパウルスやヴァイクスよりも
アントネスクならもっと強力にヒトラーに苦言を呈することができただろうということです。
確かにヒトラーの通訳シュミットも回想録で、ヒトラーが謙虚に助言を求めた・・と
書いていましたしねぇ。

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ドン軍集団の管轄は第6軍の他、ホトの第4装甲軍、そしてルーマニア第3軍です。
ちなみにルーマニア第3軍の参謀長はあのヴェンク大佐で、
マンシュタインの伝令将校には、あの「回想の第三帝国」の著者、シュタールベルク中尉が・・。

Erich von Manstein & his adjudant Alexander Stahlberg.jpg

スターリングラード戦についてはいろいろと書いてきましたので、その戦局の推移は割愛し、
本書で興味深かった部分をピックアップしてみましょう。
「ゲーリングの軽率な確約」で空中補給もままならない第6軍、
解囲救出を早くしなければ・・と、OKHは新たな兵力の指令を送ってきます。
装甲師団4個、歩兵・山岳兵師団4個、ついでに空軍地上師団が3個です。
しかしやっぱり空軍地上師団は、「せいぜいよくて防御任務を与ええる程度、
突進群の両翼側の援護に使用できるくらいだろうということは初めからはっきりしていた」。

そしてそんな貴重な戦力も輸送の遅延によって、思うようになりません。
軍直轄の砲兵部隊はネーベルヴェルファー1個連隊のみが到着しただけ・・。

Nebelwerfer.jpg

第3山岳師団は結局、到着せず、2個歩兵師団は突破されてしまったルーマニア軍戦区を
なんとか支えるために投入され、第15空軍地上師団は真っ先に配置につく必要があるのに、
数週間の日時を要求。しかも第1日目の戦闘で支離滅裂になってしまうのでした・・。

それでも12月12日、第4装甲軍による第6軍解囲攻勢(冬の嵐作戦)が開始。
特に戦車・突撃砲の定数が完全に充足した第6装甲師団については、
「卓越した師団長ラウスと、戦車連隊長ヒューナースドルフ」の名を挙げて賛辞。
あ~、「奮戦!第6戦車師団 -スターリングラード包囲環を叩き破れ-」も再読したくなってきた。

Oberst Walther von Hünersdorff  6.Panzer-Division.jpg

包囲されているパウルス将軍は直属の上官となったマンシュタインの脱出計画と、
最高司令官ヒトラーによる「保持せよ」の命令に挟まれて苦悩しています。
第4装甲軍の突破によって連絡がついても、その道は脱出路ではなく、
補給回廊でなければならず、スターリングラード戦線は維持し続けなければなりません。

軍集団の意見を伝えるために参謀のアイスマン少佐を空路第6軍に送り込んで説得しますが、
頑固な第6軍参謀長のシュミットは、突囲するのは不可能であり、破滅的結果を招くと言明。
彼に言わせれば、「軍に何の落ち度もないのに、このような窮地に追い込んだのだから、
空路によって充分な補給をするのが最高統帥部と軍集団の責任である」。
マンシュタインは理論的に彼の言い分は正しい・・としながらも、
空中補給の悪化は軍集団には責任がなく、天候と空軍、そしてOKWの問題であって、
「このような意見の対立は異なった状況なら、第6軍司令部の交替を申請しただろう」。

Friedrich_Paulus.jpg

12月31日、OKHからの訓令を受領したマンシュタイン。
それはヒトラー自身の決断によって、スターリングラードに向けた攻勢のために、
新鋭装備で定員の充実したライプシュタンダルテダス・ライヒトーテンコップから成る
SS装甲軍団を西部戦線より招致し、ハリコフ地区に集結させるというもの。
しかし、果たして第6軍がその時まで生き永らえていられるかどうかは、明らかに疑問なのです。

1月9日、第6軍はソ連軍から勧降状を突きつけられますが、ヒトラーが拒否。
散々、ヒトラーの軍事的決定を非難しているマンシュタインですが、
この件については、「断固、ヒトラーの決定に同意だった」。
それは、第6軍を包囲しているソ連軍機甲旅団など60個が自由になったら、
東方戦線の全南方翼に対して恐るべき結果をもたらすこととなり、
可能な限り、その前面の敵を拘束しておくのがパウルスの軍人としての義務であったとします。
「『第6軍が早く降伏してさえいたら、あれほど永く苦しまなくてもよかったろうに・・』
などということは許されない。そんなことは事が終わってからの知ったかぶり、というものである」。

こうして座して死を待つだけ・・だということを理解している軍集団と第6軍
賜暇より帰還してきた第6軍将兵は、自ら進んで、どうしても原隊復帰したいと願うのです。
ビスマルク家やベロウ家といった古い軍人家系に属する人々は、
義務と戦友愛の伝統は最も困難な試練に堪えるということを実証したいと考えており、
断腸の思いに悩まされながら、彼らを空路被包囲圏内に送り込むことになるのでした。

stalingrad-kriegsgefangenschaft.jpg

147ページからは「南ロシアにおける1942~43年の冬季戦」。
独ソ戦好きの方ならご存知のように、ジューコフの天王星作戦~小土星作戦などという
一連のソ連の大反撃に対抗する最終的な「第3次ハリコフ攻防戦」、
有名なマンシュタイン・バックハンドブローが炸裂する第13章です。
兵力的に敵が圧倒的に優勢であることに加え、スターリングラード後の危機を説明します。
「わが同盟諸国軍の無能力によって完全な自由を獲得したソ連軍が、
ドイツ軍南方翼の生命線である、ロストフ、ドニエプルに向かう道を手にしてしまうことにより
アゾフ海沿岸、あるいは黒海に圧倒殲滅される」、戦略上の危険です。

2月6日、総統本営でヒトラーにこの状況を詳しく説明するマンシュタイン。
彼はすでに「東方戦線において勝ち負けなしに終わらせる」引き分け戦略を想定しています。
しかし戦術的な意見具申をするマンシュタインに対してヒトラーは、うまく話をはぐらかしながら
石炭を産出するドニェツ地域の放棄は、戦争経済上不可能であり、
トルコに及ぼす影響という政治的外交政策を繰り出して反対するのです。

Erich von Manstein with Turkish generals.jpg

ドン軍集団は「南方軍集団」と改名されたものの、正面のソ連軍との兵力比は1対8・・。
比べて、中央軍集団と北方軍集団のそれは1対4であり、
確かにそこから補充兵員を南方軍集団に送り込むのには不利な状況ではあるけれども、
こっちは数ヵ月以来、絶え間なく激戦を続けていたのにあちらはそうではない・・、
というのがマンシュタインの意見です。

隣接する中央軍集団司令官クルーゲ元帥の名前はちょくちょく出てくるものの、
マンシュタインは例外的に彼についての人物的評価を下しません。
グデーリアンはあの回想録でケチョンケチョンにけなしていましたが、
自決した軍人に対してあまり否定的なことは書きたくないのかもしれません。
なのでこの件も、そんな批判の多いクルーゲをチェーン店の立場で考えてみると・・、

ナチスらーめん南店の店長マンシュタインが、開店前から大行列で仕込みも間に合っていないと
さほど忙しくないであろう中央店と北店から2~3人、ヘルプを要請。
中央店の先輩店長クルーゲは、ウチだって常連さんが多いし、遊んでる従業員なんていない。
最近、一番売上が良いからって、大げさに騒いで、社長にアピールしたいんじゃないの?
なんていう思いを持っていたとしても不思議ではありませんね。。

Generalfeldmarschall von Kluge.jpg

「ハリコフを死守すべし」の総統命令では、ウクライナの首都たるハリコフが
ヒトラーの威信問題であったとします。実際は当時もキエフが首都だと思いますが、
1934年までウクライナにおけるボルシェヴィキの首都はハリコフだったんですね。
そしてランツ軍支隊隷下のSS装甲軍団は命令に背いてハリコフから撤退・・。
もし命令を下したのが陸軍の将官だったら軍法会議は免れなかったものの、
脱出したのがSSの将軍ハウサーだったので何事も起らなかったそうです。
それでもランツ将軍が山岳猟兵出身であるとの理由から、
装甲兵大将であるケンプフに交替させられるのでした。

Hitler in military briefing_ Manstein, Ruoff, Hitler, Zeitzler, Kleist, Kempf, Richthofen, March 1943.jpg

第4装甲軍、第1装甲軍、ホリト軍支隊の攻勢的防御によって、敵に大損害を与えた後、
ハリコフ奪還作戦を指揮するマンシュタイン。
「重要なことは決してハリコフ市街全体の占領ではなく、
同地にある敵部隊を撃破し、殲滅することである」。
すなわちスターリングラードの二の舞だけは避けようとする戦術ですね。

Marders, Russia, spring 43.jpg

続く第14章は「城塞作戦」、クルスク戦です。メジャーな戦役が目白押しですね。
圧倒的な兵力差があるといって、純粋な防勢ばかりとっていたら戦線は寸断される・・。
「そこでわが軍が『戦略的防衛体制』をとるとしたならば、敵軍に対してなお優越している諸要素、
つまり柔軟性のある部隊指揮、高度の戦闘能力、部隊の偉大な機動性に依処しなければ・・」。
そして有名な二者択一の選択が出てきます。
当初は敵に主導権を譲り、攻撃してくるのを待ってから『後の先』の反撃を加えるか、
自らが主導権を握り、敵がまだ冬季戦役の損失から回復しないうちの『先の先』をとるか・・。

1942年の夏季攻勢も『後の先』で敵に包囲殲滅したこともあって、コレを望むものの、
西部戦線が怪しげな雰囲気のいま、ソ連が必ずしも攻勢を仕掛けてくる保証はなく、
ジックリ腰を据えて戦力を拡充しつつ、ドイツ軍兵力が西部に割かれることを待つかも知れん。。
そこで5月初頭の『先の先』、すなわち城塞作戦を提案するのです。

battle_kursk_0149.jpg

北翼から攻勢を開始する中央軍集団の第9軍司令官はモーデルです。
かつて陸軍参謀本部で第8課長としてマンシュタインの下にいた頃から知っているモーデル評。

「彼はその地位にあって『群羊中の狼』の如き存在として非常に有効な影響を与えていた。
後にA軍集団隷下の第16軍参謀長として、西方攻勢準備の間、私の指揮を受けていた。
ずぬけて旺盛なエネルギーがあったが、このために無遠慮な点があるのは免れなかった。
彼は自分のことを、苦難ということを知らぬ楽観主義者であるとしていた。
政府の首脳部と個人的に良好な関係を保とうと努力し、
事実、ヒムラーからSSの副官を付せられ、将校団から激しい批判を受けていたが、
モーデルをヒトラーに隷属してしまった少数の軍人の一人として数えるのはどうであろうか。
彼はヒトラーに向かって、軍事上の意見を遠慮会釈なく主張し、
いつでも彼の指揮する戦線が最も危急に瀕している場所にあった。
だからこそヒトラーの観念からすれば、モーデルこそ真の軍人だったのである」。

Generalfeldmarschall Walter Model & Reichsleiter Robert Ley, December 1944.jpg

始まったクルスク戦。南方軍集団はプロホロフカの会戦でその戦いは最高潮に達しますが、
モーデルは沈滞気味・・。おまけに連合軍がシチリアに上陸すると、クルーゲが報告します。
「モーデルの第9軍は、これ以上進出できないし、すでに2万名の損害を出している」。
マンシュタインは反論します。
「戦いは今や決定的なところまで到達している。わが軍の勝利は目前にある。
いま本会戦を中止することは、みすみす勝利を手放すということだ。
もしも第9軍が当面の敵兵団を拘束し、のちに再び攻勢をとってくれるならば、
わが軍集団は再び北方に進撃し、次いで西方に向かって旋回しながらクルスク湾曲部の・・」。
と、いくら力説したところで、ヒトラーの決定は作戦中止。。

Tigers near Orel, during the Battle of Kursk, July 1943..jpg

308ページから最後の第15章、「1943~1944の防衛戦」です。
8月、再度、ハリコフがターゲットとなり、ケンプフ軍支隊に全周包囲の危機が・・。
ハリコフを放棄したケンプフ軍支隊は、第8軍と改称され、
司令官にはかつてのマンシュタインの参謀長、ヴェーラーが任命されます。

9月には軍集団北翼のホトの第4装甲軍が北方から包囲される危険性が・・。
ヒトラーに直談判するマンシュタイン。
「このような状況に立ち至ったのは、中央軍集団が兵力の転属をしなかった結果である。
わが軍集団は正面の危機にあっても、兵力の転属を命ぜられたら忠実にこれを遂行してきた。
何故に他の軍集団ではこれと同じことができないのか理解に苦しむ。
ことに、その結果として中央軍集団が戦線を後退させなくてはならないとしても
たいした問題ではないだろう。第4装甲軍の戦線が崩壊したなら、
隣接する中央軍集団が戦線を維持していても何の役にも立たないからである」。

Erich von Manstein at the briefing on Division HQ.jpg

軍集団司令官として、各軍の個々の戦闘の詳細を扱うことは本書の範囲外とし、
その代わり、固い信頼関係にあった各軍司令官と、その参謀長を紹介しています。
新生第6軍のホリト上級大将はクリミア戦役当時の師団長であり、
真面目で公平な思慮を持ち、絶対に信頼できる人物。

von Manstein. Karl Adolf Hollidt.jpg

第1装甲軍を率いるマッケンゼン上級大将は、有名な元帥を父親に持ち、
軽騎兵出身ながら、そのようなタイプではなく、思慮深くて、親切な良き戦友。
そんな彼の参謀長はヴェンクで、常に「まあなんとか切り抜けられるでしょう」と締め括る
楽天的で頑健さ、愛嬌があって「お日様鳥」という綽名も・・。

wenck_color.jpg

第8軍のヴェーラーの参謀長はシュパイデルです。
ケンプフ軍支隊時代からその地位にあり、統帥上の業績の大部分は彼によるもの。

そして第4装甲軍司令官のホト上級大将
「私より年長で、彼は私がまだ軍団長だった頃、第3装甲集団を率いて、
装甲部隊の運用に関して非常に経験を積んでいた。
彼が自分より年下の軍集団司令官の指揮に最も忠実に服していたというのは、
ますます彼に対する評価を高らしめるものであった。
小柄で華奢なつくりであったが、元気旺盛でいつも活発、
しかも楽しげに振る舞っていたので若い戦友たちの間に人気があった」。

General Hermann Hoth, commander of the 4th Panzer Army _Romanian 6th army corps commander.jpg

実は本書を読み終わった日、夢に出てきたのがこのホト爺。。
ファンの多い将軍ですが、まさか夢に出てくるとは夢にも思ってなかった・・。
それにしてもマンシュタインとホトの写真といえば、やっぱりコレ ↓ が一番。

Erich_v__Manstein_Hermann_Hoth.jpg

マンシュ・・「ウチのシチュー美味いでしょ?」 ホト・・「うーん、まあまあだな」

軍集団の参謀長、ブッセ将軍にも賛辞を惜しみません。
「彼の言はほとんど正鵠を得ていた。我々が上から受けるさまざまな命令に対して、
『一人だけがさっぱりわかっとらん!』とだけ、あきらめたように注釈を加えた。
まったく歯に衣着せず、我々側近の間では話し合っていたものだ」。

manstein Colonel Theodor Busse and Major General Otto Wöhler.jpg

そんな「わかっとらん!」命令を伝えてくるのは本人ではなく、陸軍参謀総長です。
マンシュタインからしてみれば直属の上司に当たるこの人物は、
その陸軍参謀総長としての登場があまりにも電撃的であり、
部下に対しても彼の指示を電光石火にやり遂げることを要求。
また、何となく丸っぽい感じで、頬は紅く頭も丸く禿げ上がり始めていたという外見から、
「火の玉」と名付けられていたのです。

ツァイツラーは私の友人ではなかった。彼は戦争の前年、国防軍総司令部(OKW)の
国土防衛課に属していた。私が参謀次長にあった陸軍総司令部(OKH)とは、
まさしく対立関係にあった。だからこそ彼は後になって苦汁をなめる羽目になってしまった。
陸軍参謀総長として、かつての上官たる、カイテルヨードルと対立することとなる。
大部分の戦場で陸軍の統帥が除外されてしまったのは、
2つの統帥機構を作り出したことの結果にほかならない。
ツァイツラーは常に全精力を傾け、ヒトラーの意に反しながらも、
軍集団の判断と希望とを申し立ててくれたのである。
ヒトラーはかつて私に言ったことがある。
『ツァイツラーは貴官の意見具申を通すためには、まるで獅子のように戦う』」。

Erich von Manstein, Adolf Hitler, Kurt Zeitzler.jpg

当時のドイツ軍、特に将軍や参謀も出身と経歴によってギスギス感があるわけで、
大奥のようで印象的だった「ドイツ参謀本部」をつい思い出しました。

11月、ドニエプル戦線を失うと、退却した第4装甲軍の指揮官を更迭すべしと命令するヒトラー。
マンシュタインの抗議にもかかわらず、予備役に編入されるホト・・。
後任は第6装甲師団長として名声高き、ラウス将軍です。

von Manstein, May 1943_ General Erhard Raus looks on.jpg

東部戦線の全般戦争指導の完全な自主性をもった総司令官を任命して欲しいと
ヒトラー訴えるマンシュタイン。
自分をその地位に任命して欲しいのか・・? と考えるヒトラーは当然、拒否します。
「国家のすべての手段を把握している自分だけが、戦争を軍事的にも有効に指導し得る。
また、ゲーリングは私以外の他の何人の指令にも服しないだろう」。

年が明けた1月、第42、第11の2個軍団がチェルカッシィで包囲されてしまいます。
まさにスターリングラードの再現であり、今度は失敗は許されません。
ライプシュタンダルテとベーケ重戦車連隊が救出に向かい、
包囲陣から突囲脱出を図るシュテンマーマンとリープ軍団長。
3万人が脱出に成功するものの、戦死を遂げたシュテンマーマン・・。

Der gefallene General Stemmermann_Der Kessel von Tscherkassy.jpg

3月にはフーベの第1装甲軍が包囲されますが、
総統命令は「戦線を保持したまま、西方で第4装甲軍と連絡する」というもの。
またしてもスターリングラードの悪夢ふたたび・・。
今回ばかりはヒトラーが譲歩したものの、3月30日、A軍集団司令官クライストとともに
ベルヒテスガーデンに呼ばれたマンシュタイン。
最後の会談における議題は軍集団司令官2人の解任です。
「現在、東方において貴官に向いた任務はもはや存在しまい。今こそふさわしいのは、
北方軍集団であの至難な退却を停止させたモーデルのような人物である」。

立ち去ろうとする2人の前には、すでに後任のモーデルと、
クライストの後任たるシェルナーが立っていたのでした。

MANSTEIN 1942.jpg

このように本書は回顧録ではありますが、人生を振り返った自伝ではありません。
あくまで第2次大戦における、軍人としての自身の体験に限定したもので、
末尾の「解題」に書かれているように、1949年には英国軍事法廷によって、
「戦犯」とされ、18年の禁固刑を言い渡されますが、1953年に釈放・・
といったことにも一切触れられません。

Erich von Manstein on Trial as War Criminal_1949.jpg

改めて「失われた勝利」とは何なのか・・?? と考えてみると、
下巻でのスターリングラード後の一方的な戦力差、
すでに軍事的勝利は風前の灯であり、狙うは引き分け、そして政治的和平・・。
それが結局のところ、1943年時点での望み得る「勝利」なのだと思いました。

つい、「ヒットラーと将軍たち マンシュタイン 電撃戦の立役者」のDVDも
見返してしまいましたが、クノップ先生はヒトラー暗殺計画に参画しなかったことに
うるさいですから、まぁ、なんとも・・。
元帥の首を懸けて、ヒトラーとやり合うべきだったという証言も、
本書では十分やっていますし、そもそもヒトラーは元帥だからって相手にしません。
興味のある方は、「ヒトラーの戦士たち -6人の将帥-」か、YouTubeでも見れますよ。
でも、フィギアも欲しいなぁ。









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失われた勝利〈上〉 -マンシュタイン回想録- [回想録]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エーリヒ・フォン マンシュタイン著の「失われた勝利〈上〉」を読破しました。

全国13万人のマンシュタイン・ファンの皆さん、ご機嫌いかがでしょうか。
フジ出版社から1980年に出た函入りの「失われた勝利」を読んだのが5年前。
このBlogを始めたばかりで、5番目に書いた記事でしたが、
何と言っても、読み返すのが恥ずかしいほどの淡白なレビューで、
自分でも詳しい内容が思い出せず、「西方電撃戦: フランス侵攻1940」を読んで、
再読したい、そして書き直したい・・と思っていました。
しかし、ただ再読 und 再UPするのもツマラナイ・・ということで、今回は、
1999年に再刊された、中央公論新社の上下巻に挑んでみることにしました。
シッカリ読んで、ガッチリ書いてみましょう。

失われた勝利_上.jpg

原著は1955年にドイツ語の「Verlorene Siege」、英語版の「Lost Victories」と、
共に「失われた勝利」というタイトルそのままです。
「最高の戦術家」として知られているマンシュタイン元帥ですが、
「傲慢な性格」、「ヒトラー暗殺計画から逃げた腰抜け」といった評価も良く聞きます。
個人的には軍人を評価する場合、その戦功のみを評価するべきであり、
性格が悪い・・とか、変態的な性向がある・・などというのは評価対象外としています。
プロの仕事というものはどんなものであっても、その結果で評価すべきで、
関係者でない限り、プライベートの生活や人間性は関係ありません。
しかし、歴史上の人物に興味を持ち、好きになったり、嫌いになったりするのは、
人間味溢れるエピソードを知ったり、個性的な部分を気に入ったりすることも多いでしょう。

Verlorene Siege.jpg

「序言」でマンシュタインは本書を次のように説明します。
「私は、自己の体験、自己の想定、自己の決断を追憶的な回顧としてではなく、
その当時あったままとして提示するように努めた。
歴史を研究するものとしてではなく、歴史を行動したものとして叙述した。
とはいえ、私が事件や人間、決定をいかに客観的に見ようと努めたところで、
渦中の人物の判断というものは、常に主観的たるを免れ得ない」。

このような彼の回顧録の基準を理解した後、「第1部 ポーランド戦争」へ・・。
1887年のベルリン生まれ・・なんてことは一切触れず、1938年の陸軍参謀本部の話から。
「参謀総長の代理たる参謀次長の要職にまで昇進していたが、
私のこの参謀本部勤務は、突然終わりを告げることになった」。
陸軍総司令官のフリッチュがナチスの悪辣極まる奸計によって職を追われると、
マンシュタインを含む側近たちも総司令部から遠ざけられてしまいます。

von Fritsch.jpg

本書ではこの1ページ目の下段にフリッチュの写真が掲載され、
同じく下段は備考欄となっていて、フリッチュが「同性愛者」とされたでっち上げ事件も
しっかりと書かれています。

そして翌年、ポーランド侵攻作戦における南方軍集団司令官にルントシュテットが任命され、
マンシュタインはその参謀長に・・。
旧知の間柄・・と語るマンシュタインのルントシュテット評は、
「将軍はまことに優れた軍人であり、何事においても即時に問題点を見通し、
もっぱらその本質的なものに取り組んでいった。彼にとっては一切の付随物なぞは
どうでもよかったのである。人々がいつも『古武士風』と呼んでいた類の人物であった。
この魅力にはヒトラーさえも屈した。
察するに、ヒトラーは上級大将に心から愛着を抱いていたらしく、
自ら2度までも罷免したのちですら、なお愛着の余光が残されていたのであり、
どうやらヒトラーは、将軍の人柄の放つ、かつて味わったことのない茫漠たるその雰囲気に
溶かされてしまっていたようだった」。

von Rundstedt .jpg

「ヴェルサイユ条約によってドイツの領土まで我が物にしてしまったポーランド・・」。
ポーランド嫌いなのは、なにもヒトラーだけではありません。
「地図を一瞥する度に、そのおかしな状況を見せつけられるのだった。
理屈に合わぬ国境線、分断された我が祖国! 
東プロイセンを我が本土から切り離しているこの回廊!」

German_losses_after_WWI.jpg

そんな宿敵に対する2個軍集団の編制も細かく記述しつつ、
9月1日を迎えるまで軍集団幕僚はナイセの修道院を本営とします。
このような本営には司令官ではない「本営指令」という指揮官が存在し、
司令部の宿営給与業務上だけの指揮官だそうですが、
ルントシュテットだろうが甘やかす素振りを見せなかったそうです。

「我々が一般兵士と同様の軍の給養を受けたのは当然であった。
野戦庖厨の昼のスープに文句をつけるようなことは一つもなかった。
けれども、来る日も来る日も夕食に支給された軍用パン
固いソーセージを噛み砕くのは、老紳士諸公には何とも大変なことで、
何もそこまでしなくてもと言いたいものだった」。

field cooker.jpg

作戦は順調。そんなある日、撮影隊と一緒に有名な映画監督である婦人が、
「総統の命により戦線を撮影せねば」と称して軍集団司令部に現れます。
この婦人とは、あのレニ・リーフェンシュタールなわけですが、
「婦人の世話までするなんて我々軍人にとってはまったく願い下げだが、
ヒトラーの命令とあらば、何とも致し方がないではないか」。

そこで第10軍司令官にして、陸軍随一のナチ派であるライヒェナウ
最適の保護者だということで彼女を送り付けると、
とある広場で逆上した将校によって無意味な発砲が行われ、多数の死傷者が生じ、
「その痛ましい光景の目撃者となった撮影隊と、われらの女性訪問者は
震え上がって直ちに現場から引揚げてきたというわけである」。

Leni Riefenstahl als Kriegsberichterstatterin bei einer Erschiessung am 05.09.1939 in Polen. Nach dieser Erschiessung brach sie ihre Arbeit als Kriegsberichterstatterin ab.jpg

ワルシャワに向かって進撃を続ける南方軍集団。
幕僚部も前進し、かつてのポーランド侯爵の居城に宿泊します。
食堂に使用した広間には、ポーランド総司令官たるリズ=スミグリ元帥の油絵が・・。
「襲撃を敢行中の騎兵を背景に銀製の元帥杖を手にし、颯爽と立っていた。
彼は、自信満々、傲然として我々を見下していた。
いまこの男は果たして何を考えているのだろうか。
彼が指導者となっていたその国家は、今や破滅の淵に瀕している。
そして彼自身はもはや英雄としての証はなくなってしまった。
彼は間もなく陸軍を見捨て、ルーマニアに向かって脱出することとなった」。

Edward Rydz-Śmigły.jpg

このポーランド戦を振り返り、ドイツ軍の損害は軽微だったものの、
個人的な関わりのある3人の戦死について触れるマンシュタイン。
ひとりは自殺とも云われている前陸軍総司令官のフリッチュ、
捜索大隊の騎兵大尉だった妻の兄、
3人目は幼年学校時代からの親友、フォン・ディトフールト大佐です。

manstein On promotion to Lieutenant, 27 January 1907.jpg

10月3日、東方軍総司令官に任命されたルントシュテット。
マンシュタインら幕僚もポーランドに残置されることに・・。
この決定を全員がいまいましく感じています。
それというのも大きな貢献をした南方軍集団を差し置いて、
フォン・ボックの北方軍集団は西方戦線に転送されたからです。
将来の民政長官が司令部を訪れることとなり、昼食会の準備が整えられますが、
1時間経っても現れません。「始めよう。来なくてもいい」と言い放つ司令官。。
食事を終えた後やって来たのは、服にベタベタと金色の刺繍を付けた、
「どう見てもキューバの提督としか値踏みできなかった。彼が『フランク閣下』であった」。

Hans-Frank.jpg

ルントシュテットは会談で自分の権限内の事項について、
SS国家長官が横から口を入れることは絶対に認めないと述べます。
もったいぶった口ぶりで話を結ぶフランク閣下。
「上級大将閣下、貴官は私が正義の人間であることは御承知でしょう!」

ルントシュテットはブラウヒッチュ陸軍総司令官に対し、申し入れをします。
「このままポーランドに残置されるのなら、冷遇されているものと認めざるを得ない」
マンシュタインもハルダー参謀総長に対して、同様の申し入れをして、
ようやくブラスコヴィッツが代わりにやって来るのでした。

Rundstedt and Blaskowitz reviewing the German victory parade before the opera house in Warsaw, Poland, 2 Oct 1939.jpg

第2部は「1940年の西方戦役」です。
10月24日、西部へと移って来た司令部は新設の「A軍集団」であり、
司令官ルントシュテット、参謀長マンシュタインのコンビはそのままです。
「連続する降雨が予想されるので、攻勢の開始は差し当たり不可能」と報告すると、
自分の希望に沿わない軍の情報を全く信用しないヒトラーは、
地形の状態を見極めさせるために副官のシュムントを寄こします。

そこでシュムントとかつて同じ連隊の戦友だったトレスコウ中佐をあてがうと、
彼は情け容赦なく一日中、ほとんど通行不能な道路や、水浸しの牧場を引っ張り回し、
シュムントはクタクタになって司令部に帰り着くのでした。
このトレスコウについては、マンシュタインが参謀本部時代から一緒に仕事をし、
親友と言ってよいほどの緊密な信頼感によって結ばれていたと絶賛しています。

Henning von Tresckow.jpg

そのかつての仕事場、陸軍参謀本部と陸軍総司令部の危うさを嘆くマンシュタイン。
ブラウヒッチュについてはフリッチュ、ベック、ルントシュテット、ボック各将軍のような
「首席クラスに属する人物では決してなかった」とし、
ハルダーについても、国防軍総司令官たるヒトラーの失脚を図りつつ、
陸軍をして勝利を収めるために全力を尽くすという役割は両立し難く,
この2つの分裂によってハルダーは精神的に消耗し、ついに行き詰った・・と考察します。

そしていよいよ「マンシュタイン・プラン」の発表。
最初にこの名称で呼んだのはリデル・ハートだとして、ルントシュテットとブルーメントリットからの
聞き取りによって報道した・・としていますが、コレは以前に紹介した、
ナチス・ドイツ軍の内幕」かも知れませんね。

Erich von Manstein color picture.jpg

当初の陸軍総司令部の作戦企図が1914年の「シュリーフェン・プランの焼き直し」だとして、
「新計画」を策定することになった理由をこう述べています。
「我々の世代がこのような古い作戦から一歩も抜け出せないのを非常に悔しく感じた。
一体どうして、書架からすでに使い古した作戦計画書、つまり彼我共に散々練りつくし、
そして敵がその再現に備えているようなものを引っ張り出し、蒸し返さねばならぬのだろう!」

攻撃の重点を当初のB軍集団からA軍集団に、さらに装甲兵力を分散させないという意図を
詳しく解説します。そして、
グデーリアン将軍は、常々、装甲兵力は1ヶ所に"ごり押し"しなければならない、
と主張していた。彼は我々の計画に全身全霊を打ち込んでくれた。
大装甲編合部隊をもって、アルデンヌを突破突進させることがグデーリアンによって
あらゆる困難にもかかわらず、遂行可能と認められ、その後の彼の熱意が、
我が装甲兵力を以て敵の背後に向かい、海峡沿岸まで突進させるに至ったのである」。

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侵攻計画を所持した将校がベルギー領内に不時着した「メヘレン事件」にも触れながら、
マンシュタインがA軍集団参謀長を更迭され、第38(歩兵)軍団長に補任された経緯、
1940年2月、新任軍団長としてヒトラーと面会した際に、マンシュタイン・プランを明かした件が
語られますが、陸軍総司令部憎し・・という思いが伝わってきますねぇ。
西方電撃戦に詳しい方でも、本書を読んで、計画者から"その心"を知るべきかも・・。

crash of the Bf 108 Taifun D-NFAW on January 10th 1940.Erich Hoenmanns_Helmut Reinberger.jpg

5月10日、電撃戦が始まったことをラジオで聞いたマンシュタイン。
計画者かつ、攻勢の重点であるA軍集団参謀長だった彼は、いまや休暇でドライブ中なのです。
それでも彼の第38軍団はB軍集団の指揮下に入るべし・・との命令が下り、
その後、A軍集団へ転属。フォン・クルーゲの第4軍で攻勢の一翼を担うことになるのです。
隣りにはヘルマン・ホトの装甲軍団。
やがてロワール川まで進軍し、豪壮華麗なセラン城に宿泊します。
4個の厚い塔に囲まれ、広大な庭園と壕・・。
豪華な寝室に一泊したマンシュタインはよほど感激したのか、この城について詳しく書き記し、
多数の絵画を強奪して・・なんてことは当然なく、「我々はあらゆる宿舎同様に、
他国の財物を尊重し、慎重に保存に努めたことは言わずもがなである」。

chateau-de-serrant.jpg

228ページの第7章は、「二つの戦争の狭間」です。
大勝利に満足したヒトラーによって、1ダースもの元帥が誕生・・。
マンシュタインは、陸軍総司令官と2人の軍集団司令官は当然としつつも、
「国防軍総司令部総長、すなわち司令官でもなく、また参謀総長でもない人物が含まれていた。
ほかに航空省次官が含まれていたが、到底、陸軍総司令官と肩を並ぶべきものではなかった」
と、敢えて名前を挙げずに、カイテルミルヒの元帥昇進に不満を述べます。
もちろんゲーリングの「国家元帥」就任は、故意に陸軍総司令部の地位を低下させたと・・。

Generalfeldmarschall Wilhelm Keitel 1/6.jpg

そして「英国本土上陸作戦」について、ヒトラーは英国との戦争は避けたいと考えていたとして、
「大英帝国が崩壊した場合、その遺産相続人となるのはドイツではなく、
合衆国、日本、もしくはソ連であることを承知していたのである」という見解です。
そんな幻の「あしか作戦」の訓練に励んでいた第38軍団に別れを告げて、
1941年2月、希望していた快速軍団、第56装甲軍団の指揮を任されたマンシュタイン。
フォン・レープの北方軍集団隷下の第4装甲集団に属し、東プロイセンから攻撃する、
バルバロッサ作戦」が近づいてきます。

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このヘプナーの第4装甲集団を構成するもう一つの軍団は、ラインハルトの第41装甲軍団で、
巻頭8ページに掲載されている写真には、このメンバーら5人の集合写真がありました。
真ん中がヘプナーでマンシュタインは端っこ・・というのは、この時期の序列らしくて印象的・・。

いよいよ6月22日を迎え、全速前進。ラインハルトに負けないことが重要です。
しかし装甲軍団といっても、第8装甲師団、第3自動車化歩兵師団、第290歩兵師団、
という編成であり、純粋な装甲部隊はブランデンベルガー将軍の第8装甲師団のみなのです。

Erich BRANDENBERGER.jpg

第1日目に敵に退路を遮断された偵察部隊が全員死骸となって発見されます。
無残極まる有様で切り刻まれた彼ら・・。
こんな残忍な敵の手に生きながら捕えられたくない・・という思いに駆られるのです。

そんな状況で第4装甲集団に配属されていた、武装SS「トーテンコップ」。
時折、マンシュタイン軍団指揮下として活躍したものの、甚大な損害を被ります。
自分の指揮下にあった武装SS師団のなかでは、最良であり、指揮官は勇敢な軍人で、
その後、戦死を遂げた人物だった・・とアイケについても触れますが、
武装SSの創設そのものについては、「容赦し難い誤りであった」と辛辣に語り、
「もしヒムラーの如き人物の指揮系統から外されて陸軍に配属されていたら、
彼らの大部分が喜んだだろうことは確実である」。

panzer 38(t) tanks endssess sun-scorched steppes.jpg

7月19日になって、ようやく軍団はルガを経てレニングラードに向かうことが判明。
その後、参謀本部から次長のパウルス将軍がやってくると、
かつてその地位にいた人間の血が騒いだのか、注意喚起するマンシュタイン。。
「全装甲集団の戦力を迅速な進撃に不向きな土地から解放し、モスクワに振り向けるべきだ」。
この先輩次長の見解に同意したパウルスですが、届いた命令は「レニングラードに突進すべし」。
そのために配属されたのは、SS警察師団・・。
しかも勇敢な指揮官であった警察将官ミュルファーシュテットを失っているのです。

General Arthur Mülverstedt  the Police Division.jpg

9月、第16軍司令官、我が友ブッシュがOKHからの電報を読み聞かせてくれます。
「歩兵大将フォン・マンシュタインは、第11軍の指揮を執るため、
即時、南方軍集団司令部に向かい進発すべきものとす」。
第11軍司令官リッター・フォン・ショーベルトは搭乗していたシュトルヒが地雷原に突っ込み、
戦死を遂げ、マンシュタインが本営に到着したときには、葬儀の最中。

Colonel-General Ritter von Schobert and his pilot before their last flight on 12 September 1941.jpg

遂に軍人として1個軍を率いることになったものの、ことはそう簡単ではありません。
なぜなら、第11軍はルーマニア第3、第4軍との連合兵力であり、
もともとアントネスク元帥の指揮下にあったからです。
そしてそのアントネスクも南方軍集団司令官ルントシュテットの作戦上の指揮を受ける・・
といったヤヤコシイ状況・・。
しかしアントネスクは第4軍の指揮に専念していたこともあって、
マンシュタインは第11軍とルーマニア第3軍をあわせて統率することになるのでした。
こうして、「クリミア戦」の幕が切って落とされます。

Briefing on the encirclement of Sevastopol.jpg

SS連隊「ライプシュタンダルテ」をクライストの第1装甲集団に引き渡すこととなり、
第11軍は1両の戦車すら持ち合わせていないなかで、ソ連の無数の戦車に立ち向かいます。
しかも制空権もソ連側にあるということで、救援に駆け付けてきたのはメルダース
彼の戦闘機隊が戦場上空から敵機を追い払うことに成功するのでした。

しかしこの第1回目の攻撃は、ケルチ半島から上陸してきたソ連軍の攻勢によって頓挫。
第42軍団が命令違反で撤退したことを知ったマンシュタインは軍団長シュポネックを罷免します。
総統本営で軍事裁判に臨んだシュポネックは、ゲーリング裁判長によって死刑を宣告されます。
軍事裁判の期日も事前に知らされず、いきなり判決を聞かされたマンシュタイン。
シュポネックと会うことすら断固拒否するOKW総長のカイテル・・。
結局、ヒトラーによって禁固刑に減刑されますが、1944年7月20日事件の後、
シュポネックはヒムラーの命令によって射殺されるのでした。

Generalleutnant Hans Emil Otto von Sponeck.jpg

1942年5月、ケルチ半島会戦が始まりますが、、有能な軍参謀長ヴェーラーが去ることに・・。
中央軍集団参謀長に補任という栄転であり、引き留める術はありません。
代わりにやって来たのは騎士十字章拝領者のシュルツ将軍
マンシュタインの忠実な友、有能な助言者になったそうですが、
この2人とも以前に紹介している有名な将軍ですね。

Otto Wöhler_Friedrich Schulz.jpg

残すは数多くの堡塁と防御陣地が施された要塞セヴァストポリ・・。
OKHは保有する最重攻撃器材を準備し、その火力は重砲兵および超重砲兵56個中隊、
軽砲兵41個中隊、突撃砲兵2個大隊など、第2次大戦におけるドイツ軍最大です。
また、例の列車砲ドーラにも触れ、「砲兵技術上の傑作」と表現します。



それでも、この怪物の援護のために高射砲2個大隊をつけねばならず、
全般的には効率的とは言えなかったとしています。
もうひとつ重要な戦力としてリヒトホーフェンの第8航空軍団を大きく取り上げています。

move into the city -Crimea-1942.jpg

5年間、マンシュタインに従えた運転兵ナーゲルの戦死にもページを割きつつ、
6月13日、フォン・コルティッツ大佐の歩兵連隊が「スターリン堡塁」を奪取。
その後、「チェーカー」、「GPU」、「シベリア」、「ヴォルガ」と攻略し、
装甲砲台「マキシム・ゴーリキーⅠ」を手中に収めます。
必要な個所には戦況図も掲載されており、この上巻だけでも14枚とありがたいですね。

Erich von Manstein car can stuck -Crimea.jpg

7月4日になって最後の大物「マキシム・ゴーリキーⅡ」を奪取して、クリミア戦は終了。
ラジオからはセヴァストポリ陥落の特別発表がファンファーレと共に流れ、
すでに上級大将に昇進していたマンシュタインの「元帥昇進」と、
クリミア戦士全員に対する「記念の盾(クリミア・シールド)」の創設が、
ヒトラーによって伝えられるのでした。

The battery at the entry of Sevastopol harbor.jpg

アントネスクに招待されたルーマニアでの束の間の休暇の後、
第11軍はレニングラード行きになることが決定。
スターリングラードとカフカスに進撃中の軍集団の予備としてでも残しておくべきと
総統本営でハルダーに進言するマンシュタインですが、
その際、ヒトラーとハルダーのあまりにも険悪な関係に驚きを隠せません。

von MANSTEIN_HITLER.jpg

空軍がヒトラーの命により、17万人を抽出し、空軍地上師団22個を編成したことを聞き、
またもや「愚の骨頂」として怒り心頭といった様子です。
「どこから必要な訓練を受けることができるのか、どこから指揮官を空軍は連れてくるのか?」
そんな頃、マンシュタインに不幸が訪れます。
少尉に任官したばかりの19歳の息子、ゲーロの戦死。

Erich von Manstein & his son Gero.jpg

3ヵ月間のレニングラード戦線での任務も11月20日を迎えると、新たな命令が・・。
「第11軍司令部は新たに創設された『ドン軍集団』となり、
即時スターリングラード両側地域の統帥を担当せよ」。

上巻はこれにて終了です。
ここまで 562ページ中、452ページで、残りの110ページは「付録」です。
ただ、これは命令や意見具申といったドキュメント、
訳者さんである本郷健氏の「資料集」として、各戦役ごとのドイツ軍編成はもとより、
ポーランド軍、フランス軍、ベルギー軍にオランダ軍の統帥系統、
もちろんソ連軍の戦闘序列まで出ています。
たまに最後の50ページくらいが「出典」になっている本がありますが、
かなり充実した「付録」であり、元のフジ出版社版に付いていた「別冊」が
一緒になったということですね。






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ヒットラーを焼いたのは俺だ [回想録]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エリヒ・ケムカ著の「ヒットラーを焼いたのは俺だ」を読破しました。

1年前、トレヴァ=ローパー著の「ヒトラー最期の日」を読んだときに見つけた本書。
40年前の本でも平気で新刊のように紹介する独破戦線ですが、
その古さではNo.1、1953年(昭和28年)という、60年前の一冊となります。
また、No.1ということでは、このタイトルのインパクトも独破戦線No.1。。
174ページですから、3時間で読んじゃうのもモッタイナイ・・と、数日放っておいたものの、
本書を読んでる夢を見て、明け方に目が覚めてしまいましたので、
仕方なく朝の6時から、このヒトラー専属運転手の回想録の独破開始です。

ヒットラーを焼いたのは俺だ.jpg

ヒトラーが首相となる1年前である1932年2月、エッセンのガウライター
テルボーヴェンの運転手を勤めていた21歳のケンプカ青年が、
ベルリンのカイザーホーフ・ホテルに出頭する電報を受け取るところから本書は始まります。
ホテルにはヒトラーの副官、ブリュックナーの他、ドイツ各地から来た同じような運転手30名・・。
そして順番に党首ヒトラーからのマニアックな質問攻めに遭います。
「君は8㍑=マーシー=ド=コンプレッサー=モーターを知っていますか?」
「この車は何馬力出ますか?」
「見通しのきかないカーブで80㌔で走っているとき、対向車が来たらどうしますか?」

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エッセンへ戻っていた彼の下に再び、電報が・・。
そこには「ミュンヘンのブラウン・ハウスルドルフ・ヘスの許へ出頭されたし」。
こうして試験に見事合格したケンプカ。
早速、ヒトラーの運転手兼従者のユリウス・シュレックから親切に手ほどきを受けます。

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すぐに大統領選挙を迎え、ドイツ中を演説で周らねばなりません。
ヒトラーは地図を膝の上に広げ、自分でコースを決めると、運転手のために話しかけ、
食事も作ってやり、疲れからくる睡魔を払ってやるのでした。

Driving Hitler.jpg

シュレックは西北地方を随従し、ケンプカはその他を担当するわけですが、
1936年、先輩運転手のシュレックが脳膜炎で急死。
それ以来、ケンプカには自由な時間はなくなり、一日中待機するという責任重大な任務を負います。
しかし同時に若いケンプカの運転に命を預けるという、
深い個人的信頼を寄せるヒトラーの側近という地位も得るのでした。

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仕事は単なる運転手に留まらず、ダイムラー=ベンツ社と共同で新型車の開発にも携わります。
不測の事態に備え、防弾などを施した総統専用車を自腹で開発するものの、
「わたしがドイツ国民に襲われるわけはない!」と、ヒトラーは乗ることを拒否。。
しかし1939年、ビュルガーブロイケラーで爆弾が爆発すると、
「今後はコレに乗る」と宣言し、ようやくボルマンからお金も頂けるのでした。

Bürgerbräukeller_1939.jpg

「最も好ましくない客人」としてヒトラー専属医となったモレルに関して1章を割き、
続いて、「側近のうちで一番憎まれていた人物」として、ボルマンの章が登場します。
1940年、ベルギー国王の妹でイタリア王女のマリア・ジョゼーがボルマンの作った
ケールシュタイン・ハウスを訪れると、出されたお茶が熱すぎて、王女は口を火傷。。
ヒトラーは幾度も謝る羽目に・・。
この問題の調査を受けたボルマンは、老齢の副官ブリュックナーを排除する絶好の機会と捉え、
責任を押し付けて、ヒトラーに勇退させるように進言します。
この結果、後任にはユリウス・シャウプが任命されますが、
すでに副官室の大粛清を行っていたボルマンの前に何の発言権も持っていないのでした。

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ポーランド戦の間も毎日のように最前線までヒトラーを乗せていったケンプカ。
本書では「長官」と表現されるヒトラーですが、これは初めてですね。
よく側近や秘書らは「ボス」とか、「シェフ(チーフ)」とか呼んでいたと書かれていますが、
まぁ、翻訳の違いなのかもしれません。
ケンプカ(Kempka)にしても、本書の「ケムカ」と、どちらが正しいのかよくわかりません。

やがて戦況の悪化とともに1945年を迎え、ベルリンへと戻ってきたヒトラー。
父の埋葬を済ませたばかりのケンプカを呼び出し、この大変な時期にも関わらず、
両手を差し伸べて父の急死にお悔やみの言葉を述べるヒトラーの姿に心を打たれます。

Kempka Hitler.jpg

西部の司令官であるケッセルリンクがベルリンへ報告に来ると、
特に高く買っている、この元帥の健康を心配したヒトラーの指示によりケンプカは
ナウハイム温泉に連れて行くことに・・。
この時期の危険な旅行からなんとか帰り着いたのも束の間、
今度は軍需相シュペーアの前線視察の旅の運転手に指名されます。
5昼夜に渡る「ヤボス機(ヤーボ)」にも襲われる命がけのドライブから無事に帰り着くと、
いなくなっていた息子が戻ってきたかのように彼を抱き、両手を強く振るヒトラー。
しかし、その様子を背後から苦々しく見つめるのはボルマンです。
特別の許可もなく、「長官」の私室に自由に出入りできる最後の一人であるケンプカに
憎悪を抱いているのでした。

Hitler_&_Bormann.jpg

4月20日の総統誕生日も過ぎて、ゲーリングからの「裏切り」の電報に激怒したあと、
1932年から良く知っていたエヴァ・ブラウンと初めてゆっくりと話す機会を待ちます。
彼女によれば、総統はずっと前からボルマンの肚を見抜いているものの、
後任者に慣れるのが容易ではないために、戦争の間はその権力の地位から
遠ざけることが出来なかったとしています。

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翌日には長い間「君僕」で付き合ってきた間柄のSS中将フェーゲラインから
2台の車を都合してくれるよう依頼されます。
そしてヒムラー単独講和を伝えるロイター通信のニュース・・。
「総統が狙撃されて脳出血を起こし、もはや意識を回復することはできず、
彼の命は48時間は持つまい」というのがヒムラーの講和の根拠です。
こうしてフェーゲラインの逮捕と処刑へ・・。

続いてはヒトラーとエヴァの結婚の様子。
この土壇場でのヒトラーの決意に対してケンプカはこのように語ります。
「彼は生涯の最も忠実な伴侶を、情婦として歴史の前に立たせたくなかったのである」。

Eva_Braun_stor.jpg

新政府の首相に任命したゲッベルスに家族共々ベルリンから即刻、去ることを
要求するヒトラーですが、ゲッベルスはコレを拒否し、激論が交わされます。
「自分の一番忠実な支持者のきみまでも、もはや自分の命令に従おうとしないのか!」
眼に涙をためて、踵を返して会議室から出ていくゲッベルス。。

Goebbels and his wife, Magda are pictured with Hitler, centre, and their children.jpg

やがて興奮したヒトラーの個人副官ギュンシェから電話が・・。
「今すぐ、君から200リットルのベンジン(ガソリン)を貰わなければならないんだ!」
彼の声はいまや悲鳴に近いものとなり、「ベンジン・・・、エリヒ、ベンジン!」
訳もわからず部下に指示してガレージに残っていた車から調達したケンプカ。
今度は侍従長のリンゲが絶望的に叫びます。「ベンジン!、何処にベンジンが置いてある?」

Günsche、traudl&Hans Hermann Junge、kempka.jpg

そしてヒトラーの遺体に続いて、ボルマンがエヴァの遺体を抱いて姿を現すと、
その光景に心打たれ、エヴァが憎んでいたボルマンの腕から彼女を奪い取ります。
防空壕の出口から3メートルの所に2人を横たえますが、ロシア軍の榴弾が激しさを増すなか、
タイミングを計りながら、ベンジン缶を取り、
全身を震わせながら2人の遺体にベンジンを注ぎかけるケンプカ。
「自分にはこれはできない!」
それでも義務感が苦痛に打ち勝ちます。
ゲッベルスから渡されたマッチに火をつけ、明るい炎が音を立てて燃え上がります。
こうして5時間半に及ぶ荼毘のあと、遺骨は壁際の小さな墓穴に埋められるのでした。

downfall burning hitler_eva.jpg

5月1日、若い少女が衣服を引き裂かれ、大怪我をして運ばれてきます。
彼女の恋人は総統官邸の運転手。歩哨任務を解かれて駆け付けたケンプカの部下の男は、
ヒトラーと同じく、結婚したいと言い出し、困り果てるケンプカ・・。
それでも想像を絶した情勢の中で、厳粛な結婚式が会議室で行われます。
やっぱり「最終戦」はみんな愛を求めるんですねぇ。

BERLIN  1945 _8.jpg

そして遂に脱出。
途中でボルマンらと合流することとなり、3両のⅣ号戦車を発見する一行。
この武装SSの残存戦車部隊を率いるハンゼンという指揮官に状況を説明し、
協力を求めたケンプカは、各戦車の周りに葡萄の房のように集まってゆっくりと前進。
しかし敵が砲口を残らず開いて撃って来ると、ボルマンは爆破の圧力で投げ飛ばされ、
彼自身も意識を失うのでした。
こんな古い本書ですが、総統地下壕の見取り図や、
このような「ボルマン死出の旅」なんてのも掲載されています。

ヒットラーを焼いたのは俺だ2.jpg

ケンプカはその後、ユーゴスラヴィアの外国人労働者の少女に助けられ、
エルベ川を泳いで渡り、ベルヒテスガーデンの妻の元に帰り着きます。
休養後に出頭するつもりだったケンプカですが、すぐに米軍情報部によって逮捕。
ニュルンベルク裁判で4週間、証人席に縛り付けられ、1947年になってようやく自由の身に・・。

Nuremberg trials, Kempka.png

丸々1年間、状態が良くて、手頃な値段の本書を探し続けていましたが、
神保町の軍○堂で、綺麗なモノを1400円で購入することが出来ました。
ちなみに定価は180円ですが、地方売価190円というのはどういうシステムなんでしょうね??

ヒットラーを焼いたのは俺だ3.jpg

ヒトラーの最期モノは結構読みましたが、本書はさすが「焼いたのは俺だ」と言うだけあって、
そのシーンは今まで読んだなかでも一番迫力がありました。
原著は1950年で、当時、根強い噂のあったヒトラーやボルマンの生存説に対して、
真実を提示することを目的に書き上げたそうです。
ただ、このように側近が「死んだ」と言えば言うほど、「匿うためなんじゃ?」と
思われてしまうのも悲しい現実ですね。。

全体的な印象としては「ヒトラー最後の十日間」に通じるものがありました。
回想録って感情移入できるので、とても好きなんですね。
もちろんボリュームはないので、予定通り3時間で一気読みしてしまいましたが、
本の状態、内容、値段を含めて、大満足の1冊でした。




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ヒトラー最後の十日間 [回想録]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ゲルハルト・ボルト著の「ヒトラー最後の十日間」を読破しました。

先月の「ヒトラーの最期 -ソ連軍女性通訳の回想-」を読んで気がついた、
未読だった有名なヒトラーの最期モノの一冊を紹介します。
著者のボルトは大戦末期、陸軍参謀本部の伝令将校を最後まで勤め
グデーリアンや、その後任のクレープスといった参謀総長や副官のローリングホーフェンと共に、
ヒトラーの地下壕でも作戦会議に出席していた人物です。
戦後、西側連合軍に捕らえられ、その際に書き記したものが早くも1947年に出版され、
後に、加筆されて発刊されたものが本書となります。
日本では1974年に出版された284ページの古い本ですが、ヤフオクで2500円也・・。
ちなみに訳者さんは、この世界で絶大な人気を誇る、松谷 健二氏です。

ヒトラー最後の十日間.jpg

まずは「私が帝国官房に入るまで」という章から始まります。
1918年、プロイセンのリューベック生まれの著者ボルトが音楽と良書、ボートと乗馬で
青春を謳歌した・・というくらいですから、良いトコのお坊ちゃんのようです。
しかし1933年、ヒトラー政権となると15歳になった彼はヒトラー・ユーゲントに入り、
やがてリーダー的な立場にもなりますが、自分の意見を持った「生意気な大口」が災いし、
1936年にはヒトラー・ユーゲントから去ることに・・。
翌年にはリューネブルク第13槍騎兵連隊に志願し、愛馬と共に訓練に勤しみますが、
1939年には落馬で大怪我を・・、そして直後にポーランド戦役が・・。

結局、初陣は1940年の西方戦役です。
偵察大隊に編入され、左胸に銃創を負い、戦傷章と2級鉄十字章を受章。
バルバロッサ作戦では、機械化工兵小隊を率いてバルト3国へ進軍。
1943年に騎士十字章を受章し、1944年にはハンガリー第1騎兵師団ドイツ軍連絡本部長に
就任しますが、この地に押し寄せるソ連軍の前にハンガリーからも撤退。
本国へ呼び戻された次の任地は、なんとラインハルト・ゲーレンの東方外国軍課です。
ちなみに下のチーム・ゲーレンの集合写真、2列目、左から3番目が著者ボルトです。

Abteilung Fremde Heere Ost.jpg

ベルリン近郊、ツォセンの広大な松林のなかに一見、普通の民家のような外観の
巨大地下壕「マイバッハⅠ」と「マイバッハⅡ」があり、
それぞれに国防軍総司令部(OKW)と陸軍総司令部(OKH)が入っていて
その5番壕にはグデーリアン参謀総長が入っているなど、詳細に解説しています。
ゲーレンの印象は「軍服を着た教授」というもので、洗練された尊敬すべき上司。
こうして彼と共に不慣れな情報将校としてソ連軍の情報収集に明け暮れます。
いや~、この章は後から書かれたものだそうですが、ビックリするくらい面白いですねぇ。

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ゲーレンのチームがどのように情報収集し、それを整理/分析して、グデーリアンに提出するか、
勤務状況や会議の開始時間など、すべてはヒトラーへの報告時間が基準になっていて
また、気ままな総統に振り回されたりと、現場の視点で解説・・。
例えば、完璧な資料を持参するも、それにはヒトラーが目もくれなかったことから、
帰ってきたゲーレンは打ちのめされていた・・・。

3ヵ月程度過ぎた1945年1月、今度はグデーリアン参謀総長の首席伝令将校に任命されます。
3軍の戦況会議に初めて出席し、ヒトラーにも紹介されることになった彼は大型のメルセデスで
グデーリアン、そして副官のベルント・フォン・フライターク・ローリングホーフェンと共に
すでの壊れかけた新帝国官房へと向かいます。

Ruine Neue Reichskanzlei.jpg

会議の様子も作戦部長ヨードルが説明する西部戦線だけで4ページも書かれ、
次にグデーリアンが東部戦線の状況をハンガリーから順にヒトラーに説明します。
戦略的なものがすでになくなった空軍は、突然「ゲーリング、新型戦闘機は?」と問われ、
全員でうろたえる程度・・。最後にグデーリアンと共同戦線を張っているデーニッツが
孤立しているクーアラントからの部隊の海上撤退を進言します。

Hitler_Guderian_Kaitel.jpg

ある戦況会議の際にボルトが地図を準備しますが、ハンガリーの地図から始まり、
クーアラントで終わるという順番を逆に重ねてしまうという失態・・。
彼曰く「死罪に等しいもの」という大チョンボのまま、会議が始まってしまいます。
ハンガリーの戦況について説明を始めるグデーリアンは途中で口をつぐみ、睨みつけると、
ヒトラーも彼を見上げ、退屈気に椅子へもたれて・・。
なにやら意味不明な言い訳を呟き、床に沈みそうになるボルト。。
しかし一同が重大犯人であるかのごとく見つめるなか、慰めの言葉をかける救世主が・・。
海軍総司令官たるデーニッツがにっこり笑い、地図の山を持ち上げ、「重ね直しなさい」

ここからは激しさを増す東部戦線の模様を、上司グデーリアンvsヒトラーの様子も織り交ぜながら
語りますが、さすが参謀総長の首席伝令将校だけにその内容はかなり濃密です。
あのライネフェルトSS中将が司令官の包囲されたキュストリン要塞への突破作戦も
総統随伴師団ミュンヘベルク装甲師団などによる攻撃が失敗に終わったと
ヴァイクセル軍集団のハインリーチから報告を受けたグデーリアンがどんなにガッカリしたか・・。

Küstrin 1945.jpg

3月後半にはそのグデーリアンも大バトルを演じた末、遂に罷免されてしまいますが、
ボルトが最も感銘深かったとして、第2軍司令官の任命式のためにヒトラーの元を訪れた
フォン・ザウケンのエピソードを挙げています。
会議後現れたザウケンは、7/20事件以降定められた「ハイル・ヒトラー」と腕を挙げた敬礼もせず、
預けるべき騎士サーベルに左手を当て、モノクルまで付けたまま、浅く身を屈めて挨拶するという
3つの大罪を犯してしまいます。
これにはグデーリアンとボルマンも「嵐の到来」を予感し、石のように立ちすくみ・・。
ヒトラーの挑発的な視線を伴った話にも、エレガントなザウケンは、「我が総統」ではなく
「ヒトラー殿」と反論する暴挙・・。しかしヒトラーは爆弾を落とすこともなく「よろしい・・」

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しかしこの「ヒトラー最後の十日間」ですが、特に最後の十日間に限定したものでもありません。。
原題も「ヒトラー:総統官邸最後の日」という感じですし、なんでこんな邦題になったのか・・?
気になって調べてみると、1973年に英/伊合作の「アドルフ・ヒトラー/最後の10日間」
という映画が作られていて、原題も「HITLER: THE LAST TEN DAYS」。
そして、本書はこの映画のネタ本になっているということでした。
この日本未公開の映画でヒトラーを演じるのは「サー・アレック・ギネス」です。
「戦場にかける橋」の主役やスター・ウォーズの「オビ・ワン・ケノービ」を演じた名優ですね。 

alec guinness hitler the last ten days.jpg

ついでに「ヒトラー 最期の12日間」はどうだったか・・というと、やっぱり原著にも、
映画の原題にも「12日間」という日数はなく、本の内容も確か「14日間」だったんじゃ・・。
う~ん。今から思うと、誰がこのタイトル考え付いたんでしょうかね。。

後任の参謀総長クレープスに慰留されたローリングホーフェンとボルトのコンビ。
年齢や階級は違うものの、これからは親友のような関係となっていきます。
4月20日にもなるとソ連軍のベルリン作戦が本格化し、危険になった「マイバッハⅠ」と
「マイバッハⅡ」もヒトラーの反対を押し切って移転。
総統ブンカーの一つの部屋で、参謀総長チーム3人での共同生活が始まります。
希望の星であるヴェンクの第12軍は「クラウゼヴィッツ」に「シャルンホルスト」、「ポツダム」、
「シュラゲーター」と名前はカッコいいものの、大半は書類上の師団でしかありません。。

そしてシュタイナー軍集団がぜんぜん反撃をしていないことを知ったヒトラーは
「カイテル、ヨードル、クレープスは残れ」と言って、最大級の怒りを爆発させます。
その様子もなかなか詳しく書いていますが、まぁ、この場面を読むと、
どうしても「総統MAD」のあのシーンを思い出しますね。「畜生め~!」

Der Untergang jodl_Krebs_Keitel.jpg

その後も、シュタイナーにオラニエンブルク北方の攻撃を・・とブルクドルフがウッカリ言うと、
「自惚れ屋で退屈でグズのSSか。あいつは使えん。シュタイナーが指揮を取り続けるのは許さん!」
と、ヒトラーは息巻いてます。。

himmler-steiner.jpg

絶望的な雰囲気が漂い始めた総統ブンカー。
それまで、国防軍将校に対して冷たい態度を取っていたヒトラーの護衛のSS隊員たちは、
突如として友情の権化と化し、「どうでしょう、いつヴェンクがベルリンに?」、
「我々は西へ血路を開きますか?」と質問攻めです。
ベルリン各区からの戦況報告も、もはや当てにならず、電話帳から選んだ適当な番号で
望みどおりの成果を得ます。
「すみません、奥さん。ソ連軍はもう来ましたか?」

ブルクドルフが「あんた方の贅沢な生活と権力のために彼ら若い将兵が死んでいったのだ!」と
ボルマンに対して叫んだり、ヴァイトリンクハンナ・ライチュといったお馴染みも全員登場。
ボルトが直々にヒトラーにベルリンの戦況を報告している際にも重砲弾による振動が・・。
異様な目つきで報告を中断させ「どうだろう。どのくらいの口径で撃ってきてると思うかね?
ここまで貫通するだろうか?君は前線将校だから、知っているハズだが!」

Russian guns on the outskirts of Berlin.jpg

そして4月29日の朝、ローリングホーフェンに起こされ、ヒトラーとエヴァの結婚を知らされます。
思わず2人でゲラゲラ笑うと、カーテンの向こうからクレープスの断固たる声が・・。
「気でも狂ったのか、総統を笑いものにするとは!」
この最後の最後に、彼らはベルリンを脱出してヴェンクに連絡をつける・・という計画を策定し、
クレープス、そしてヒトラーにもなんとか了承されます。
こうして、いざ決行のとき・・。

Gerhard Boldt was one of the last men in the Berlin bunker in 1945.jpg

実に楽しく読み終えて、当初想定していた内容である「ヒトラー最後の十日間」は
後半の100ページでしかありませんでしたが、それより、なんと言っても
前半から中盤にかけての、ゲーレンやグデーリアンの元での仕事っぷりが
良い意味で期待を裏切る、すごい面白さでした。
よって、実のところ本書は「ヒトラーの最期」モノというジャンルに特化したものではなく、
「最後の参謀本部将校の回想録」というのが正しいですね。

現場での個人の回想という意味では、ミッシュ著の「ヒトラーの死を見とどけた男」もありますが、
まぁ、ちょっと彼とはレベルが違うというか、一介の電話番のSS兵のミッシュとは、
ヒトラーの死を目撃していないだけで、比較にならないほどの濃い内容です。
実際、ヒトラーとも直接絡んだりしてますし、また、彼が大のSS嫌いなのが
端々から伝わってくるのも、回想録らしくて面白かったですね。
ひょっとしたら「友情の権化と化し」たSS兵にミッシュも含まれていたのかも・・。

過去に読んだかなりの本のネタになっていると思われる本書ですが、
次はローリングホーフェンの体験がネタにもなっていると云われている
トレヴァ=ローパーの「ヒトラー最期の日」を予定しています。



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