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外交舞台の脇役(1923‐1945) -ドイツ外務省首席通訳官の欧州政治家達との体験- [ヒトラーの側近たち]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

パウル・シュミット著の「外交舞台の脇役(1923‐1945)」を読破しました。

過去に読んだ第三帝国モノで「不撓不屈の通訳官」と書かれた人物の回想録である本書は、
1998年、663ページという大作なのもさることながら、すでに絶版で、
定価3500円がamazonでは倍以上の値段がついており、見送っていました。
著者シュミットはミュンヘン会談など、ヒトラーが外国の首相、外相、大使と会談する際、
必ず列席しており、その裏側のエピソードを知りたいと思いが徐々に強くなって、
試しに文京区の図書館にリクエストしてみたところ、
2週間ほどで中野区図書館からお取り寄せしてもらいました。ダンケ・・中野区・・。

外交舞台の脇役.jpg

序文では、第1次大戦の始まった1914年、15歳だった著者シュミットが
腕に白い腕章を巻いた補助警官としてベルリンの鉄橋のたもとで鉄道防衛の役に付き、
1917には軍務に編入されて、翌年、機関銃射手として連合軍と相まみえ、
敗戦後はベルリン大学で学び、通訳として外務省に・・という経歴が簡単に語られます。

そして第1章「HAAGでの序幕(1923)」が始まり、
常設国際司法裁判所の裁判での通訳として派遣されるわけですが、
24歳のシュミットの国際舞台でのデビュー戦は公式用語である
英語とフランス語を駆使して、まずまず合格。
1925年からは「ロカルノ条約」で奮戦し、スイス、パリ、ロンドンを駆け巡ります。
この辺りは外相シュトレーゼマンの通訳とエピソードが中心で、
いやいや、知らないことが多くて結構大変・・。
1920年代がそのまま200ページも続きますから、ココが踏ん張りどころですね。。

Gustav Stresemann.jpg

1931年になると世界的な大恐慌が起こり、ロンドンでの英独首相会談が開かれます。
ドイツ首相はブリューニングですが、ナチスと共産主義が勢いを増し、
ブリューニング暗殺の噂もあるなかでのハンブルクからの出航。
デモ隊だけでなく、造船所の労働者も「飢餓独裁者くたばれ」と
拳を振り上げ、叫びながら近づいてくるという危険な状況。

そして会議では経済問題よりも1万㌧の「ポケット戦艦」問題が度々、取り上げられ、
英海軍大臣も苦情を申し立てるのでした。

Deutschland-Pocket-Battleship.jpg

遂にヒトラーが政権を握った1933年。最初の国際舞台は軍縮会議です。
その代表団の一人にはラインハルト・ハイドリヒの姿が・・。
突撃隊(SA)、鉄兜団の指導者と一緒に国粋武装団体の「専門家」として
地上軍委員会に出席しますが、通訳のヤコブ氏がユダヤ人であることを不服とした結果、
シュミットにとって初めての「ナチスの顧客」になってしまうのです。

突撃隊(SA)はスポーツ活動をしているに過ぎない」。
親衛隊(SS)は武装してなく、演説者を共産主義者の襲撃から守るため、
秩序維持にあたるだけである」と発言するハイドリヒ。
しかし国際連盟の委員会は納得せず、国粋武装団体は兵力に算入されると決定し、
ナチス補助警察のみが例外に。

parade 1934.jpg

しかもドイツ国旗は、まだ公式に変更されていなかったにもかかわらず
ジュネーブのホテルに掲げてあった三色旗を勝手にハーケンクロイツへと変更。
代表団長のナドルニーに「自分勝手な行動は禁止する」とお説教を受け、
顔を紅潮させながらもハイドリヒは、おとなしく指示に従うのでした。

Reinhard Heydrich.jpg

ナチス政権は徐々に国際会議から身を引き出しますが、1935年、
ベルリンへ英国のサイモン外相と王璽尚書イーデンがやってくると、
外務省の推薦によって初めてヒトラーの通訳という大任が・・。
ドイツ側は外相ノイラートと軍縮問題特別担当リッベントロップも出席です。

ボルシェヴィズムに関する脅威を英国人に長々と独演するヒトラー。
2,3言ごとに通訳するというものではなく、15分~20分も喋ってから
ようやく通訳の時間が与えられるという難問にも耐え抜きます。

Anthony Eden (fourth from left) and Sir John Simon, meets with Adolf Hitler, Berlin, Germany,1935..jpg

このようにして外務省の首席通訳官兼ナチス御用達通訳官となってしまった著者。
ゲッベルス、ゲーリング、一応英語のできるリッベントロップの通訳も務め、、
1936年のベルリン・オリンピックでは、この期間中の「通訳マラソン」も耐え抜きます。
午前中はゲーリングの通訳、終わると大急ぎで首相官邸のヒトラーの元へ・・。

翌年は経済相のシャハトと一緒にパリの万博へと旅立ちます。
ドイツ館の開館式辞の通訳ですが、このパリ万博ってなかなか面白いですね。
「第三帝国の立て看板」と呼ばれたドイツ館。
それに向かい合って立つのが屋根に大きな彫像が置かれたソ連館。。

Soviet_and_German_Pavilions_in_Paris_1937.jpg

エッフェル塔を中心に両巨頭が対峙する構図は、4年後を予知しているかのようですし、
ちょっと現実の風景とは思えませんね。

pavilions of Nazi Germany and the Soviet Union defiantly faced each other in Paris.jpg

この年にはムッソリーニもドイツを訪問します。
まだまだファシストの兄貴分であるドゥーチェですから、やることも豪快で、
記章と短剣を叙任証とともにわざわざ持参し、
ヒトラーを「ファシスト軍伍長」に任命するのでした。。

Adolf Hitler & Hermann Göring received Benito Mussolini at Berlin airport.jpg

続いて地元ベルリンをオープンカーでパレードする行列の一員となった著者。
ドイツとイタリアの国旗が打ち振られ、ヒトラー、ムッソリーニ、チアーノ外相に対する歓呼が
響き渡りますが、昔の学友のひとりが自動車No.25に乗った著者に気づき、
「シュミット、シュミット!」と突然叫びます。
予期せざる再会に、帽子を振って挨拶すると、悪戯好きのベルリンっ子は
「シュミット、シュミット、そこにいるのはまさにシュミットだ!」と
歓呼の嵐がそれまでの最高潮に達します。。
もちろん同乗のイタリア人は、この超人気者の文官はいったい・・??

1937_Berlin,Mussolini,Hitler.jpg

それまで文官としてスーツ姿だった、謎のベルリンの人気者シュミットですが、
ヒトラーからダメ出しを受けてしまいます。
ヒトラーはSSの制服の着用を命じ、ゲーリングからも空軍の制服が・・。
しかしまるで海軍のような濃紺の外務省制服が正式に仕立てられると、
その姿を見たイタリア人は恭しく言うのです。「提督閣下御入来」。

Ciano is standing with Hitler's interpreter Paul Schmidt..jpg

さらに儀礼用に銀の飾緒と懸章に短剣を着用する場合も・・。
ヒトラーの副官に「あなたは懸章を逆につけている」と直前に注意され、
取り外せない短刀は、晩餐会で着席する際、度々、あばらを突きます。
提督への道のりは険しいことを実感。。

1939, Hitler conversing with the British ambassador Handerson,Paul Schmidt.jpg

洋書では第三帝国の外交官や政府高官、赤十字の制服を扱った
「IN THE SERVICE OF THE REICH」という本が出ていて、
あ~、コレは前から手に入れたい・・と思っています。

IN THE SERVICE OF THE REICH.jpg

まだまだウィンザー公の訪独でも通訳を務め、ゲーリングのカリンハルにも同行。
この広大な別荘で最後に案内されるのは、あの鉄道模型の部屋・・。
ムッソリーニだろうが、ウィンザー公だろうが、誰でもこの部屋では
無邪気に遊んでしまうのです。

Duke of Windsor_hitler.jpg

そんな笑い話やお気楽なエピソードもこの年まで。
1938年にはズデーテンラント問題から戦争の危機が訪れます。
外務省の友人たちはヒトラーに激しく反対し、総動員令を発すれば
軍によって即座に逮捕するという反抗計画があることも知らされます。
そして英首相チェンバレンが電撃的にミュンヘンを訪問。
「精神をよく集中してください」と言うのは外務次官ヴァイツゼッカーです。
「明日、ベルヒテスガーデンで戦争か平和かが決まるのだ」。

アドバイザーは同席せず、マンツーマンの会談。
ヒトラーはチェンバレンに言います。「シュミットは同席する必要がある。
彼は通訳として中立であり、双方のグループには勘定しない」。
この結果、「2軍落ち」となってしまった外相のリッベントロップは怒り心頭です。

Premierminister Chamberlain beim Führer_dazwischen Gesandtschaftsrat Dr. Schmidt.jpg

この後の、4ヵ国首脳によるいわゆる「ミュンヘン会談」の様子も詳細ですが、
シュミットは「ムッソリーニの提案の受諾は彼がいまや戦争という考えを捨てた」として、
戦争か否かの本当の危険は、ヒトラーが2度たじろいで譲歩した、
チェンバレンとの会談だったのであり、ミュンヘン会談の結論は想定されていたもの・・
としています。

Münchener Abkommen, Mussolini, Hitler, Paul Schmidt, Chamberlain.jpg

1939年になると今度はポーランド問題で再び、戦争の危機が・・。
アットリコ大使とチアーノ外相が必死にイタリアの弱さを説明します。
なんとか夏休みを取ったのも虚しく、休暇先の島に飛行機が飛んできて、
そのままモスクワ行き・・。リッベントロップの「独ソ不可侵条約」のお供です。
ただしロシア語はNGなシュミットは通訳ではなく、記録係として気楽に観光も。。

Deutsch-sowjetischer Nichtangriffspakt.jpg

8月30日の真夜中、英国大使ヘンダーソンとリッベントロップよる最後の交渉。
両者激高して立ち上がり、掴みかからんばかりの状況です。
リッベントロップはポーランド紛争解決の提案をドイツ語で読み上げますが、
コレをヘンダーソンに手交することを拒否。
もしかしたらポーランドが合意するかもしれないのに・・と、
今やシュミットも、外交官として軽蔑するドイツ外相に対して、怒りが込み上げてきます。
しかし「意見を言うことは通訳として万死に値する・・」。

Henderson Ribbentrop.jpg

このようにして9月3日、面会を嫌がったリッベントロップに代わってヘンダーソンを迎え、
彼が英国の最後通牒を受け取ることになるのです。
「この文書を常に協力的であった貴職に手交せざるを得ないとは、本当に残念である」。

ポーランド戦が始まると大臣官房の一員となって、
傲慢なリッベントロップに独占的にこき使われるシュミット。
東部から侵攻を開始したソ連や、翌年の西部への侵攻もラジオで常に先を越す
ゲッベルスの宣伝省との発表争いを巡って、報告が遅い・・と叱責されますが、
この辺りは、このダメ上司に対するグチも多くなりますね。

ribbentrop.jpg

コンピエーニュの森におけるフランスとの休戦協定にも出席。
カイテルが休戦条件を朗読し、それをフランス語に通訳するシュミット。
「フランスは英雄的抗戦のあと、敗北した。
かくも勇敢な敵方に対し、屈辱の性格を付与する意図はない」。

compiegne_1940.jpg

スペインのフランコ将軍、ヴィシーのペタン元帥と会談するもヒトラーが敗北した後、
イタリア皇太子妃のマリア・ジョゼーと兄のベルギー国王のエピソードが詳しく出てきました。
山荘ベルクホーフにおいて、彼女の故国ベルギーの戦争捕虜の帰還や、
食糧事情について強い情熱を傾けられ、女性には極めて優しいヒトラーは終始、逃げ腰です。
そんな若く優雅で愛らしい外交上手の彼女は、
「私が女で政治に疎いという理由で話し合いたくなければ、私の兄と会談を・・」と
まんまと捕虜であるレオポルド国王と接見することを無理やり約束させてしまいます。
お茶が熱すぎて、口を火傷させてしまい、ヒトラーが平謝り・・なんて話もありましたね。

Maria Jose del Belgio.jpg

それから数週間後、妹の発議を呪っている・・といった表情の兄貴が登場。
会見を強制されたヒトラーも幾分冷たい態度で出迎えますが、とりあえず愛想よく、
「私は貴下の事情を真に遺憾に思う。何か個人的な希望を叶えることはできますか?」
しかし、誇り高い王家の見下すような調子で若き王は答えます。
「私自身個人的にはなんの願望もない」。
気まずい会談は何の解決策もなく早々に終わりますが、双方にとっては残念なことに
今日の日程には「午後のお茶会」も組み込まれていたのでした・・。
ははぁ・・、ヒトラーが「畜生! どうしようもない奴だ。」と激怒していた理由が
ようやくわかった気がします。

1941年3月には日本からのお客様、松岡外相との会談です。
「ドイツとソ連間に紛争がないとは言えないと天皇陛下に・・」と遠回しに通訳し、
やっぱりカリンハルで鉄道模型・・。ある意味、ここは第三帝国のテーマ・パークですね。
ちなみに勲章大好きゲーリングは写真の通り ↓ しっかり「旭日章」をゲットしています。

Matsuoka_Paul Schmidt_hitler_Göring Order of the Rising Sun.jpg

1943年には「カサブランカ会談」が開かれるとの情報を掴んだ外務省。
記者会見でスポークスマンが、「ルーズヴェルトチャーチルが近々、
ホワイト・ハウスで会談するであろうことをわが国は正確に知っている」。
スペイン語のテキストを忠実に翻訳したため・・というこのエピソードですが、
そうか、Casablanca・・「カーサ・ブランカ」って聞けば、確かに「白い家」ですね。。

Casablanca Conference.jpg

総統本営でも通訳の仕事が度々出てくるシュミット。
ルーマニアのアントネスクにはフランス語で通訳します。
大のソ連嫌い、ハンガリー嫌いのこの元帥はヒトラー似のアツい男で、
そんなところをヒトラーは特別気に入っていたそうです。
パリ駐在武官で参謀としての自信もあるアントネスクがヒトラーの作戦指導の弱点と
欠陥を暴露すると、驚いたことにヒトラーは謙虚に助言を求めます。
「クリミア半島を撤退すべきか、防衛すべきか判断できない。
貴下の助言はいかに? 元帥閣下」。

Ion Antonescu Paul Schmidt Adolf Hitler.jpg

自動車事故での入院生活から回復したのも束の間、東プロイセンの本営に行くよう命ぜられ、
今回はムッソリーニとの会談。その日付は1944年7月20日です。
ゲルリッツ駅と呼ばれる本営の小さな駅でムッソリーニを迎え、
数時間前にシュタウフェンベルクの爆弾から難を逃れたばかりのヒトラーも合流。
事件現場を訪れ、ひっくり返った箱に腰を下ろし、
身振り手振りでその時の状況を説明するヒトラー。

Hitler mit Mussolini und Chefdolmetscher Paul-Otto Schmidt in der zerstörten Lagebaracke.jpg

外務省としては次官のヴァイツゼッカーを中心に、
ナチス政権であろうがなかろうがドイツの国益のために働くのみですが、
この暗殺事件の余波で、処刑される職員も出てきます。
著者はそんなナチス政府の中心に居ながら非党員であり続けますが、
1943年に友人の忠告を受けて入党。タイミングはギリギリですね。

1944年12月にヒトラーを見たのを最後に通訳の仕事もなくなり、
ザルツブルクで終戦を迎えた著者。
戦後は米軍に捕らわれ、ニュルンベルク裁判で証人として出廷。

Paul Schmidt_ Nuremberg.jpg

米軍心理学者の通訳もして「最も深い悲劇の人間ドラマ」を体験したそうですが、
詳しくは触れられません。
絞首台が設営された体育館から、わずか50mの証人棟にいた彼は、
長く従えた尊敬できない上司のリッベントロップの死をどう感じたのでしょうか?

Nuremberg Trials_Ribbentrop.jpg

読んでいて、あの本に出てたなぁ・・と思ったエピソードも数多く、
原著が1950年ということもあって、有名なネタ本なのは間違いありませんね。

また本書は地名に人名がすべてドイツ語表記です。
「恐らくChamberlainを長とする英国代表団も、Rhein対岸の
Hotel DreesenをPetersbergから見ていた。」
と、こんな感じですから、本書は左開きの横書きという、
この手の本としては珍しい形をとっています。
"Rom"とか、"Genf"なんて最初はなんだかなぁ・・?

さらに写真は一枚もなく、訳者さんによる戦局などの注意書きもありませんから、
なにかしら第三帝国興亡史を読まれている方ではないと大変だと思いますが、
1933年のナチス政権が誕生した279ページ以降だけでも非常に読み応えがあり、
この400ページ弱だけでも定価3500円の価値は充分にあります。
コレは読み返したくなりそうなので、中野区に返したくありませんね・・。





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映画大臣 -ゲッベルスとナチ時代の映画- [ヒトラーの側近たち]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

フェーリクス・メラー著の「映画大臣」を読破しました。

第三帝国と映画・・というテーマだと「ミッキー・マウス ディズニーとドイツ」という本を
以前に紹介していますが、2009年発刊で562ページの本書は
そのボリュームといい、白水社だったり、と
いくら古い映画も観てきたヴィトゲンシュタインでも独破できるのか不安でした。
定価も4725円ですし、安い古書も見つからない・・。
そんなビビった場合には、図書館で借りるのが一番ですね。

映画大臣.jpg

著者はドイツ人の映画史家で、本書の主役ゲッベルスが1924年~1945年まで
丁寧につけていた日記を出版されていない読みにくい自筆のマイクロフィルムを含めて読み倒し、
その他の資料と比較しながら10年かけて仕上げた労作だそうで、
その結論は「序章」に書かれています。
「これまでのように日記を批判せずに使用することはやめるべきだろう。
主観的な誠実さを持った"個人的な日記"ではなく、ナチスのプロパガンディストのトップによって、
"未来の世代"を念頭に置いて作成されたものなのである」。
すなわち、将来、読まれることを想定した"偉人の日記"をということで、コレは同意見です。

Dr. Josef Goebbels.jpg

ゲッベルスは1897年生まれですから、まさに娯楽映画の発展と共に青年時代を過ごしたわけで、
1929年の日記では日本でも無声映画『メトロポリス』でも有名な
フリッツ・ラング監督の『ニーベルンゲン』について、
「ドイツの最高傑作だ。このドイツの力、偉大さ、そして美が壮大に映写された作品」と大興奮し、
米国の初期のトーキー映画『シンギング・フール』を観ても、
「トーキーの遥かに進歩している技術に驚いた。ここには未来がある。
だから米国の作り物だと言って何でも拒絶してしまうのは間違いだろう」。

となれば、ソ連の『戦艦ポチョムキン』も「この映画の出来は素晴らしい」となります。
未見だった『ニーベルンゲン』は最近、WOWOWで放送したんですが、
2部あわせて、トータル4時間半という非人道的な長さに敗北しました。。

Die-Nibelungen-1_-Teil-Siegfried-1924.jpg

第1章はこのようにフリッツ・ラングの『M』や、マレーネ・ディートリッヒ主演の『嘆きの天使』など、
さまざまな映画の感想が出てきます。『M』は昔に観ましたけど、
知らない映画も多くてこりゃ大変です。
フランス映画ではジャン・ギャバン主演の『望郷』について、「典型的な退廃作品だ。」と一蹴し、
ヒトラーもファンだったスウェーテン女優、グレタ・ガルボ主演の米国映画、
『グランド・ホテル』や『アンナ・カレニナ』、『征服』がお気に入りです。
他にはフランク・キャプラの『オペラハット』では、
主演のゲーリー・クーパーについて、「名演技だ。感激した。」
そんな彼にとって米国映画の頂点に位置していたのは『風と共に去りぬ』です。
「何度でも観なければならない作品だ。これを手本にしよう」。

Greta Garbo in Grand Hotel  1932.jpg

1930年代の娯楽映画についてはこのような感想を書き記しているゲッベルスですが、
1939年に戦争が始まると「娯楽」という観点だけでは映画は受け入れられません。
1940年のヒッチコックの『海外特派員』は、「第一級の駄作だ。
必ずや敵国の幅広い観客層にある種の印象を与えるだろう」としています。
紹介される映画のストーリーは本書には書かれていないため、
その映画の内容をある程度知っている映画好きじゃないと厳しいですね。。
ヒッチコックはほとんど観てますが、どんな内容だったかなぁ・・。

Foreign Correspondent 1940.jpg

第2章では、「宣伝大臣」となったゲッベルスが大手映画会社の「ウーファ」などを
支配下に置き、映画産業界からユダヤ人が追放され、
1933年に創設された「帝国映画院」の国有化などの経緯が詳細に書かれ、
「帝国映画総監督」などの重要なポストの人事も大ナタが振るわれます。
まぁ、でも知ってる名前が全然出てこないのがツライ。。

Joseph Goebbels movie.jpg

第3章はナチ党が政権を握った1933年から34年にかけての映画製作です。
1933年6月にヒトラーも臨席した党映画第1作目の『突撃隊員ブラント』の完成披露上映。
ゲッベルスはその前日にようやく試写を観ることができたようで、
「恐れていたほど悪くない。ほとんど耐えがたい部分もあるが・・。」
ミュンヘンのナチ党機関紙である「フェルキッシャー・ベオバハター」紙が
好意的な評価をしたのに対して、ゲッベルスの手中にあるはずの
ベルリンの「デア・アングリフ」紙が酷評を載せるなどナチ党の報道にも混乱が見られます。

SA mann brand.jpg

結局、不評に終わった「突撃隊員ブラント」に続く、10月公開予定の『ホルスト・ヴェッセル』は
ゲッベルスが一旦編集室に戻し、いくらか手を加えた後で、
『ハンス・ヴェストマー』という新しいタイトルで公開されるのでした。

Hans Westmar.jpg

1938年はゲッベルスに危機が訪れます。
それは「水晶の夜」事件と、反ユダヤ人プロパガンダをどう展開するかという問題に
心を奪われていたと同時に、女優のリダ・バーロヴァとの情事による離婚問題です。
妻のマグダはヒトラーに仲介を依頼し、宣伝大臣を辞職することも選択肢に・・。
「何本か映画を観た。しかし真の関心はなかった。もうこれ以上、続けたくない」。

Lída Baarová_original.jpg

1936年にスペイン内戦に参加したドイツ空軍の英雄詩『コンドル部隊』も
撮影が順調に進んでいます。
しかし独ソ不可侵条約が結ばれた1939年というこの時期、
「残念ながら、ハッキリとした反ボルシェヴィズムの傾向があるために使えない。
全てを中止させよう」と、ヒトラーの大胆な政策のためにポシャってしまう映画も・・。

legion-condor-on-its-return-from-spain-in-berlin-6-june-1939.jpg

こうして第4章「戦争がテーマを与えてくれる」へ進みます。
「初の本格的反ユダヤ主義映画」とゲッベルス自ら語る『ユダヤ人ジュース』には
脚本から参加し、数少ない友人であり、安楽死「T4作戦」の責任者のひとりである
フィリップ・ボウラーの管轄下で始まった『告発』は、
不治の病を患った医師の妻が、夫に致死量の投薬によって
自分を"解放する"ことを依頼し、それを実行する・・という内容の映画だそうです。

Philipp Bouhler, Robert & Inga Ley.jpg

1941年2月から6月にかけてドイツ各地の映画館で封切られたのは、
「見事な空中撮影」の『急降下爆撃隊』に、ノルウェー奇襲の『斥候隊ハルガルテン』、
その他、『リュッツオ爆撃隊』、『潜水艦西へ』、『6日間の1時休暇』などなど・・。
そしてヒトラーユーゲント映画、『元気を出せ、ヨハネス』も封切られますが、
「上映することは出来ない駄作」という感想のゲッベルス。
彼の立場であっても党関係の映画となると、絶対ではありません。
実際、文化関連の最大のライバルであるローゼンベルクや、
副総裁ルドルフ・ヘスゲーリングボルマンとのバトルも繰り広げています。

Goebbels_Hess and Sleepy Hitler.jpg

ゲッベルスは検閲官としてではなく、「ファイナルカット」権を有する最終判断者、
全能のプロデューサーとして君臨していたわけですが、
それを上回る立場の人間も存在しています。
映画好きの総統はスリリングな筋立ての映画を好み、犯罪映画などがお気に入り。
米国映画も西部劇に、チャップリンやバスター・キートン、
特に好きだったのは、やっぱりディズニー映画です。
つまらない映画はすぐに飽きてしまい、上映をストップさせ、
役者の演技や「監督が良くない」、そして「真の生活環境描写」も重視しています。

そういえば先日、TVで「チャップリンの独裁者」を初めてちゃんと観ましたが、
1940年ですからゲッベルスなんかは、取り寄せてコッソリ観たんでしょうかねぇ?
内相兼宣伝相ガービッチなんかはゲッベルスのパロディでしたし、
勲章をいっぱい付けたデブ戦争相のヘリング元帥には大笑いしました。
そうか、ヘルマン・ゲーリングを縮めた名前ですね!

The Great Dictator_Herring.jpg

また、国防軍を扱った映画になると、最高司令部による検閲が必要です。
『最後の一兵まで』の場合には、国防大臣ブロムベルクから電話が・・。
「艦隊が激しい攻撃を受ける場面を取り除いてほしい」との要望です。

Joseph Goebbels, Werner v. Blomberg.jpg

1934年からすべての映画館では本編の前に「ドイツ週間ニュース」、
それともうひとつ副番組という形で短編の「文化映画」の上映が義務付けられ、
自然と科学、芸術と民族、職人技と技術、軍事と政治が題材の教育映画です。
数多くの党組織に国境警備隊、爬虫類の世界に古ゲルマンの農民文化・・。
ゲッベルスはこのような15分の短編にもプロパガンダとしての力を注ぎます。
1940年には『ドイツの兵器製造所』、『防空』、『助っ人労働者』といったタイトルが・・。

Filmberichter mit Askania-Stativkamera.jpg

個人的なお楽しみ「ドイツ週間ニュース」もかなりのページが書かれていました。
1930年代はオリンピックや党のパレード、ヒトラーや党指導者の演説などですが、
1938年にプロパガンダ中隊(PK)が誕生し、報道素材のすべてを供給します。
戦争が始まると、ヒトラーももちろんこのニュース映像に大きな関心を寄せ、
1941年1月の号の試写では「総統のお気に召さなかった」と意気消沈・・。
ナレーションと音楽のまだついていないバージョンから試写し、
週に4回は詳細な箇所にまで編集作業に時間を費やすゲッベルス。。

Propagandakompanien.jpg

全体的な効果はナレーションの投入、音楽、モンタージュの完璧な構成、
効果音による信憑性、トリック撮影や地図の挿入といったことで発揮され、
派手な戦闘シーンがない場合には、テキストの調子を強め、
豊かな伴奏音楽で埋め合わせる・・。
ヒトラーが最良のものと考えている号は「ディエップでの戦闘」で、
V2の映像」の号には、ことのほか興味を示したということですが
ゲッベルスが何度も要望した総統本人の登場は、頑なに拒まれるのでした。

久々のオマケで、1944年の「ドイツ週間ニュース」を5分ほどご鑑賞ください。
出演者は、西方B軍集団司令官ロンメルに、OKW作戦部長のヨードル
JG26司令のプリラー、そして夜戦エースのプリンツ・ヴィトゲンシュタインです。



最後には女流映画監督、レニ・リーフェンシュタールとゲッベルスの関係。
本書では戦後のレニの発言は「嘘が多い」として、
ゲッベルスは彼女の仕事を賞賛し、個人的にも高く買っている。
しかし彼女とヒトラーの直接的な関係や、輝かしい映画の作り手としての姿勢が
ゲッベルスの気に障ったのは確実である・・としています。

Goebbels, Riefenstahl & Hitler.jpg

監督という立場からすると、大好きな『未来世紀ブラジル』という映画での
テリー・ギリアム監督の「ファイナルカット」権を巡る戦いを描いた
「バトル・オブ・ブラジル」という本を昔読んだのも思い出しましたが、
お気に入りの監督や俳優はゲッベルスから十分な報酬を授かり、
スターリングラードで敗北した1943年以降は、国民が現実逃避できるような
楽しい映画を製作し、「ドイツ週刊ニュース」のカラー化も実験します。
しかし戦局の悪化、爆撃の影響とともに前線からのフィルムは遅延を余儀なくされ、
1945年にもなると、戦闘シーンは一切なくなってしまうのでした。

Die Deutsche Wochenschau.jpg

中盤は知らない映画と人物が多くて、かなり苦労しましたが、
後半はなかなか楽しめました。
ゲッベルスの考えるプロパガンダ映画というのは終始一貫していて、
「突撃隊員ブラント」といった、タイトルからしてナチス・・という押し付けのものではなく、
あくまで国民が観たいと望む映画、そのなかにさりげなくプロパガンダを織り込む・・
といった手法だと感じることができる一冊でした。



























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ヒトラーの代理人 -ルードルフ・ヘス- [ヒトラーの側近たち]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

W.シュヴァルツヴェラー著の「ヒトラーの代理人」を読破しました。

10月から密かに続いている「独破戦線」のヒトラー側近シリーズ。。
ヒトラーを操った男 -マルチン・ボルマン-」、「ゲッベルスの日記」、「ゲーリング言行録」、
エヴァ・ブラウン」ときて、今回は、第三帝国のゲジゲジ眉毛こと、ルドルフ・ヘスです。
この副総裁ヘスの本というのは、本書と同じ1976年発刊の
「囚人ルドルフ・ヘス―いまだ獄中に生きる元ナチ副総統」と
1981年の「ルドルフ・ヘス暗殺―シュパンダウ囚人第七号の秘密」の3冊があって
ナニにすべきかずっと悩んでいたんですが、
結局のところ本書の訳者さんが「松谷 健二」氏というのが決定打です。
上下2段組、257ページの綺麗な本が、amazonで1000円で買えましたし・・。

ヒトラーの代理人.jpg

原著の発刊時点(1974年)で80歳になろうとするルドルフ・ヘスは、
前世紀に600人の囚人を収容すべく建てられたベルリン=シュパンダウ監獄の
縦2メートル、横3メートルの第七監房の囚人。
このただ一人の囚人を贅沢にも、旧連合軍、英、米、ソ、仏の4ヵ国が
彼らの同盟の最後のシンボルとして、
兵士33名、看守12名、文官17名、医師4名、僧侶1名、所長4名で守っています。

シュパンダウの職員は退職しても5年間は、その様子を喋ってはならない規則があるそうですが、
著者は、この匿名の人物や、ヘスの妻、そして息子と話をし、手紙も紹介しながら、
この囚人のシュパンダウでの生活ぶりを披露します。

Rudolf Hess in the grounds of Spandau Prison.jpg

月ごとに管轄の変わる警備。3月、7月、11月の「ソ連の月」になると
要望する特別料理が作られず、1週間ぶっ続けの「ニシン料理」に激しい発作を起こすヘス・・。
ヘス以外の「終身受刑者」、レーダー提督は健康上の理由で1955年、
9年間の刑を勤めただけで出所し、その2年後には経済相フンクも11年で。。
1966にシュペーアフォン・シーラッハが20年の刑期を全うし、釈放される時まで、
生きて出られる希望を持ち続けた彼ですが、それも叶わず、一人きりとなって
己の殻に閉じこもってしまいます。

Erich Raeder and his wife on the date of his release from Spandau prison 1955.jpg

「ユダヤ人絶滅を私は望んだことはなく、総統もそのおつもりがなかったことは確かだし、
そんな命令を出された筈はない。我々が思い描いていたのは
南アフリカのアパルトヘイトのような政策であり、
抹殺収容所の蛮行は他の勢力の所業だったのだ」とヘスは語ります。
そして午後にはどんな荒天でも看守をお供に、庭での1時間の散歩を欠かしません。

このあと、1894年生まれのヘスの生い立ち・・・、エジプトのアレキサンドリアで
ドイツの大貿易商の両親のもとに生まれ、厳格な父を恐れ、やさしい母との関係・・というのは
ヒトラーと同じですね。
14歳になるとドイツへと戻りますが、学校では「エジプト人」という綽名を頂戴し、
感受性の強いヘス少年は思い悩みます。
そして20歳のとき、第1次大戦が勃発すると、商人見習いの彼は初めて父に反旗を翻し、
バイエルンの第47野砲連隊に志願するのでした。

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歩兵に転属されるも、血気にはやる新兵は大喜び。
白兵戦での功績により、2級鉄十字章を受章。
「ぞっとするような戦い」と語るヴェルダンの塹壕戦にも巻き込まれます。
3年目には重傷を負い、数ヵ月の入院の末、少尉に昇進。
リヒトホーフェンの活躍に憧れた彼は飛行隊への転属が叶えられ、
その前のひと仕事、予備歩兵中隊をリスト連隊に連れて行く任務を遂行しますが、
到着した連隊長の傍らに立つ、口髭を蓄えた貧相な伝令の兵長と対面・・。
このヒトラーとの初めての出会いはいろいろな方面から否定されているそうですが、
奥さんのイルゼ・ヘスが著者には肯定しているそうです。

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戦後はトゥーレ協会に属してミュンヘンの動乱で共産主義のスパルタクス団と戦い、
大学に戻ると、第2の父となる元将軍、カール・ハウスホーファー教授と知り合います。
彼の地政学的発想やヴェルサイユ条約への反対などの考え方に多大な影響を受け、
家族ぐるみの付き合いを始めたヘスですが、フォン・エップ将軍の参謀長、
レーム大尉が党員になっているというドイツ労働者党の演説会に行ってみると、
20名程度の男女の中から立ち上がった党首ドレクスラーは
「では、今夕の報告者、我が同志にして宣伝面の責任者、画家のヒトラー君・・」と紹介します。
そして、その2時間にも及ぶ演説に息をのみ、恍惚と聞き入るヘス・・。

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毎日のようにヒトラーに付きまとい、ビラ張り、ビラ配りに恋人イルゼも引っ張り出す熱の入れよう。
ヒトラーも呼べば飛んでやって来て、賛同を持って熱心に話を聞く、この坊ちゃん大学生に
悪い気がしません。
新たにナチ党となって党のマーク、ハーケンクロイツも出来上がりますが、本書によると
もともとトゥーレ協会のマークであり、歯科医のクローン博士がデザインしたものの、
十字の鉤の向きが気に入らないヒトラーが右向きに変更したということです。

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このナチ党創成期・・ドレクスラーやエッカート、シュトライヒャーらとの関係や派閥争いは
詳しく書かれていて勉強になりました。
こうして1923年の「ミュンヘン一揆」へと進み、オーストリアに脱出していたヘスは
ヒトラーの判決を新聞で読み、自分の刑が総統より重いことはないだろう・・と自首します。

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ヒトラーがヘスに原稿を口述し、タイプさせたといわれる「我が闘争」ですが、
本書ではそれを否定し、ヘスの役目は、ヒトラーの思考の流れを整え、忠告を発し、
原稿整理/組み換えをし、自分の考えもはさんだとして、
ヘスを共著者といっても拡張ではない・・としています。

釈放後、私設秘書にならないかと持ちかけられた31歳のヘス・・。
ハウスホーファー教授からも地政学研究所の助手の話を持ちかけられていましたが、
未来の教授への道を断り、新たな父である、ヒトラーの秘書を選びます。
「マイン・フューラー」という呼びかけや、昔のオーストリアの登山家の挨拶「ハイル!」から
「ハイル・ヒトラー!」を作ったのがヘスだという説も紹介。

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シュトラッサー兄弟との対立のなか、ナチ党が勢力を拡大していく過程で
グレゴールを追放し、彼の仕事を引き継ぎ、党の関係事を処理する全権を与えられたヘス。
もはや私設秘書ではなく、党で第二の存在となったのでした。
ヒトラーがドイツを旅行中のチャーチルから会いたいと言われたものの、
「このチャーチルは影響力はもたん。野党だからな」と素っ気なく断った話なども織り交ぜて、
このナチ党が政権を奪取するまでも、なかなか面白く書かれています。

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1933年に誕生したヒトラー内閣でも、12月には「党の代表」として無任所大臣で入閣。
ゲッベルスのように新聞は持たず、レームのように40万の私兵も指揮せず、
ゲーリングのように警察部隊を持たないヘスの実権はヒトラーその人であり、
疑い深いヒトラーが彼を完全に信用する一方で、
ヘスもヒトラーの害になるような決定をするハズもありません。

Hitler_at_Reichstag_with_Rudolf_Hess_&_Joachim_von_Ribbentrop2.jpg

疑心暗鬼の渦巻く党内ではヒムラーがハイドリヒの書類を作成し、ハイドリヒはヒムラーについての、
ゲーリングはシュトライヒャーについて、シュトライヒャーはゲッベルスについて・・。
シュトライヒャーのファイルには、「少女団(BdM)の生きのいい少女を2人、用立てろ」と言われたいう
ヒトラーユーゲント団員の報告が記載され、「ヒトラー」と書かれたファイルには
1918年の野戦病院の病状報告があり、そこには毒ガスによる嘔吐症状ではなく、
「梅毒感染による眼の障害」と記されています・・。
しかし酒も飲まない「徳の鑑」、ヘスのファイルには、個人的スキャンダルは一切ありません。

Nazi leaders liked to be photographed with children, as Streicher.jpg

長いナイフの夜」事件では、SA幕僚長のレームがヒトラーを「くそ兵長」と決めつけ、
「この臆病者と縁が切れればな!」と語っていたことを
ハノーファー地区のSA隊長、ルッツェがヘスに報告し、
彼はこういうことをヒトラーにも話していたということですが、
事件当日の朝まで、この計画をヒトラーから打ち明けられず、ショックを受けてしまいます。
「ゲーリングやゲッベルス、ヒムラーも知っていたというのに・・」

膨大な量の仕事も正確にこなし、秘書や女性タイピストにちょっとしたミスや怠慢を注意するものの、
決して怒鳴ったりすることなく、騎士的に丁寧に接します。
このようなことは大きなストレスとなり、胃や肝臓、心臓の痛み、痙攣と不眠に悩まされますが、
ここで登場するのが、仕事熱心なマルティン・ボルマンです。
そして段々とこの部下に仕事を任せるようになっていくヘス・・。

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1938年からのユダヤ人選挙権はく奪などの反ユダヤの政令に次々と署名をしたヘス。
それでも「水晶の夜」事件を激しく非難し、仲の良くないゲッベルスの責任をヒトラーに進言します。
また、外国の社会形態や政治、住民のメンタリティに疎いヒトラーが
シャンパン商人のリッベントロップを「英国通」として抜擢したり、
バルト系でモスクワを知っているローゼンベルクを外交専門家としたりすると、
エジプト生まれのヘスも当然のように外交専門家とされてしまいます。
そんな訳でハウスホーファー教授の息子、アルブレヒトを相談役にしますが、
ヒトラーからはチェコ危機でも「きみは悲観的すぎだよ」と軍配はリッベントロップに・・。

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ポーランドとの開戦に伴い、国会で演説するヒトラーは
「第1の後継者はゲーリング、次の後継者はヘスである」と、正式にNo.3の座に・・。
そして想定外の英仏による宣戦布告。。
ヘスは石のような顔でヒトラーに歩み寄り、許可を願い出ます。
「予備役少尉として空軍に入隊し、即刻戦線に・・」
しかしヒトラーは「絶対に許さん!」と1年間の飛行禁止を命令します。

Rudolf Hess and test pilot Hanna Reitsch, Feb 1939.jpg

翌年、西方戦役が終わると、ハウスホーファー教授からハミルトン公のことを聞き、
勝手にこの公こそ、平和使節交渉相手と決めかかってしまったヘス。。
このあたりも本書ではとても具体的に書かれていますが、
1941年の対ソ戦が近づくと、1年間の飛行禁止命令が切れていたこの外交専門家は
メッサーシュミットで英国に飛び立つのでした。

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この件を果たしてヒトラーが知っていたのか・・?
本書では妻イルゼは知らなかったと語りますが、空軍のボーデンシャッツ将軍は
「ヒトラーの驚きは実にうまい芝居だった」と語っています。
ヘスの複座機のMe-110の練習相手を勤めたのは総統専属パイロットのバウアです。
このあたりも非常に詳しく書かれていて、とても面白かったですね。

本書の見解としては、「知っていた」ですが、ヴィトゲンシュタインもバウアということなら、
ヒトラーが知らなかったとは考えにくく感じましたし、
「ヒトラーの命令」ではなく、あくまでヘスが自らの計画を伝えており、
ヒトラーは一か八かの案として、黙認していた・・という意味ですね。

Messerschmitt Bf-110 _ Rudolf Heß.jpg

ヘスからのヒトラーヘの手紙の結びには
「失敗した場合には、私は狂人であると声明してください」と書かれ、
英国で戦時捕虜扱いとなり、虚しい尋問を受けるヘスに対し、その通りに表明するヒトラー。

ゲーリングはメッサーシュミット教授も尋問します。
「ああいう男に機を用立てる前に、調査しておくべきだったなぁ」
「じゃあ、閣下が来られても総統に許可を求めるわけですか?」
「事情が違うだろう!私は空軍大臣だ!」
「でもヘスは総統代理です」
「しかしだな、あの男が狂気だと気づいてしかるべきだったよ」
「狂人が要職に就いているなんて、そちらこそ辞職を迫ってしかるべきだったんじゃないですか!」

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スコットランドから「ロンドン塔」に移され、そしてまた、別の別荘に移されたヘス。
12月には記憶喪失となり、やがて回復しますが、1943年にも
ヒステリー性健忘症と診断された、この記憶喪失に再び逃れます。
こうして1946年のニュルンベルク裁判を迎え、終身刑の判決が・・。
「ロンドン塔」は見物したことがありますが、ヘスが囚われていたとは知りませんでしたね。

Nuremberg trial in 1945.jpg

1967年、「ルドルフ・ヘスに自由を」という団体が誕生し、
ニュルンベルク裁判の英国主席検察官らも署名。
英米でもこれ以上の拘禁は人道にもとる・・という論調が起こります。
ヘスがこのまま死ねば、「殉教者」になる危険があることを承知していて、
この無害の老人をこのまま拘禁し続けることもすこぶる迷惑と考えている西側ですが、
ソ連だけはナチの最後の生きたシンボルに対する解釈が違い、
4ヵ国の同意がなければ釈放は許されないのでした。

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前半のシュパンダウでの生活では米所長のユージーン・バード大佐が
ヘスと親交を深めていた結果、ソ連の圧力によって辞職に追い込まれた・・
という話がありましたが、この人は
「囚人ルドルフ・ヘス―いまだ獄中に生きる元ナチ副総統」の著者ですね。

もう一冊の「ルドルフ・ヘス暗殺」は、替え玉説といったちょっと変わったもの・・、
1987年、93歳のヘスは首に電気コードを巻き付けて自殺したとされていますが、
コレにも暗殺説があったりと、本書以降も謎が残されています。

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昨年の7月にもネオナチの巡礼地化が続くことを阻止するために、
彼の墓が撤去されるなど、話題にもなりましたね。
しかし1974年の時点で、「殉教者」としてネオナチの象徴となることを
本書が予言していたことに驚きましたし、非常に多面的に分析している一冊でした。
ちょっと「ヒトラーの共犯者」を読み返して、クノップ先生の解釈も再確認してみますが、
最新のヘス本が出ても良さそうなものなんですけど・・。







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ゲーリング言行録 -ナチ空軍元帥おおいに語る- [ヒトラーの側近たち]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

金森 誠也 著の「ゲーリング言行録」を読破しました。

先日の「ゲッベルスの日記」に続いて、「ゲーリングの日記」・・・ではありません。
まぁ、ゲッベルスとは対照的にゲーリングが日記を書いていたとはとても思えませんからね。
2002年に発刊された223ページの本書、過去にモズレー著の「ゲーリング」を読んで以来、
気になってはいましたが、ど~も、このタイトルがちょっと敬遠させていました。
それと言うのも、表紙の写真も1930年頃と思しき「演説で吼えるゲーリング」といった感じですし、
戦時中の「大口叩き」もいろいろな本に書いてあるので、
内容的にも、そんな彼の発言の集大成のようなものかな・・と思っていましたが、
実は1946年のニュルンベルク裁判における拘留中にブロス弁護人に語った、
1950年発刊(未訳)の「ゲーリングとの対話」をベースにまとめられたのが本書ということです。
ニュルンベルク軍事裁判」のゲーリングは絶好調でしたから、
これは楽しい1冊のような気がしますね。

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第1章ではゲーリングの略歴が10ページほど解説され、
続く第2章の「青春時代」からゲーリングは語り始めます。
最初の妻、カリンとの出会い、酒を飲んでも泥酔したことはなかったという話。
若い頃はスマートだったのに・・というところでは、
「後年、ビールの飲み過ぎのせいか、体重が増えすぎた。最高で125㎏もあった」そうです。

「ヒトラーとの出会い」の章では、この時でも依然として
「ヒトラーはチンギス・ハーンと比較されている人物だ。100年後には犯罪者ではなく、
政治的改革者として評価されるだろう」と語ります。
ふ~ん。。チンギス・ハーンって、当時のドイツ人に凄い評価なんですねぇ。
最近、「ジン、ジン、ジンギス・カ~ン」て歌う、1980年頃の動画見ちゃったんで、なんとも。。

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興味深かったのは彼が創設した「ゲシュタポ」についてです。
それまで社会民主党が占めていたポストであるプロイセンの内相となったゲーリングは
警察官僚らの人事を刷新してナチ党員に入れ替えて、ゲシュタポを創ったとされていますが、
彼によれば「明白に政治的反対者を撃破するためのゲシュタポと変わらない政治警察があり、
官僚を入れ替えた後、この警察がもっぱら国家の安全に取り組んでいることを明白にするために
『秘密国家警察 = ゲシュタポ』という名前を与えた」ということだそうです。

1932 preußischer Innenminister unter dem Reichskommissar für Preußen.jpg

国防相ブロムベルクと陸軍最高司令官のフリッチュに対するでっち上げ事件への関与を問われると、
「国防相のポストはこの事件がなくても廃止されたし、すでに空軍最高司令官だった私が
フリッチュのポストに就いても、それは昇進でもなんでもない」と否定します。

1936年のラインラント進駐の計画を事前に知っていたことについては、
ニュルンベルク法廷でのジャクソン検事とのやりとりを記載しています。
「ドイツが国際協定に違反して計画を立てたのはけしからん」と追及するジャクソンに
「米統合参謀本部も、軍の動員を前もって公表したことはないだろう」と反論して、
ギャフンといわせたゲーリング。
スポーツのように痛快だった・・といわれ、米国の新聞も「ゲーリングの判定勝ち」と書いたほどの
有名な反対尋問ですね。

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1938年のチェコ問題とミュンヘン会談では、外交に関する自分の立場を語ります。
ムッソリーニはドイツ外務省を通さず、私に直接使節をを送り、
そもそもリッベントロップを信用していなかった」とし、
さらに「総統は外国人に対しては常にぎこちなく、リッベントロップは嫉妬心と野心に駆られ、
私の出席を拒んだ」

1940年のフランスでは、旧友ウーデットと共にSS護衛兵を撒いたゲーリングの様子・・。
とある店でカメラを略奪している兵士を偶然見つけますが、
「これだけで我慢しろ、と1つだけ手渡し、残りはクルマに積み込んで、前線の兵に配ったのだ」
と、自慢げですが、お店に返してあげないところがなんともゲーリングらしい・・。

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その有名なゲーリングの略奪・・ではなく、美術品収集も
「ヒトラーがリンツの美術館用に集めている芸術品と競合しないように
値段の手頃なものを買った」と説明しますが、そのお金の出所を追及されると、
「まぁ、そりゃ一部は国の費用で買ってもらったのさ・・」と、カリンホールに集めた絵画も
文化施設に合流させようと思っていた、と必死で弁明・・。
この手の本は「ナチの絵画略奪作戦」とか何冊か出ているので、今度読んでみようと思っています。

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さすがの大言壮語のゲーリングといえども、戦局に影響を及ぼしたルフトヴァッフェの話になると
あまり乗り気でない・・どころか、ほとんど語らなかったようです。
中止命令の間に合わなかったロッテルダム爆撃に、ダンケルクの失敗、
バトル・オブ・ブリテンスターリングラードで包囲された第6軍への補給、
連合軍によるドイツ本土爆撃・・と、空軍最高司令官の立場から語るのは、
ロッテルダム爆撃の原因と英国本土上陸作戦(あしか作戦)くらいです。
特にあしか作戦では、陸軍が空軍の4個降下部隊を無理やり引き抜かなければ、
その部隊によって、英国に上陸していただろう・・としています。

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西部戦線の状況でゲーリングが熱く語るのは1944年の「アルデンヌ攻勢」です。
「うまくゆけば戦争の行方を変え、和平交渉が可能になったかもしれない!
あれは総統の最後の真に天才的な作戦であった!だが、彼は決定的な推進力を持つ、
6個戦車師団をゼップ・ディートリッヒごときに委ねるべきではなかった」
確か、「バルジ大作戦」を書いたトーランドも、このゼップを「肉屋の親父」扱いしてましたねぇ。

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ユダヤ人問題の最終的解決をハイドリヒに指示したとされるゲーリングですが、
「私は一度もユダヤ人の虐殺などは望まなかった」と語り、
妻の友人のユダヤ人を救った例などを挙げます。
大量虐殺についても何も知らなかったとし、
「そりゃあ、200人とか2000人が殺されたっていうニュースだったら場合によっては
信じたかもしれないが、数百万が殺されたという外国の報道はありそうもないように思われた」

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「ゲーリングの見た同僚と知人たち」の章では、リッベントロップを非難する一方で、
ルドルフ・ヘスの健忘症にも触れながら、勇敢だと誉めています。
「すっかり節度を無くした被告連中が同じドイツ人として恥ずかしい」として、
毅然としているのは、「ヘス、フンク、そしてデーニッツだけだ」

Joachim Vo nRibbentrop Rudolf Hess Nurnberg.jpg

ゲシュタポから常に監視され、最後にはSSに逮捕されたゲーリングは、
SS全国指導者ヒムラーに対し、恨みすら抱いていたようで、
「ヒムラーが「SS空軍」を創ろうとしていた努力も台無しにしてやり、個人用の1機を除いて、
己の命令どおりに発進できる飛行機をまったく持っていなかった」と勝ち誇ります。

またカリンホールの監視兵がSS兵士だったいう話は面白かったですね。だいたい、ココは
ヘルマン・ゲーリング師団の分遣隊が警備していたと思いましたが、こんなことを言っています。
「監視兵はまったく無気味であった。家のいたるところを歩き回り、夜中に空腹のために
台所に行って、大根を切って食べようとしていると、背後でSS監視兵が私を見守っていた・・」
ヴィトゲンシュタインは呑んだ後、よく大根の味噌汁を作りますが、
ドイツ人ってどんな風に大根食べるんでしょうかねぇ?

Hermann Goering stands next to a Volkswagen convertible at Carinhall hunting lodge, with Robert Ley and Ferdinand Porsche.jpg

「女秘書たちにも嫌われていた」ボルマンと、「裏切り者」シュペーアも餌食となり、
シュトライヒャーカルテンブルンナーも大笑いのネタになっています。
ヒトラー暗殺未遂事件で、あわや巻き添えで死ぬところだったと言うヨードルの証言を取り上げて、
「爆発の際、巨大なシャンデリアがヨードルの頭に落下した。だが、彼は幸運で
重い鉄製の輪は彼の首をスッポリ囲む形で両肩の上に落下したのだ」

Martin Bormann, Adolf Hitler, Alfred Jodl, Albert Bormann, Luftwaffe adjutant Nicolaus Von Below, and Hitler's pilot Hans Baur of Wolfschanze.jpg

最後はゲーリングが心から愛し、心配する妻エミーと8歳の娘エッダです。
ゲーリングから渡された32項目の質問状を持って、妻子を訊ねる弁護人ブロス。
そしてゲーリングは、この2番目の妻と、まるで主のようにこの家に住み着く
老家政婦との間に起こった結婚生活の障害を語ります。
「熱狂的な忠実さを示した彼女は、後妻などむしろ私の負担になっていると考え、
夜に妻が私の部屋に訪れても、寝室の前に仁王立ちになって
『元帥閣下は大変お疲れで、すでに眠っておられます』と宣言した」
こんなおばちゃんをクビにすることもできずに苦労するのも、実に彼らしい気がします。。

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223ページで写真は前半に2枚ほどの本書は、すべてがゲーリングとの対話という訳ではなく、
著者の解説と、モズレーの「ゲーリング」などから引用しながら進みます。
また、ゲーリングに対する他のナチ戦犯たちの批評も
第二次世界大戦ブックスの「ニュールンベルク裁判」から抜粋しているようですね。
これはまだ読んでいないんですが、副題の「暴虐ナチへ“墓場からの告発” 」というのが素敵です。。
全体的な印象としては「ニュルンベルク・インタビュー」のゲーリング版といったところでしょうか?
ゲーリング・ファンや「ニュルンベルク軍事裁判」を楽しんだ方には、一読をオススメします。







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ゲッベルスの日記 -第三帝国の演出者- [ヒトラーの側近たち]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヨーゼフ・ゲッベルス著の「ゲッベルスの日記」を読破しました。

第三帝国の宣伝大臣ゲッベルスの日記は過去に「大崩壊 -ゲッベルス最後の日記-」
紹介していますが、あちらが1945年2月~の終戦間際の日記であったのに対し、
1974年の発刊で、334ページの本書はそれ以前の期間の日記です。
具体的には1925年~26年のゲッベルス青年期にヒトラーと知り合う部分の日記と
1932年から翌年にかけて、ナチ党が政権を奪取する部分の2部構成です。

ゲッベルスの日記.jpg

はしがきでは「ゲッベルスの日記」と云われるものがなんなのかを解説しています。
しかし、このはしがきがおそらく1962年の英訳版、「1925年~26年の日記」という
古いものであることから不明な部分も多く、ちょっと混乱したので、
1984年発刊の「大崩壊」のはしがきを読み返してみました。
この2冊からの情報を整理すると、だいたいこんな感じです。
1924年6月以来、ほとんど毎日、1941年7月まで自筆で日記をつけていたゲッベルスは、
それ以降の1945年まで口述の形でタイプさせ、そのタイプ用紙は4万枚にも及び、
ゲッベルスはこれを最新技術のマイクロフィルムに収めて、現物は破棄するように命じますが、
なぜかそれは実行されず・・。

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終戦時、総統官邸を占拠したのはソ連軍なわけですが、彼らが置いて行ったのか、忘れたのか、
1942年~43年の日記が断片的ながら発見され、1948年に「ゲッベルスの日記」として
初めて陽の目を見ます(未訳)。
さらに脱落のない1925年~26年部分の192ページの日記が見つかって、
これが本書の第1部に該当します。
西側の手に入ったこれら以外は、1960年代末に元総統官邸敷地で建設工事が始まった時に
放置され、忘れられていた痛んだ大量の日記とマイクロフィルムを東ドイツ当局が
改めて発見したのでした。そしてこれを手に入れた出版社は、
最後の6週間だけを公刊し(「大崩壊」)、残りは現代史研究所などに売却。

と、いうことで第1部の「1925年8月14日~26年10月30日」までの日記。
いきなり「スイスから手紙をくれる、かわいいエルゼ・・」のことから始まるため、
この1925年8月という時期のナチ党やヒトラー、ゲッベルスの立ち位置がわからないとツライですが、
はしがきにもコレがちゃんと書いてあるので問題ありません。

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簡単に紹介すると前年の暮れにランツベルク刑務所から釈放されたヒトラー。
すぐにナチ党を再建し、ドイツ西北部はグレゴール・シュトラッサーに任せ、自分はミュンヘンに・・。
ラインラントの大管区指導者カール・カウフマンの元で書記局長となったゲッベルスは
シュトラッサーの秘書も兼ね、新しく出版する雑誌の編集にも加わります。

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日記でシュトラッサーを「ユーモアのセンスがあるすばらしい人物」と評するゲッベルス。
ルール大管区のSA指導者のルッツェなども頻繁に登場し、各地での党の講演にも向かいますが、
ドルトムントでは「怒り狂った赤の暴徒との市街戦。ぼくらの負傷者は49名。気ちがい沙汰だ」
さらに「会場は超満員。シュトライヒャーが話す。ぐでんぐでんに酔っていた」
登場人物にはカッコ書きで役職(フランケン大管区指導者)などと書かれているので助かります。。

Julius_Streicher.jpg

10月、ゲッベルスは党首ヒトラーと初めて対面します。
「食事中のヒトラーは急いで立ち上がり、ぼくと握手。あの大きい青い目。星のようだ。
ぼくが来たことを喜んでる。天にも昇る心地だ」

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面白かったのはラジオについて書いているところですね。
曰く「俗物を生産する現代的装置」
写真で見る ヒトラー政権下の人びとと日常」では、「最先端大衆感化装置」
と書いてありましたが、訳が違うだけかも知れません。。
また3つ歳下のヒムラーについてはこんな風に書いています。
「気のいい人間だ。極めて物わかりが良い。ぼくは彼が好きだ」

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そして1926年の6月にもなると、上司の立場であるカウフマンやシュトラッサーよりも
ヒトラー崇拝が激しくなっていきます。
「演説家としてのヒトラーは身振り、演技、言葉をものにして、このバランスが実に素晴らしい。
生まれながらの大扇動家だ!彼とならば世界を征服することもできる」

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ナチ党の演説というと、どうしてもヒトラーのものが有名ですが、実際はゲッベルスを含め、
党のお偉いさんたちがあちこちで、しょっちゅうやっていたことがわかります。
シュトライヒャーが"ぐでんぐでん"だったり、良いも悪いも客観的に見ていたようですね。。
こうして10月30日、ゲッベルスは首都の大管区指導者となるべく、
ベルリンへ旅立って行くのでした。(おわり)

Adolf Hitler in happy time with Joseph Goebbels.jpg

第2部の1932年元旦からの日記は、ちょっと特殊な日記であるといえるでしょう。
それはこの日記は終戦後に発見されたものではなく、
ゲッベルス自身が「ベルクホーフから総統官邸へ」というタイトルで
1937年に発表した、日記形式の本であるということです。
ちなみにベルクホーフとはベルヒテスガーデンのヒトラーの山荘ですね。

Goebbels_Hitler.jpg

当時の首相はブリューニング。とにかく選挙に次ぐ選挙の1年間ですから、
ナチ党がどのような宣伝戦術を行使して、ヒトラー首相が誕生したのか・・その内幕が語られます。
いきなり登場するのは「刺殺されたヒトラー・ユーゲントの少年」・・、
あのノルクスくんですね。。「すぐに社説を口述。編集局がまた活気づく」
ベルリンの4月の選挙では「うそのような大勝利だ。断然、群を抜く第1党だ」

ヴィルヘルムスハーフェンを訪れ、就役したばかりの「技術の奇跡」軽巡洋艦ケルンを見学。
そして「海軍の態度は素晴らしい。将校も水兵もみなぼくらを支持し、
フェルキッシャー・ベオバハターを読んでいる」
その翌日にはブリューニング内閣が総辞職・・、混乱の続く国内。
「共産党が行進中の突撃隊(SA)を襲撃。15名の死者。50名以上の負傷者」

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そんななか、ヒンデンブルク大統領の信任を得る2人、シュライヒャーパーペンはヒトラーに
副首相のポストで満足するよう執拗に迫ります。
「総統と党を使い捨てにしようという意図が丸見えだ」
しかし11月の選挙では敗北・・。
ヒンデンブルク大統領はヒトラーに「国会で過半数の支持を得よ」と語り、
自ら首相に指名する気はありません。
結局、シュライヒャーが指名されますが、ゲッベルスは「この内閣はもって2ヶ月だ」

Papen_schleicher.jpg

そんな折、「爆弾が炸裂する。シュトライヒャーが党の役職をすべて辞任すると言ってきた」
これは「総統と党に忠誠を尽くすよりも大臣のポストが欲しい」という裏切りです。
最終的には武装SS師団の名前にもなっている1月30日、首相官邸の窓際に立つヒトラーの姿に
「数10万の群衆が感謝と歓喜の声を浴びせる」ことに・・。

それでも内閣に入閣したのはフリックゲーリングだけであり、この後は国会を解散し、
3月の選挙でナチ党内閣を確立するという最後の戦いが残っています。
「こんどやっつける相手はマルキシズムだ。あらゆる手を使うことになるだろう」
そしてゲッベルスの予言通りか、2月27日には「国会議事堂が火事だ!」
共産党の放火によるものとされるこの事件、
「総統は一瞬も平静を失わず指示を出している。ゲーリングはまったく生き生きとしている」

Reichstagsbrand am 27.02.1933.jpg

彼のつけていた日記がベースにはなっているものの、彼個人やヒトラー、
またはナチ党にとってあまりに都合の悪いことは書かれていない・・と思います。
でも「ゲーリングはまったく生き生きとしている」というのは、なにか意味深ですね。。
それでもシュライヒャー将軍やシュトラッサー、共産党に社会民主党などについては辛辣で、
基本的には遠慮のない、ナチ政権が誕生するまで繰り返される選挙戦の死闘の様子を
中心人物が語ったものとしてみれば、当時のハチャメチャな国内情勢を
ドキュメンタリー風に別の角度から楽しく知ることのできるものだと思います。
ひょっとしたら1941年に日本でも発刊された「勝利の日記」は、コレと同じかも知れません。

goering goebbels.jpg

本書はこのように2つの時期の異なる形式の日記(原著)をまとめた一冊で、
特に手の入っていない第1部は、20代後半のゲッベルスが本命の女の子がいるものの、
あの娘は素敵だ・・とか、この娘も・・と、浮気性というかなんというか、恥ずかしいほどで
(男がそうなるのを否定はしません。日記に書いていることが恥ずかしい・・)、
後にマグダと結婚後も、片っ端から女優に手を出したエロおやじの片鱗がうかがい知れます。

Dr. Joseph Goebbels in Graz.jpg

まぁ、古書でもかなりのプレミア価格で、この1年間チェックしていても
amazonでの最安値は、12,980円というものです。
しかし今回たまたま、1/10の価格、1290円で帯付きの綺麗なものを見事ゲットしました。
amazonでは、たまにこういう破格の値段というのがあって、以前にも注文しましたが
(「特殊戦闘車両」が"1円")、そういうのは出品者が間違いに気づいて「キャンセル」してきます。

今回も最安値の設定を1桁間違えたんだろうな~・・と思いつつ、ダメもとで注文しましたが、
気づいたのか気づかないのか、売買成立してちゃんと送ってきてくれました。
状態を確認するまで不安でしたが、開けてみて思わず、「け・・けけけ」と
筒井康隆の小説のような、いやらしい笑いが・・。





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