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ディナモ・フットボール 国家権力とロシア・東欧のサッカー [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

宇都宮 徹壱 著の「ディナモ・フットボール」を読破しました。

2002年に出た269ページの本書が本棚に未読のまま眠っていたのを発見しました。
買った記憶もなく、「ディナモ ナチスに消されたフットボーラー」と
ごっちゃになっていたようですね。
もともと東欧のサッカーにも興味があって、6~7年前に購入したんだと思いますが、
この「ディナモ」と付くサッカークラブは、共産国における「内務省」のチームとして知られています。
言い方を変えれば「秘密警察サッカークラブ」っトコですね。。
本書はベルリンの壁が崩壊し、ソ連も解体してから10年後である2000年に
各国の「ディナモ」の現状を取材した、ルポルタージュです。

ディナモ・フットボール.jpg

著者がまず訪れた街はベルリン。
冷戦時代も西側のブンデスリーガに在籍していた有名な「ヘルタ・ベルリン」ではなく、
壁の向こう側、東ドイツリーグで無敵を誇り、1979年から10連覇を達成した最強クラブ、
「ディナモ・ベルリン」が取材対象です。
しかしながら、昔から東ベルリン市民に愛されるどころか、忌み嫌われており、
その理由は、「ディナモ」の東ドイツ秘密警察といえば、あの「シュタージ」というわけです。

Das Ministerium für Staatssicherheit.jpg

内務大臣、すなわちシュタージのトップはエーリッヒ・ミーケレという人物で、
クレムリンの代理人として、1957年から壁が崩壊するまでその座に君臨。

Erich Mielke.jpg

体制を維持する機関であるシュタージは「正義」であり、
そして「正義」は必ず勝利しなければなりません。
となれば、対戦相手とレフェリーにも、不可解なオフサイドやPKが求められ、
何千人もの観衆の前で公然と行われた不正による勝利の結果、
「いかさまマイスター」という綽名を頂戴するのでした。

なにか「ニセドイツ」を読んでいるような気になってきました。
1980年代のユニフォームも確かに「シュタージ」っぽい色合いですね。

dynamo berlin 1984.jpg

東西ドイツ統合後は、後ろ盾のシュタージも消滅して西側クラブとの実力差は明らか。
アンドレアス・トームといった点取り屋も移籍し、あっという間に4部へ降格・・。
カメラマンでもある著者は7万6千人を収容する巨大なオリンピア・シュタディオンで行われる
魅力的な一戦、ヘルタ・ベルリンvsハンブルガーSVではなく、
1万2千ぽっちのシュタディオンでの「ディナモ・ベルリン」の戦いざまを選ぶのです。
しかも相手はアマチュア・クラブ・・。

この「ディナモ・ベルリン」というのはほとんど知らなかったんですが、
ドイツでもっと有名な「ディナモ」である、「ディナモ・ドレスデン」にも触れながら、
DDR時代、「ディナモ・ベルリン」の最大のライバルであった
東ベルリンの労働者のクラブ、「1. FCウニオン・ベルリン」への取材へと進みます。

Dynamo Dresden.jpg

次にやって来たのはウクライナのキエフ。
1927年に設立され、第2次大戦中「ナチスに消されたフットボーラー」となったクラブです。
本書ではこの件も紹介しますが、「ソ連のプロパガンダであったという説もある」としています。
まぁ、「カティンの森」がドイツの仕業と言い張るくらいですからねぇ。
有り得ない説じゃありません。。

1975年にはロシア勢を差し置いて、ソ連初のヨーロッパ・カップを獲得。
これはバイエルンを下したカップウィナーズカップです。
このような快挙もウクライナの弾圧された歴史を振り返りながら進むことで、
ウクライナが世界に誇れるものは天然資源ではなく、
ディナモ・キエフ・フットボールだったのだとしています。

Dynamo Kyiv 1975 cup winners cup.jpg

独立を果たした90年代には、カリスマ指導者ロバノフスキー監督のもと、
レブロフやシェフチェンコらが大活躍。
チャンピオンズリーグの98-99シーズンにはベスト4と一大旋風を巻き起こします。
いや~、懐かしい。この時は凄かったです。ロバノフスキーはベンチで全然、動かないし。。

Valeri Lobanovsky_Shevchenko.jpg

1887年、モスクワ郊外で「モロゾフ」という工場を経営していた英国人チャーノックが
ロシア初のフットボール・クラブ「モロゾフツィ(モロゾフの仲間たち)」を設立。
やがて「モスクワの恐怖」と呼ばれるようになったクラブのカラーは青と白。
これはチャーノックが熱烈なブラックバーン・ローバーズ・ファンであったことに由来します。
ヴィトゲンシュタインも好きで、実は上下のトレーニング・ウェアを持っています。。

Blackburn as they won the Premiership in 1995.jpg

革命の混沌のなかを生き延びたこのクラブは1923年に生まれ変わります。
新たな名称は「ディナモ・モスクワ」で、受け継いだのは青と白のチームカラーのみ。
創設の主要メンバーにはあの「チェーカー」の議長、ジェルジンスキーが名を連ね、
この時から「ディナモ」は秘密警察のクラブとなり、モスクワに倣えと
各地で誕生した「ディナモ」も、このチームカラーを選択するのです。

parad_Dzerzhinskii 1935.jpg

なるほど・・、確かに「ディナモ・キエフ」もこの色ですね。
秘密警察の青だから、NKVDの青をイメージしてるんじゃと思ってたんですけどね。。
「ディナモ・ベルリン」が違うのは、この色を「ヘルタ・ベルリン」が使っていたからかも・・。

NKVD_1940.jpg

著者が訪れた2000年、モスクワでは5つクラブがトップリーグでしのぎを削り、
内務相のディナモの他、生産者組合のスパルタク、鉄道労働者組合のロコモティフ、
自動車工場組合のトルペド、そして本田くんがいたCSKAは、もともと赤軍の後援です。

地下鉄の駅名にもそのまま「ディナモ」が付けられているこのクラブは、
単なるサッカークラブではなく、欧州でよくある総合スポーツ・クラブであり、
「ロシアの白い巨塔」と呼ばれる女子バレーのエカテリーナ・ガモワも
2009年まで、「ディナモ・モスクワ」に所属していたようです。

Ekaterina Gamova_Dynamo Moscow.jpg

「ディナモ」の名付け親はマキシム・ゴーリキーであるという伝説があるそうで、
その語源は「ダイナミズム」、「運動」のイメージであり、転じて「革命」にも通じると・・。
ロシアにおいては本来的に、「スポーツ・クラブ」と同義であるともしています。

3万6千席のディナモ・スタジアムでは、ベリヤが座っていた貴賓席を見学し、
フットボール狂だったベリヤが露骨にゲームに介入した話も紹介。
KGB出身の現大統領プーチンも「ディナモ」サポーターかと思いきや、
ザンクトペテルブルク出身なので「ゼニト」を応援しているのでは?? とのことで、
う~む。。そういえば、ここ数年ゼニトはメキメキ強くなっています。怪しいなぁ。

putin_kop.jpg

一方、内務省のサポートが途絶えたディナモは落ち目で、実際、有名な選手は
「黒蜘蛛」を異名を持つ、唯一のバロンドール受賞GKであるレフ・ヤシンくらい。。

Lev Yashin.jpg

それでも「ディナモ」の総本山である「ディナモ・モスクワ」ですから、
実は本書では「プロローグ」として、1945年11月にモスクワから英国へやって来た
この謎のフットボールクラブが、チェルシーに3-3で引き分け、カーディフ・シティには10-1と圧勝。
ハイバリー・スタジアムがドイツ軍の空爆によって破壊されていたアーセナルは、
スパーズのホワイトハート・レーンで迎え撃ちますが、4-3と逆転負け。
「ディナモ・モスクワ」は最後にグラスゴーでレンジャースと2-2で引き分けて帰国します。

Friendly 28_11_1945 2-2.jpg

ナチス相手に共に戦った同盟国ソ連に対して、この遠征を打診したのは英国ですが、
第2次大戦当時、英国ではリーグ戦は中止され、終戦後も徴兵されていた選手たちが
戻ってくるのが遅れていたことがあるにしても、フットボールの母国としてはショックです。

Dynamo Moscow 1945.jpg

すでに「大祖国戦争」での勝利を確信していたスターリンによって、
「ディナモ」のメンバーだけでなく、国家から認められたスポーツ選手は中央アジアの
ウズベキスタンの首都、タシケントなどに集められてトレーニングに励んでおり、
「ソヴィエト社会主義がいかに優れているか」を
スポーツを通じて証明する機会を探っていたのです。
こうしてスターリンとベリヤの決定によってやって来たのが、
ソ連最強のコマンドである「ディナモ・モスクワ」だったのです。

rangers v moscow dynamo 1945.jpg

2勝2分で英国人を驚かせたから良かったものの、もしボロ負けしてたら、
全員そのまま亡命・・とか、帰国後はシベリアへ・・、なんてことが起こったでしょうね。
ちなみに現在の監督はダン・ペトレスクでした。
昔、スタンフォード・ブリッジで観たことありますし、同い年なのでファンなんです。

Dynamo Moscow_Petrescu & Karpin.jpg

また、オリンピックなどの戦後のソ連スポーツについても書かれていますが、
このあたりも「ソチ・オリンピック」も手伝って、非常に興味深いですね。

いちスポーツ好きの日本人として言わせてもらえれば、
オリンピックやワールドカップなど、4年に一度の世界最高峰の大会では、
その競技における世界最高のプレーと選手が、まず見たいのであって、
日本人が・・とか、アジア初の・・だとか、そんなことは二の次なんですね。
外国人選手の紹介があったにしても、やれ「イケメン選手」、「美人アスリート」ですし、
日本人中心の放送や報道を否定するつもりはありません。

しかし、「金メダル候補が怪我で欠場するからチャンスだ!」というのはどうでしょう。
そのような外国人選手に勝ってこそ、メダルの価値があるんじゃないでしょうか?
上村愛子ちゃんには今回こそメダル獲ってほしかったですが、
もう少し、世界最高のプレーヤーたちに対する敬意を払ってほしいものです。

それにしてもロシアの"カー娘"、アンナ・シードロヴァちゃんは、なんてハシタナイ格好で・・。

Anna Sidorova, Curling.jpg

共産党から距離を置いた形で1922年に設立されたのが、「スパルタク・モスクワ」です。
「民衆のクラブ」として、ベリヤにも迫害されるディナモ最大のライバルであり続けますが、
ソ連崩壊後はいち早く民営化に成功。
チャンピオンズリーグにもオノプコ中心に、毎年出場していましたねぇ。

8万人の収容人数を誇る有名なルジニキ・スタジアムでは、
1982年に起こった340人が死亡したという史上最悪の大惨事を取り上げ、
共産党指導部がこの事件を隠蔽した・・という話や、
今もなおそびえる巨大なレーニン像も、白黒ながら写真を掲載。

Lenin at Luzhniki Stadium.jpg

スターリンの生まれ故郷であるグルジアまで取材する著者。
首都のトビリシには「ディナモ・トビリシ」が存在します。
ここの卒業生はアヤックスに移籍したアルフェラーゼに、ミランで活躍したカラーゼ。

kakha kaladze_dinamo tbilisi.jpg

あ~、ここでも懐かしい名前。。
ゴルバチョフ時代の有名な外相で、後のグルジア大統領がシュワルナゼでしたから、
「なんとかーゼ」って言ったらグルジア人・・という風に覚えたもんです。
もちろん例外もあって、一番好きなグルジア人選手はニューカッスルのケツバイヤでした。

temuri ketsbaia_Shearer.jpg

1925年設立のこのクラブは「グルジア人の誇り」であり、事実上の「グルジア代表」。
ソ連リーグではリーグとカップで2回ずつ優勝し、1981年にはディナモ・キエフに続き、
カップウィナーズカップを獲得します。
ロシアのクラブが一度も手にすることの出来なかった欧州カップを
グルジア人たちが掲げたことは、切手になるくらいの大きな事件なんですね。

Dinamo Tbilisi 1981_cup winners cup.jpg

続いてやって来たのはルーマニアの首都、ブカレスト。
戦後の1948年に設立された「ディナモ・ブカレスト」は、内務省と
秘密警察「セクリターテ(セクリタテア)」にサポートされたクラブです。
著名なプレーヤーなら、1994年のW杯で4点取る大活躍をしたラドチョウが筆頭ですね。

raducioiu-Dinamo.jpg

銃殺されたチャウシェスク大統領夫妻の件など、ルーマニア政治にも触れながら進み、
ライバルの「ステアウア・ブカレスト」についてもなかなか詳しく・・。
「ステアウア」とは「星」を意味するそうで、陸軍のクラブであり、
チャウシェスクの息子、ヴァレンティンの所有財産のひとつでもあります。
日本でもディナモよりもステアウアの方が有名だと思いますが、
1986年、スペインのセヴィージャでバルセロナを下してチャンピオンズ・カップを獲得し、
翌年にはトヨタ・カップで来日していることも大きな理由でしょう。

しかし、バルサとの決勝で4本のPKを止めた、守護神デュカダムは日本に来ることはなく、
「右腕が原因不明の血栓症に冒された」とのことで突然、引退。
スペイン国王から贈られた高級車をチャウシェスクの息子に譲らなかったことで、
「セクリターテに右腕を潰された」という恐ろしい話が伝わっているそうな。。

steaua_86_si_cupa_campionilor_europeni.jpg

最後にやって来たのはクロアチアのザグレブ。
ユーゴの内戦が終わり、独立したクロアチアはリーグも独立。
仇敵レッドスター・ベオグラードとのゲームが行われなくなってサポーターも淋しい限り。。
トゥジマン大統領によって共産主義のイメージが強すぎるとの理由で、
「ディナモ」が外され、「クロアチア・ザグレブ」へと名称変更されると、
愛するクラブの名称が勝手に変更されたことにサポーターは激怒しますが、
本書で紹介したその他の「ディナモ」でも同様の問題が起こっています。

そんな1999年に移籍してきたのは「キング・カズ」。
12試合に出場してゴールは「0」。日本でも中継されましたねぇ。

Dinamo Zagreb_miura.jpg

第2次大戦のナチスによる傀儡国家クロアチアや、「ウスタシャ」も紹介しながら、
セルビア人との長年の確執について言及します。
1945年にはベオグラードに2つのクラブ、レッドスターとパルチザンが、
クロアチアにはディナモ・ザグレブとハイジュク・スプリトという4強時代の幕開け。

1990年、独立目前の状況で行われたディナモ・ザグレブvsレッドスターの民族対決。
ザグレブのマクシミール・スタジアムでサポーター同士が激しく衝突し、
セルビア人警官隊もディナモ・サポーターに襲い掛かると、
10番を付けたボバンが警官に飛び蹴りを喰らわせて、一躍、国民のアイドルに・・。
有名な事件ですね。



その後、クロアチア代表は1998年のW杯でも日本と戦い、好成績を残しますが、
ボバンを筆頭にプロシネチキやシューケルも、この「ディナモ・ザグレブ」の出身なのです。

Dinamo Zagreb_Suker_Boban.jpg

予想以上に楽しめた一冊でした。
確かに購入当時に読んでいても、サッカー好きとしてそれなりに面白かったでしょうが、
独破戦線でスターリンやベリヤの本も読んできただけに、
本書に書かれている各国の歴史や秘密警察についても同じくらい
興味深く読みましたし、いろいろと調べてしまいました。

共産主義国家から民主化に移行したものの、現在の欧州サッカー界では、
多くの選手が西側のリーグへと流出し、国内のスタジアムは閑古鳥が鳴いています。
まして政府の「ディナモ」系クラブはクラブ自体の民主化にも乗り遅れて、
往年の名声を取り戻せないまま・・。
このようなことはサッカーだけでないことが本書では良く伝わってきました。



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幻の1940年計画 -太平洋戦争の前夜、“奇跡の都市”が誕生した- [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

指南役 著の「幻の1940年計画」を読破しました。

11月の「帝国日本とスポーツ」にも少し書かれていた1940年の東京オリンピック。
なにか詳しく書かれているものがないか・・と探していたところ、
2009年発刊、237ページの本書に辿り着きました。
実際のところ、その東京オリンピックに限定したものではありませんが、
このタイトルからして、ナチス・ドイツの「ゲルマニア計画」を彷彿とさせますね。

幻の1940年計画.jpg

「プロローグ」では戦後復興を象徴する4大プロジェクト、
「オリンピック」に「万博」、「テレビ放送」、「新幹線計画」が、
1940年に先行して行われる予定であったものの、戦争によって闇に葬られたこと。
そしてこの1940年の4大事業に光を当てることによって、
日本の30年代の本当の姿を掘り起こそう・・と語ります。

最初の事業は「東京オリンピック」です。
皇紀2600年の記念事業としてオリンピックを東京に誘致するアイデアが誕生した経緯、
中心となった永田秀次郎東京市長や、日本のIOC委員たちと奮闘、
極めつけは、強力なライバルである立候補都市のローマを脱落させるため、
副島委員によるムッソリーニへの直談判です。
「日本にとって皇紀2600年となる、この年のオリンピックを譲っていただければ、
次の1944年、日本はローマを支持します」。
これに「ローマは1940年の立候補は辞退しましょう」と笑顔で語るドゥーチェ・・。

Italian dictactor Benito Mussolini saluting during a public address.jpg

1936年3月にはIOC会長のアンリ・ド・バイエ=ラトゥールを招いて、「お・も・て・な・し」。
しかし僅か1ヶ月前には、あの「2.26事件」が起こっている東京です。
それでも1930年には銀座三越がオープンし、翌年には日本橋の白木屋、
1932年には同じ日本橋の三越が大々的にリニューアル、高島屋も日本橋に、
新宿には伊勢丹・・と、好景気による百貨店の群雄割拠の時代でもあるのです。
巻頭にはそんな時代の銀座の絵葉書も・・。

Ginza Street.jpg

結局、ラトゥールが東京支持を表明したことで、最後のライバル、ヘルシンキに9票差の勝利。
米英など主要な国々も東京に票を投じたのです。
本書は写真や、当時の新聞記事が多く掲載されているのが良いですねぇ。
ポスターも「ハニワ」だけじゃなく、それらしいのも作られていたようです。

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開催が決定したら、次にはメイン・スタジアムを決めなければなりません。
明治神宮外苑競技場は4万席しかなく、3倍の12万席に改修する必要がありますが、
内務省神社局からクレームが・・。
「神宮外苑は明治天皇を祀る由緒ある場所。工事なんてとんでもない」。

そこで世田谷区駒沢のゴルフ場跡地に新設することで落ち着きます。
1964年の第2会場になった場所ですね。
掲載されている完成予想図では仮設も入れて11万席と巨大なもの。。

komazawa 1940.jpg

1936年の夏季オリンピック「ベルリン大会」でも、同年2月に冬季オリンピックが
同じドイツの「 ガルミッシュ=パルテンキルヒェン」で行われたように、
当時は夏季オリンピックの開催国が冬季大会も優先的に開催できることになっています。
そこで決まったのが「札幌オリンピック」。1940年2月3日から12日間と決定するものの、
スキー競技がまだ後進国の日本には花形選手も存在しません。

1940_sapporo.jpg

しかし前回大会で弱冠12歳ながら、フィギアスケートで10位に入った国民的スター、
稲田悦子ちゃんが16歳に成長して、メダルも期待されるのです。
右から2人目の小っちゃい子が彼女です。

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は~、「幻の札幌オリンピック」も知りませんでしたが、悦子ちゃんも初耳です。
ちょっと調べてみましたが、12歳当時は身長も125㎝程度で、完全にジュニアですね。
今でいうところの浅田真央ちゃんと本田望結ちゃんを足したくらいの人気でしょうか??
それとも女子ジャンプの高梨沙羅ちゃんみたいなもんかなぁ??

Etsuko Inada_hitler.jpg

順調だった東京オリンピック計画も1937年に日中戦争が勃発したことで、
開催権を返上せざるを得なくなります。
その理由は、メインスタジアムを建設する「鉄」が兵器に回されるから・・。
政府や軍部はオリンピックにはさほど関心は示しておらず、
陸軍に至っては陸軍選手の派遣を断るほど、非協力的。

一方、IOCは「オリンピックは政治の介入を受けない」との理念が存在していることで、
日本が国連を脱退していようが、招致活動に影響はなかったのです。
今年、2020年の誘致活動を見ていて思いましたが、本来、都市が開催するオリンピック。
それがあまりにも巨大になり過ぎて、国の全面的バックアップが必要不可欠です。
コレって、なにかが間違っているような気もしました。

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続いての章は「日本万国博覧会」。
オリンピックと同じく、1940年に東京で開催予定だった、日本最初の万博のお話です。
1851年のロンドンで初めて開催された万博を日本でもという計画は
何度もあったものの、その都度に立ち消え。
そこでやっぱり皇紀2600年の記念として、1935年に国の事業として認可されます。
1940年3月15日から170日間、東京月島の埋立地、100万坪が会場予定地。
予定参加国は50か国、目標来場者数は4500万人というビッグイベントです。

Japan World’s Fair 2600_3.jpg

築地と会場の月島を結ぶ、「東洋一の可動橋」である勝鬨橋が建設されますが、
万博のインフラ、東京の都市整備としてはそんな程度です。
1923年の関東大震災からの大復興によって、1930年には東京は生まれ変わっており、
これ以上のインフラ事業は必要としなかったのです。

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1900年のパリ万博が財源として宝くじ付き前売り券で成功したことを見習って、
早々と発売。
しかし、オリンピックと同様、日中戦争の余波により「延期」に・・。

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この万博の前売り入場券。30年後の1970年「大阪万博」でも使用できたそうで、
実際、3000枚以上が使用されたそうです。
その理由は2つ。
1940年の万博が「中止」ではなく、「延期」とされたこと。
さらにこの東京での万博が「日本万国博覧会」という名称だったのと同様に、
「大阪万博」も通称であり、正式にはやっぱり「日本万国博覧会」。
すなわち、1940年に延期された万博が30年後に場所を変えて開催された・・、
といった感じですね。

Japan World’s Fair 2600.jpg

そういえば1970年の「大阪万博」。
この存在を知ったのは、我が家に「100円記念コイン」があったからです。
1964年東京オリンピックの「1000円銀貨」と共に、子供ながらに良く手にしていました。
そしてあるとき、父親に万博の話を聞いたところ、
写真を見せて、日本館の催しの仕事で兄貴を連れて行ったとのこと。。
東京オリンピックのときには生まれてないのでしょうがないにしても、
万博のときには生まれていましたから、
「なんでボクも連れて行ってくれなかったんだ!」と、泣いて抗議したのを覚えています。
しかし、まだ2歳ですからねぇ。。行っていたとしても記憶にないでしょう・・。

100_1000.jpg

次は「テレビジョン」。
1926年、世界初の「電気式テレビジョン」の実験が浜松高等工業で成功。
わずか40本の走査線ながら、ブラウン管に「イ」の文字を映し出します。
そんなテレビ誕生の歴史から詳しく展開。

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1936年のベルリン・オリンピックでドイツはベルリン市内を中心に
28か所でテレビ中継を行います。
となれば、4年後の東京オリンピックでも本格的な中継が検討され、
第一人者の高柳健次郎とNHKがタッグを組んで、
ベルリンの走査線180本を大きく上回る、441本を基準として開発がスタート。

1933  Kombinierter Fernseh- und Rundfunkempfänger der Firma Telefunken.jpg

しかし、ここでもオリンピック返上によって、本放送も延期が決定。
目標を失いつつも、研究と試験放送は続けられますが、
1941年に太平洋戦争が勃発すると、NHKのプロジェクトチームは解散を余儀なくされ、
リーダの高柳は、海軍でレーダー研究を命ぜられるのでした。

戦後、再びテレビの歴史が動き出し、1953年になってようやく放送開始となりますが、
確かに戦争がなければ、13年早い、1940年には始まっていたと思いましたね。

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「弾丸列車」。
なんとなく聞いたことのある名前ですね。テッチャンなら誰でも知っているんでしょうか??
1940年に立案されたこの計画は、東京~北京までを24時間で結ぼうというもので、
掲載されているこんな路線図を見ても、ホンマかいな・・?? と関西弁なってしまいます。

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線路の幅は1435㎜の広軌とし、東京~大阪間を4時間半、下関間なら9時間、
最高速度150㌔で運転するという「新幹線計画」です。
早速、1934年にデビューした最高速度120㌔を誇る、満鉄の「あじあ号」を研究。

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当時流行の流線型を取り入れた外観だけでなく、
全車両に冷暖房を完備し、食堂車では白系ロシア人の若い女性が給仕する夢の鉄道。

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新幹線計画は電気機関車なら時速200㌔も可能として進みますが、
軍が電化に反対します。
「敵の軍隊がやってきて、変電所がやられたら、いっぺんに動かなくなるではないか」。
そこで蒸気機関車のスピードアップの為に、あじあ号より大きい2m30㎝の巨大な動輪を採用。
これはナチス・ドイツが威信かけて作った「05型」と同じサイズで、
試験走行で時速200㌔を突破しているのです。
こうして「HD53型」と命名されて、さらに用地買収とトンネル工事が始まります。

ふ~ん。ナチス・ドイツの「05型」。初めて知りました。
弾丸列車ならぬ、「電撃列車」とかあだ名が付いていたのかも。。

DRG Baureihe 05.jpg

対馬海峡と朝鮮海峡の海底トンネル地質調査も1941年に行われ、
始発の東京駅をどこに置くのかも検討されて、市ヶ谷が最有力候補に・・。
しかし、遂に1943年11月、物資も人員も不足し、弾丸列車工事は中止。。
それでも戦後、東海道新幹線が着工からわずか5年で完成できたのは、
用地買収などの露払いを弾丸列車がやってくれたおかげなのでした。

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この弾丸列車の模型 ↑ ですが、ドラゴンズ・ブルーで格好いいですね。
来年2月からのスーパー戦隊は、「烈車戦隊 トッキュウジャー」だそうで、
ブルーレンジャーのモデルになっているかも知れません。。

Ressha Sentai Tokkyūjā.jpg

最後の章は「黄金の40年代」と題して、戦争の起こらなかった1940年を夢想します。
オリンピックに万博が開催され、テレビ中継がスタート。
戦後の街頭テレビといえば力道山が大人気コンテンツでしたが、
この1940年代の彼はまだ単なる関脇止まりの現役力士でしかありません。
とすれば、プロレス時代の力道山人気をも凌ぐ大横綱の双葉山が大スター。

Asahi Futabayama.jpg

相撲中継のNHKだけでなく、正力松太郎の日本テレビも黙ってはいません。
身内の巨人軍には大エース、沢村栄治が現役バリバリなのです。
また、東京オリンピックの公開競技として武道と共に決まっていた野球にも
沢村らプロ選手が出場できた可能性もあり、そうなれば視聴者も釘づけ・・。
1937年の春には24勝4敗、防御率0.81、奪三振196の怪物も、
現実には翌年から3度の兵役の末に手榴弾の投げ過ぎで肩を壊した挙句、
1944年、乗っていた輸送船が台湾沖で米潜水艦に雷撃されてしまったのです。

今年、とんでもない成績を挙げたマー君が、メジャーに行くどころか、
その米国に殺されてしまったと考えたらやり切れませんね・・。

Sawamura Eiji_stamp.jpg

他にも、ドイツのアウトバーンと同様に、「弾丸道路」構想が
1930年代に持ち上がっていたという話や、
三菱重工に中島飛行機、川崎航空機など世界有数の航空機メーカーによって、
航空産業も世界の最先端を走っていたはずだ・・と夢は続きます。

こういう本は読んでいて楽しいですね。
所々、手塚アニメのような世界も連想させますし、「帝国日本とスポーツ」を読んだ後だけに、
IFとして、日本のスポーツがどうなったのを考えるのも面白い。
関東大震災」の結果、東京が近代的に整備されていた話も納得です。
また、ナチス・ドイツの状況にも触れられているのも、当然、楽しめましたし、
端折りましたが、李香蘭(山口淑子)の人気のほども知ることが出来ました。

Lee Hsiang Lan 1941.jpg

幻の東京オリンピックについては、さらに専門的そうな一冊、
「幻の東京オリンピックとその時代―戦時期のスポーツ・都市・身体」があり、
また似たようなタイトルで紛らわしいですが、
「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」が年明けに文庫化。
皇紀2600年の日本を外国人が分析したものとして、
「紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム」が出ており、
非常に気になっているところです。

年末にはBS1で「幻の祝祭~1940東京五輪物語~」というドキュメンタリードラマを
放送するそうで、これもちょっと楽しみです。









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帝国日本とスポーツ [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

高嶋 航 著の「帝国日本とスポーツ」を読破しました。

9月の洋書写真集「第三帝国のスポーツ」と偶然にも似たタイトルの300ページの本書は、
昨年に発行された時から、そのレトロ雰囲気の表紙からして気になっていました。
戦前、戦中のプロ野球や、大相撲についても読んできましたので、
明治神宮競技大会を中心とした、大日本帝国のスポーツとは如何なるものであったのかを
キッチリ勉強してみたいと思います。

帝国日本とスポーツ.jpg

第1部は「極東選手権競技大会の系譜」です。
1910年にフィリピンのYMCA体育主事に就任したエルウッド・ブラウンによって
「極東オリンピック」が提唱されます。
19世紀末にフィリピンを領有することになって、アメリカ化を推進していた米国は、
中国や日本をまわり、極東オリンピック協会の設立を協議しますが、
大日本体育協会の会長であり、IOCメンバーでもある嘉納治五郎は、この提案に消極的。
その理由は、
①フィリピン、中国にいるアメリカ人が主導権を握っている。
②キリスト教の宣伝に利用されている。
③オリンピックで充分である・・など。。

20代のころは講道館の近所に住んでいましたので、嘉納治五郎の銅像とは
毎日のように顔を合わせていました。当時は「柔道の父」とだけ知っていましたが、
オリンピックにも深く関わって、「日本の体育の父」とも呼ばれていたんですね。

Kanō Jigorō.jpg

1913年に開催された極東オリンピックは、本家のクーベルタン男爵からクレームを付けられて、
第2回から「極東選手権競技大会」へと改称することに・・。
そして隔年で東京大阪でも開催され、アメリカ人の影響もなくなって
日本、中国、フィリピンの3国の極東人の手による極東大会となりますが、
審判の不公平によって選手団が試合放棄するなどの問題も・・。

Far Eastern Championship Games 1923.jpg

また1931年に満州国が誕生すると、中国ともこじれ、独立を目指すフィリピンの立場など、
3ヶ国の外交はキナ臭くなってきます。
そして1936年、次回1940年の東京オリンピック開催権を獲得した日本。
ベルリン・オリンピックで導入されたギリシャのオリンピアからの聖火リレーも、
「聖火」ではなく、天孫降臨の地か、神社で採火した「神火」をリレーすべきとの意見も。。
これもオリンピックが皇紀2600年の奉祝行事の一環であるという認識からですが、
結局、日中戦争の勃発によって1938年には開催権を返上することに・・。

ポスターまで作ってたのに残念ですが、ハニワってセンスが凄い。。
1936年のガルミッシュパルテンキルヒェン冬季オリンピック切手を彷彿とさせますね。

1940 Tokyo Olympics.jpg

「極東選手権競技大会」も消滅し、「東京オリンピック」も返上することになった日本。。
満州国と中華民国臨時政府という、日本の傀儡国との国際スポーツ競技会を開催します。
「紀元2600年奉祝東亜競技大会」と銘打って、1940年6月に東京と大阪で開催。
日本選手294名、満州国から196名、中国82名、フィリピン77名、ハワイからも17名、
蒙古から12名、在留外国人が26名の、総勢704名です。
実施競技は陸上、サッカー、テニス、ホッケー、ボクシング、バレーボール、ラグビー、
バスケットボール、ヨット、レスリング、自転車、卓球、野球など。

東亜競技大会.jpg

「勝てばよいという西洋の競技中心主義を根こそぎ捨てて、東亜スポーツ精神を昂揚させた」
と言いつつも、「盟主日本の面目にかけて優位に立つ」ことが必要です。
結果は、35種目の競技のうち、25種目を制する日本の圧勝。
しかし準備不足も手伝って、観客も不入り。開会式でさえバックスタンドの芝生席はがら空きで、
ベルリン・オリンピックの再現は「夢想」に終わるのでした。

the 26th centenary asia athletic meet 1940.jpg

第2部は「明治神宮大会の系譜」です。
1924年10月、完成間もない神宮外苑競技場で内務省主催による
「第一回明治神宮競技大会」が挙行されます。
これは名称を変えながらも1943年まで続き、
戦後は「国民体育大会(国体)」に形を変えて、現在に至っているわけですね。
本書は白黒ながらも所々で当時の写真や、ポスター、参加章などが掲載されていて、
今は無き、明治神宮外苑競技場の全景も・・。

Athletic Grounds at the Outer Precincts of Meiji Shrine.jpg

先の「紀元2600年奉祝東亜競技大会」もここで開催されており、
1956年に取り壊され、1964年の東京オリンピック向けて、「国立競技場」が建設されます。

National Olympic Stadium (Tokyo).jpg

東京オリンピックの時には姿形も無かったヴィトゲンシュタインですが、
1995年のトヨタ・カップなど、3,4回は足を運んだことがあります。

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しかしこの「国立」も、来年には取り壊し工事が始まり、
2020年のオリンピックに向けて「新国立競技場」となるんですね。
近未来的なデザインも悪くはないですけど、50年もすれば、また古臭くなるんだから、
日本らしい、例えばお城などをイメージできるような外観も良いと思うんですけどね。

新国立競技場.jpg

さて、明治神宮大会は「国民の祭典」として、広く国民すべてが同じ土俵で戦おうというもので、
当時、日本で唯一のプロ・スポーツである「相撲」のみ、素人限定とされます。
オリンピックもアマチュア・スポーツと定義されていますが、
1920年のオリンピック日本予選では、長距離競争のプロが排除。
彼らは「車夫、郵便配達夫、牛乳配達夫、魚屋」であり、
脚力を職業としている「プロ」扱いなわけです。
しかし、この明治神宮大会では彼らのマラソンへの参加などが認められるのでした。

jinguugaien-jyuyo.jpg

「明治神宮国民体育大会」と改められた1939年の第10回大会。
これまで「明治天皇を敬慕し、平素の鍛錬の成果を奉納する」ことであった大会の趣旨は、
日中戦争が始まったいま、「体育国策」として、「国民精神総動員の具現」へと変化・・。
国家にとっての重要性を示す序列化が行われ、
剣道、柔道、弓道、相撲、国防競技、集団体操、陸上、馬術、射撃、体操、蹴球、
ラグビー、野球、排球、籠球、漕艇、庭球、ホッケー、卓球、ヨット、自転車と、
武道が上位に、球技と乗り物が下部に置かれます。
人気スポーツのサッカーやバレーボールが、集団体操にも負けるわけですね。。

10th medal.jpg

また、ボクシングに至っては除外されてしまいます。
「日本には武道があるから、そういう外来の拳闘などはいらん」。
参加を申請していたフェンシングとレスリングも同じ理由で不承認です。
ちなみに「国防競技」には、行軍競争、障碍通過競争、手榴弾投擲突撃、土嚢運搬継走、
牽引競争といった種目があるそうですが、種目単位しかないんでしょうか?
現在の陸上十種競技のように、得点に換算して勝者は
「キング・オブ・国防」と称えられたり・・、なことはないですね。。

手榴弾投擲.jpg

1941年の第12回大会になると、さらに戦時色が濃くなってきます。
軍事的見地から、「体力章検定級外甲合格」を大会参加資格としますが、
1939年に制度化されたこの運動能力テストは15歳~25歳の男子を対象とし、
合格ラインとなる初級の場合、100m走を15秒、2000m走を9分、走幅跳を4m、
手榴弾投を35m、40kg運搬を50mで15秒、懸垂を5回・・。
こりゃ結構、キビシイですね。ナチス・ドイツでも似たことやってましたっけ。。

体力章検定 .jpg

さらに競技種目の整理。
前回大会で朝鮮人選手の独壇場となった重量挙げが除外され、
ホッケーやハンドボールも。
あらゆる階層に浸透しつつあった卓球も同様ですが、戦時下のスポーツとしては、
「女わらべのお手玉遊びに類する競技をもって、真摯敢闘の精神云々も・・・」。

1934_Table tennis team.jpg

この12月に太平洋戦争が始まると、翌年は「明治神宮国民錬成大会」と改称されます。
厚生省、文部省が主導する各種大会も開かれ、スポーツ界は活況を呈する反面、
民間主催の大会は中止を余儀なくされ、朝日新聞社も野球の甲子園大会を中止。
「錬成」の主たるものは「体操」で、明治神宮大会に占める比重は大きくなり、
各種集団体操の多さにスタンドからも「また体操か」との声も上がります。

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本書では大会ごとの体操を一覧表で・・。
鉄道省体操団1300名による「国鉄体操」に、土浦海軍航空隊1000名の「海軍体操」、
女子専門学校連合1200名の「女子専門学校体操と大日本女子青年体操」などなど・・。

明治神宮国民練成大会 1942.jpg

最後の第3部は「大東亜会議と明治神宮大会」と題して、
神宮外苑競技場ではよく映像でも流れる「学徒出陣」にも言及します。
また、1943年の最後の大会はより詳細に分析し、
最後に残ったのは集団訓練と体操、そして演武形式による相撲と武道。
スポーツといった対等に勝敗を争い、ときに偶然が勝敗を決める競技ではなく、
指導者の号令に従い、ただ黙々と身体を動かす体操には偶然性や自主性が
つけ込むスキはありません。そしてそれが戦時下では大きな利点だとしています。

学徒出陣_明治神宮.jpg

予想以上に楽しめた一冊でした。
集団体操など、思わず喰いつくような写真がいい塩梅で出てくるあたりも
読んでいて興味が途切れない理由でしょう。

著者は中国史の研究者である京大の准教授の方ですが、
ありがちな論文のような書き方ではなく、この時代のアジア全般についても
非常にわかりやすく書かれていて、勉強になりました。
とはいえ、中国の傀儡政権だけは、ど~もややこし過ぎますね。
コレを理解するのには、「ニセチャイナ」を読んでみる必要がありそうです。

ニセチャイナ.jpg

英米的、自由主義的、個人主義的という言葉を冠せられた「スポーツ」。
外来のスポーツは日本において発展するどころか、
戦局と共に武道と体操、軍事訓練に場所を譲る羽目になったのです。
2020年の東京オリンピックに向けて、本書のように
日本スポーツの歴史を振り返ることも大事なことかもしれませんね。





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おすもうさん [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

高橋 秀実 著の「おすもうさん」を読破しました。

2年ほど前から「何か相撲の本を読んでみたい」と思っていました。
江戸時代のスター「力士雷電」なんかが気になっていましたが、
2010年発刊で272ページの本書をなんとなく一発目に選んでみました。

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ヴィトゲンシュタインが小学生の頃、本場所のTV中継は家族揃っての観戦。
大関、貴乃花が人気絶頂で、ライバルの高見山、横綱は北の湖に輪島の時代です。
母親はなぜか魁傑の大ファンで、その時だけ「きゃ~きゃ~」言ってましたね。
いったいドコが好きだったのか、一度、聞いておけばよかった・・。

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本書の著者は相撲好きのノンフィクション作家であり、外国人向け季刊誌に
相撲を紹介する記事を書くことになっていた話から始まります。
しかし、相撲を知らない外国人にどうやって説明するか・・??
相撲を取る人のことを「相撲取り」と呼ぶし、土俵から押し出すことは「押し出し」、
寄り切ることは「寄り切り」、相撲取りを呼び出す人を「呼出」というわけで、
名詞と動詞が一緒では何の説明にもなりません。

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本場所も朝一から観戦して、日々の稽古こそ「相撲道」の現場・・ということで、
追手風部屋を訪れて、幕下以下の若い衆の稽古の様子とインタビュー。
兄弟子が怖くて思いっきり当たれない・・、喧嘩もしたことないから突っ張れない・・と語る、
巨漢中学生というだけでいつの間にか部屋に連れて来られた若者たち。。
「一般の人は簡単に『横綱目指して頑張って』とか言いますよね。軽々しく言うな、と思います。
横綱になるってことは野球だとイチローになるくらい難しいんです」。
彼らの目標は「雪駄が履ける三段目」や、「給料がもらえ、関取と呼ばれる十両」なのです。

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この当時の追手風部屋の出世頭はグルジアからやって来た「黒海」です。
外国人力士たちが活躍する今の相撲界。
四股名も「風斧山(かざふざん)」に、「琴欧洲」、「把瑠都」、「大露羅(おおろら)」と
ヨーロッパ大陸や大自然を背負っています。
好きだった「把瑠都」は引退してしまいましたが、
来場所からエジプト出身の「大砂嵐」が新入幕です。応援しますよ。

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ちなみに現在、黒海も引退し、この部屋の出世頭はあの「遠藤」くんなんですね。
日本人力士では「右肩上(みぎかたあがり)」とか、「爆羅騎(ばらき)」、「弾丸(だんがん)」など
変わった四股名のおすもうさんが現在もいますが、明治から昭和初期は半端じゃありません。
本書には載っていませんが、笑えるヤツをいくつか紹介してみましょう。

膃肭臍 市作 (おっとせい いちさく)
猪シ 鍋吉 (いのしし なべきち)
三毛猫 泣太郎 (みけねこ なきたろう)
月ノ輪 熊之介 (つきのわ くまのすけ)
電気灯 光之助 (でんきとう ひかりのすけ)
自動車 早太郎 (じどうしゃ はやたろう)
浦島 亀之助 (うらしま かめのすけ)
鬼の臍 常吉 (おにのへそ つねきち)
文明 開化 (ぶんめい かいか)
突撃 進 (とつげき すすむ)
凸凹 太吉 (でこぼこ たきち)
ヒーロー 市松 (ひーろー いちまつ)
一二三山 四五六 (ひふみやま しごろく)
大丈夫 吾三郎 (だいじょうぶ ごさぶろう)
馬鹿の勇介 (ばかの ゆうすけ)

来場所からは序二段の桜潮が「宇瑠虎 太郎(うるとら たろう)」に改名するそうです。
負けてないですねぇ。。

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相撲では「立合い」がとても重要なのはお好きな方ならご存知だと思いますが、
息が合わなくて、「待った」をすると正面審判長からお叱りを受けてしまいます。
江戸時代の初期には行司の合図によって力士は立ち合っていたそうですが、
八角という力士が「待った」を考案・・。
以来、「待った」が流行して、仕方なく行司は合図を止めてしまったそうです。
明治45年の天覧相撲では、ある取組で「待った」を54回、
立ち合うまでに1時間37分もかかったという逸話まで・・。

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しかし昭和3年にラジオ中継が始まると、放送時間に合わせるために
「仕切り制限時間」が設けられ、幕内は10分、幕下以下は5分以内となります。
かなり現在と似たルールですが、10分はまだ長いかな??
今は「時間いっぱい」で立つのが基本ですが、昔は「時間内に立つ」のが多かったとか。
3月場所で白鵬が時間前に立ったことがありましたけどね。
そういえば子供の頃、親父曰く、
名古屋で相撲観てて、新幹線で帰ってきたら、その取組がまだ仕切ってた」。
まぁ、酔っ払いのジョークなんでしょうが、半分信じてました・・。

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100ページを過ぎると「国技たる相撲とは」といった重要な問題へ・・。
結論から書くと、日本大相撲協会は自ら「国技」だとは名乗っておらず、
政府にしても国宝やら国歌、国旗のように、「国技」と認定しているわけでもありません。
明治時代まで本場所は両国の回向院で一場所10日間の年二回開催。
「1年を、20日で暮らす、いい男」なんてのを聞いたことがありますね。

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野外のため大雨が降ったら中止という粗末な競技ですが、
欧米人に町中を裸で歩いているのを見られるとみっともないと「裸体禁止令」も出て、
遂に明治42年、高さ30mのドーム型スタジアム「国技館」が完成します。
そして「国技館」と名付けられたことで、そこで行われる相撲は「国技」であると・・。
行司の装束も「いかにも」昔風の装束へと変えられ、海外からの国賓も観戦。
しかし、相撲の内容は昔ながらの「暢気」なまま・・。
東京朝日新聞によれば、「八百長に次ぐに八百長を以ってしている。
幕内の力士でも、いやに力の入らない様な取り口をしている。行司もニヤニヤ笑っている。
力士が四つになって、右へ行ったり左へ行ったり、丸でダンスをやっているようだ」。

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さぁ、来ました。相撲と切っても切れない「八百長」です。
大正7年に出版された本では「八百長の禁止は、絶対に不可能である」と記され、
その場所に昇進のかかっている場合、勝ち星を借り、次の場所で返すというもの。
義理人情の為せる技であり、それを拒絶しようものなら、
「あの男はまったく任侠(おとこぎ)がない」と爪弾きにされ、
断ったことで体が強張って、結局負ける。だったら素直に応じた方が得をするのだ。。

数年前にも「無気力相撲」問題が起こりましたが、ある意味、伝統ですね。
当時、国技となって不正、呑気許すまじと価値観が一転すると、
国技らしくないという非難は、「武士らしくない」という言葉へ展開します。
しかし江戸時代に「武士道」を確立した山鹿素行は、
相撲ばかりやると怪我はするし、手足が太くなって見苦しくなるということで、
相撲は相撲取りがする「遊芸」の見世物と説明。
もともと武士道からも外されているのに、「武士道を名乗る資格がない」と
非難されたおすもうさんたち。彼らにとってはほとんど言い掛かりです。。
また、武士道の一種であるかのような「相撲道」などと称されるようになったのもこの頃で、
それまで、そんな「道」はありません。

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今でも「国技なのにだらしない」、「相撲道の精神に背く」という批判的な言い方がある相撲。
昭和の戦時体制に入ると、日本精神を具現化した我が国、固有の技として持ち上げられます。
月刊誌「野球界」は、昭和18年に「相撲と野球」となり、翌年には「相撲界」へ。
米国からの輸入品である野球とは、雲泥の差が出てくるんですね。
「肉弾と肉弾がぶつかり合い、土俵の外へ、踵が一厘、爪先が半毛出ただけでも
敗となるような、厳酷な競技は相撲を除いて、世界中どこを尋ねてもない」。
昭和14年からは「満州場所」も行われ、兵士たちも各戦地で、
或いは艦上で、相撲大会を頻繁に開催します。

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過去に読んだ本でもヒトラーがその強さを褒め称えていたおすもうさん。
来日したヒトラー・ユーゲントも大横綱、双葉山に会いに行っています。

やがて神風特攻が始まると、まさに「体当たり精神」そのものの相撲こそ
見本であると、本場所は開催され続けます。
どことなく「ナチス第三帝国とサッカー」を思い出させますね。 
力士たちも招集され、ピーク時の半分、450人に減り、
残った力士も栄養失調で体重が50kgも減ってしまいます。
そして昭和19年、「風船爆弾」の製造のために天井の高い建物が必要ということで、
ドーム天井の国技館は陸軍兵器行政本部に接収され、
追い出された国技は後楽園球場へ・・。
翌年には東京大空襲。関東大震災で被害を受け、今度も館内は全焼してしまうのでした。

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本書では詳しく書かれていませんが、戦後はGHQによって「メモリアルホール」となり、
蔵前に新たに「国技館」が。そして再び、両国に現在の「国技館」が・・という歴史ですね。

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国技、相撲道について面白おかしく振り返って来た本書ですが、
ここにきて最近の流行言葉のひとつを紹介します。それは「品格」。
この「品格」を誰が求めているのか・・?? それは「横綱審議委員会」です。
昭和25年、5日目までに3横綱全員が休場してしまい、世間から非難を浴びると、
協会は、横綱も成績次第で大関に降格させると決定するものの、
自分たちで決めるとお互い角が立つので、第三者に話し合ってもらおうとして誕生した
第三者委員会ですが、答申と進言をするだけで、実は決定権も責任もありません。

朝青龍が巡業さぼって、モンゴルでサッカーをやっていたのがバレると、
審議委員である内館牧子氏は、
「横綱がやることではない。たとえ己の本心に反してでもだ。これも武士の姿勢だろう」。
個人的には、女性が土俵には上がれないという独特の世界である大相撲に
こんなおばちゃんが物申すのを以前から不思議に思っていましたが、
著者も「武士の姿勢」や、相撲に「品格」の伝統があるわけではないと、
横審に対しては筆も辛辣です。

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後半、立行司である木村庄之助 (33代)のインタビューも面白かったです。
唯一、決定戦以外は本割での同部屋力士同士の対戦はないものの、
行司も呼出も審判もみんなどこかの部屋に所属しており、
その内輪の世界で勝敗が決定されるわけです。
公平・中立という観点からは程遠いシステムですね。
野球でいえば、球団オーナーたちが審判やってるみたいなもんです。。

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行司の黒星である「行司差し違え」についても詳しく解説。
立行司は腰に短刀を差し、「腹を切る覚悟」をしていますが、あくまで"覚悟"。
差し違えた場合には「進退伺い」を出すというところまでは知っていましたが、
もちろん、腹を切った人もいなければ、辞めた人もいません。
進退伺いの段取りとしては、まず理事長室に入り、審判長がお詫びの言葉を話すと、
すぐ理事長がそれを遮り、「今日の勝負は際どかった。あれは仕方ないでしょう。
見る位置も難しかったし、また明日から頑張ってください」という激励の言葉が・・。

9月場所でも、常幸龍-嘉風の一番で顔面に回し蹴りが入ったりして、
行司さんも実に大変です。
この時にも口の中を切りながらも「勝ち名乗り」までシッカリこなしていましたが、
やっぱり、四股名を忘れてしまうことがあるそうです。
土俵上で直接本人に「名前は何だった?」と小さな声で訊いたものの、
本人は息を切らしてハアハアしているし、何を訊いているんだ?という顔をして・・。

常幸龍_嘉風.jpg

そんな場合には伝統的な名乗り方でその場を凌ぐそうです。
「むにゃ~むにゃ~」。

行司さんの仕事は多肢に渡り、場内アナウンスもその一つです。
過去に木村さんは「東方、横綱、千代の富士」とアナウンスすべきところを
正面審判長の九重親方の姿が目に入り、思わず「東方、横綱、北の富士」と・・。
わかる人がわかる・・というネタですが、
現役時代は知りませんが個人的には北の富士の解説が一番好きです。
特に向こう正面の解説が舞の海だと、イジラれまくってより楽しめますね。

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読み終えて思ったのは、現在の大横綱、白鵬が手本とする昭和の大横綱の双葉山。
確かに双葉山は連勝記録も持っていますが、
その大活躍は戦時の時であり、大相撲が国家スポーツ化した時であるわけです。
だとすれば、その言動や立ち振る舞いも、少なからずコントロールされていたのでは??
そしてその実力と品格が横綱のイメージとして確立したのでは??

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まぁ、難しいことはともかく、純粋に楽しめた一冊でした。
写真が一枚もないのは残念でしたが、ヴィトゲンシュタインのように
"普通に"大相撲中継を観てきた程度の人間でも
何度か思わず「けけけ」と笑ってしまいましたし、
中学生の時に20回は読んだ筒井康隆の「走る取的」が読みたくなって、
本棚からその短編が収められている「メタモルフォセス群島」を引っ張り出しました。
いや~、「走る取的」、この歳になってもホント恐ろしい話です。





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ナチス第三帝国とサッカー -ヒトラーの下でピッチに立った選手たちの運命- [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

G.フィッシャー、U.リントナー共著の「ナチス第三帝国とサッカー」を読破しました。

かなり前に購入していたものの、ず~と読むのを忘れていた2006年発刊237ページの本書。
先日、洋書の大作、「第三帝国のスポーツ」を読んだ勢いでやっつけてみました。
20数年来の海外サッカー好きですし、当時はテレビ埼玉で放送されていた
「ブンデスリーガ」も毎週欠かさず見ていました。
Jリーグが発足されると、まずリトバルスキーの所属するジェフ市原のファンにもなりましたっけ・・。

ナチス第三帝国とサッカー.jpg

「序文」では本書の意図するところは、1933年-1945年のサッカー史に
ナチスが与えた影響を示すこと、
それから、当時のサッカー選手がどの程度、道具として利用されたのかを示すこと・・とします。
帝国スポーツ指導者であるチャンマー・ウント・オステンが代表チームの前で語った言葉、
「皆さん、いいかな、フェアプレーでいこう。行く手には歴史を画することが待っているようだ。
この試合は単なるサッカーの試合ではない。それ以上のものである。
それは友情のデモンストレーションなのである」。
これは1941年4月6日の対ハンガリー戦の際の言葉ですが、
その2か月後に「バルバロッサ作戦」の盟友として参戦する・・ということですね。

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第1章「ナチスとサッカー」では、ヒトラーのスポーツに対する考え方を「わが闘争」などから抜粋。
また、ヒトラーが若者のスポーツを推奨していたにも関わらず、
自身は生涯にわたりスポーツ活動から距離を置いていたことについて、
「その競技で1位になれないなら、参加することさえできない」と考えていたとしています。
確かに、馬にも乗りたくない、ボートも漕ぎたくない・・って話もありましたね。
そしてお気に入りのスポーツは、メルセデスを中心とした自動車レース
偉大なチャンピオン、マックス・シュメリングのいるボクシングです。

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1920年代、ドイツには様々なスポーツ・クラブが存在していますが、
1927年にSA(突撃隊)にもスポーツ局が設立されます。
国防強化スポーツとして格闘競技や野外スポーツの必要性を重要視し、
ベルリンでは「ナチ党体操スポーツ部」と名乗ります。
あ~、なるほど。SAがスポーツ団体だっていう言い訳はココからきてるんですか。。

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第2章は「忘れられたサッカー史」と題して、当時のDFB(ドイツ・サッカー協会)などを、
続く第3章「第三帝国で6度のチャンピオン」へ・・。
このナチス時代、1933年~1945年の半分で栄光に輝いたのは「シャルケ04」。
現日本代表のDF内田くんの所属する人気クラブですね。
オラフ・トーンの名前が出てきましたが、懐かしいなぁ・・。

Olaf Thon.jpg

シャルケ04はルール地方の炭鉱地帯の真ん中にある、労働者のためのクラブ。
多くの人にとって宗教でもあります。
エース・ストライカーであってもあくまでアマチュアが建前ですが、
実際、選手は炭鉱に潜ることもなく、休暇も多く、手当も出ます。
1941年のサッカー選手権決勝では、オーストリアのラピッド・ウィーンに3-4で敗れますが、
これは併合されたオストマルクにも大ドイツのチャンピオンを誕生させようという
イカサマだったのでは・・と推測します。
本書では当時、シャルケに所属していた選手へインタビューも行っていますが、
全体的にはナチスとの政治的な関与はなかった・・語っています。そりゃそう言うでしょう。

Die Schalker Meistermannschaft von 1939 posiert mit Hitlergruß im ausverkauften Stadion.jpg

それにしても本書はそこそこナチスとドイツのサッカーを知っているヴィトゲンシュタインでも
なかなか難しいんですねぇ。
1963年にブンデスリーガになる前の国内大会のレギュレーションが全然わからないので、
所々に出てくる「大管区リーグ」の話などを繋ぎ合せて、
その「大管区リーグ」の優勝クラブがトーナメント方式のドイツ・サッカー選手権に出場する・・
ということがなんとか理解出来ました。
まぁ、高校サッカーや高校野球と同じような感じでしょうか。
写真はいくらか掲載されてはいますが、せめてこの期間の優勝チーム一覧や、
代表チームの相手と戦績くらいはオマケでも載せて欲しいですねぇ。
そういえば、今年はブンデスリーガ50周年です。

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第4章「首都は揺れ動く」では、ナチスの首都だけにバイエルン・ミュンヘンと1860ミュンヘン。
1920年から1930年の期間ではドイツ全土のランキングで1860が6位、バイエルンが9位と
1860ミュンヘンがこの首都で最も成功を収めていたクラブだったそうです。

Alexander ZICKLER_Bayern, Harald CERNY_1860.jpg

いや~、1860ミュンヘン・・懐かしい響きですなぁ。
若い頃は、「1860」をドイツ語で言えたんですが、スッカリ忘れてしまいました。
例えば「1.FC Köln」は大抵「イチ・エフシー・ケルン」と発音するのが当たり前だった当時、
なんで日本語と英語とドイツ語が混じってんだ・・?? とばかりに、
格好つけて「エルステー・エフツェー・ケルン」なんて言ってましたね。
確か"1"はアインではなく、1901年のエルステー「最初の(ファースト)」って意味だったかと・・。

Pierre Littbarski_1.FC Köln_1985.jpg

1860年の設立当初は体操クラブであった1860ミュンヘンですが、
後のヒトラーの副官としても知られるブリュックナーも会員であり、
1936年に会長の座に就いたのはエミール・ケッテラー博士というナチ党員です。
SA隊員でもあった彼は、SA幕僚長レームの侍医も務めていたという人物なんですね。
そして財政危機に陥るとバイエルン州の内相で大管区指導者でもある、
アドルフ・ワーグナーが手助けに・・と、どっぷりとナチ・サッカー・クラブに・・。

Wilhelm Brückner.jpg

一方、バイエルンは「ユダヤ人と紳士のクラブ」。
会長のランダウアーもユダヤ人で、迫害を恐れてジュネーブへ逃亡。
しかし4人の姉妹は強制収容所で死亡します。
1935年にはスポーツクラブの全会員は「アーリア人証明書」の提示が義務付けられ、
これによってバイエルンも「アーリア化」されます。
毎週火曜日の練習後には、下っ端ナチ党員の講義が行われ、
いつ総統が生まれたか・・といった検査に合格した者だけが「選手証」に
スタンプを押してもらえ、ようやくプレーすることが可能になるのです。

salute_1938.jpg

第5章は、そんな迫害されたユダヤ人のスポーツ選手に注目します。
クラブに足を踏み入れることができなくなったことを苦に自殺したローゼンフェルターという選手。
過激な反ユダヤ主義者のシュトライヒャーは「シュテュルマー紙」に追悼文を掲載します。
「ユダヤ人はユダヤ人であり、ドイツのスポーツ界に彼らのための居場所はない。
ドイツはドイツ人の祖国であり、ユダヤ人の祖国ではない。
ドイツ人には祖国でやりたいことをする権利がある」。

stuermer_1934.jpg

ちなみに本書では「シュテュルマー(突撃兵)」は、「フォワード」と英語訳されていますが、
本当にサッカーのフォワードって、ドイツ語ではシュテュルマーって言うんですね。
本書の原題も「Stürmer für Hitler」でした。

Stürmer für Hitler.jpg

続いて第6章は戦争が始まっても続く、ドイツのサッカーです。
ポーランド侵攻後の1939年11月、チャンマー・ウント・オステンは全国選手権の続行を許可。
間もなく、占領地であるヴァルテラントと総督管区から、ベレッケ・クラカウとSDWポーゼンという
旧ポーランドのチームも参加。しかしそれ以外の土地では「スポーツ絶対禁止」です。
また、帝国スポーツ指導者の名を冠した国内カップ戦、チャンマーポカールも開催。
これは現在のドイツ・カップ(DFBポカール)の前身で、
ポカール(カップ)は戦後、作り直されたようです。もちろん、メダルも・・。

tschammerpokal und Medaillen.jpg

過去に「ディナモ -ナチスに消されたフットボーラー-」と、「バービイ・ヤール」で紹介した
ドイツ空軍チームvsウクライナの地元チームによる「死のサッカー」も詳しく書かれます。
また、強制収容所の囚人チームvs看守チームによる対戦例もいくつか紹介。
国内のサッカー選手も前線に駆り出され、ドイツ本土は空襲に見舞われるものの
1944年まで全国選手権は続けられています。

Der Reichsadler kennzeichnete Wehrmachtssoldaten.jpg

そしてこの年の6月、まさにノルマンディに連合軍がわさわさ上陸している時に決勝戦が開催。
当日の早朝になってようやく会場がオリンピア・シュタディオンであると発表されるものの、
このドレスデンSC vs ハンブルク空軍スポーツクラブの試合に7万人が押し寄せたそうです。
15分ごとに防空状況が伝えられ、いざベルリン空襲が始まれば、観衆はちりぢりになって
逃げ出さなければなりません・・。ドイツ人、こんなにサッカー好きだったとは・・。

1936_Olympische_Sommerspiele_Fussball.jpg

しかし9月になると遂に16歳から60歳までが「国民突撃隊」として招集。
ここに至って全国選手権も中止を余儀なくされ、スタジアムにクラブハウスも崩壊します。
それでもミュンヘンでは実にしぶとい男たちが親善試合を行います。
バイエルンが1860ミュンヘンを3-2で下したこの試合、
時は米軍がミュンヘンの門の前まで迫っていた、1945年4月23日です。

ちなみにブンデスリーガで優勝すれば、↓ お馴染みのお皿 「マイスターシャーレ」ですが、

Meisterschale 1995 Dortmund_Möller.jpg

1903年から1944年までは、勝利の女神であるヴィクトリアのトロフィーだったようです。
ナチス時代の最強クラブ、シャルケ04の1935年チャンピオンの面々とヴィクトリアの図。

Der Deutsche Meister des Jahres 1935, Schalke 04, posiert mit der Viktoria.jpg

最後の章は戦後のドイツ・サッカー協会がこのナチスの時代に向き合おうとしないと非難。
ドイツ国歌(世界に冠たる我がドイツ)の3番だけを唄うことになった件や、
1954年のワールドカップで西ドイツが優勝した「ベルンの奇蹟」などにも触れますが、
1958年にあのルーデル大佐が代表チームを表敬訪問したことに大いに噛みつきます。
曰く「元ナチ大佐」、「ヒトラーのお気に入りの殺人者」。
まぁ、ルーデルが戦後もナチ派だったことは知っていますが、
戦争で戦ったパイロットを「殺人者」ってのはどうでしょうねぇ。

Hans-Ulrich Rudel2.jpg

結局DFBは過去のユダヤ人や左翼系選手の追放についていまだに謝罪もせず、
ベッケンバウアーも含めて「右寄り」であると締め括っています。

cruyff-and-beckenbauer.jpg

現在のサッカーは、クラブ・レベルでは強豪になればなるほど外国人選手も多くなり、
場合によっては自国の選手がスタメンに1人もいない・・と問題になるほどです。
そんなこともあってか、代表チームのナシュナリズムに入れ込むのも
また必然のような気もします。
日本でもJリーグ人気はそれほどでもないのに、日本代表となると異常なほど盛り上がる・・。
特に韓国戦では旭日旗など、いろいろ揉め事も多くなっているように、
ドイツ代表チームが右寄りであると非難するのは、若干的外れな考え方だとも思いました。



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