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ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡 [イタリア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アンドレ・フランソワ・ポンセ 解説の「ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡」を読破しました。

1996年に出た190ページの本書は以前から少しだけ気になっていた一冊ですが、
2月に、「ふたつの戦争を生きて」を読んでから、ムクムクと興味が湧いてきました。
1940年1月から1943年5月まで、2人の独裁者によってやり取りされた書簡を掲載したもので、
そのため一応、著者はヒトラーとムッソリーニということになっています。

ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡.jpg

最初に30ページほどタップリ解説を書くのはフランソワ・ポンセ。
この名前をご存知の方なら、本書は楽しめるかも知れません。
末尾の「訳者解説」にも書かれていますが、ポンセはフランスの外交官であり、
1932年~38年まで駐ベルリン大使、1938年~40年は駐ローマ大使を歴任して、
ヒトラー、ムッソリーニに対する見識が深い人物です。

1943年にゲシュタポに逮捕されて2年間拘禁され、戦後の1946年、
フランス語の本書がまとめられて出版されたということです。

François-Poncet _Hitler 1935.jpg

そんな経歴を持つポンセが書く解説は2人を比較し、なかなか楽しめます。
人間的な比較だけでなく、「ナチズムはファシズムに多くを負っており、
そこから生まれたのだと言える。ファシズムの模擬であり、特徴的な諸制度、
親衛隊、褐色の制服、古代ローマ式敬礼、青年組織、職場クラブ、
さらには「ドゥーチェ(統領)」の訳語にほかならない「フューラー(総統)」まで借用した」。

そして1923年の「ミュンヘン一揆」の失敗後、ゲーリングらがイタリアに避難所と支援を見出し、
ヒトラーはこのことを恩義に感じて、以来、ムッソリーニを「師」と仰ぐようになります。
1934年の初めてのイタリア訪問では、スーツにトレンチコート姿で、
まるで街へ出るために一張羅を着込んだ田舎者のよう・・という屈辱を味わったヒトラー。

Mussolini-Hitler_1934.jpg

その後、数回に及ぶ双方の歓迎合戦も詳しく書かれています。
この話は何度か読みましたが、子供じみていて面白いですね。

1936年のスペイン内戦で「枢軸」の絆は強まり、
オーストリア問題、ズデーテンラント問題の「ミュンヘン会談」でのムッソリーニの手腕。
しかし「1942年までは戦争をしない」と確約していたヒトラーがポーランドに侵攻すると
彼の思惑は外れ、戦争が始まってしまいます。
鋼鉄条約によれば、ドイツへの支援に急行しなければならないムッソリーニは、
この困難な状況をなんとか回避します。
いつの間にか「師」を越えた存在になりつつある「弟子」のヒトラー・・。

on in a Munich railway station during the time of the 1938 conference_ Front row Hitler (Center) Mussolini left of him - Munich, Germany September 1938.jpg

ということを解説で理解したうえで、いよいよ1940年1月4日のムッソリーニの書簡へ。
1940年~43年まで各年ごとに章分けされ、そのアタマには簡単な情勢が書かれています。
それでは10ページに渡るムッソリーニの書簡から、ちょっと抜粋してみましょう。

「こう申したからといって驚かないでいただきたいのですが、
独ソ不可侵条約はスペインにおいて好ましからざる反響を招いたようです。
スペイン内戦は、まだあまりにも近い過去なのです。
その下に死者たちが眠るこの土地は、まだ固まっていないのです。
スペインにとってボルシェヴィズムはつきまとって離れない悪夢なのです。
情熱的な思考性を持つスペイン人には、政治の持つ戦術的要請は理解しえないことなのです」。

「貴下は西へ向けての戦争の意図はないことを再度明言されてはいかがでしょうか。
そうすることによって、紛争継続の責任をフランス、英国に転嫁することができますし、
全世界もそれを認証するでありましょう」。

Hitler Examining The West Wall Fortifications May 1939.jpg

あくまで宣戦布告をし、戦争を始めたのは英仏であり、
反ボルシェヴィズムの旗を降ろすべきではなく、ロシア打倒を目指すべき・・と、
ヒトラーにけしかけつつも、自軍については、
「現時点では、貴国の予備隊であるべきだと考えています。
イタリアは長期戦に耐えることは出来ず、それを望んでおりません。
イタリアの参戦は、最も有効な、最も決定的な時点でなされるでありましょう」。

Mussolini con alcuni ufficiali militari e Starace passa in rassegna soldati accanto a carri armati.jpg

続く書簡もムッソリーニのものです。
4月~6月にかけてのドイツ軍のノルウェー占領、ベルギー降伏に祝意を表明し、
「6月5日を期して参戦するという当方の決断をご報知したかった・・」と、
フランスに対する、いわゆる「火事場泥棒」の決断に至った経緯を語りつつ、
ピエモンテの工業中心部の対空防衛体制強化のために、
「対空砲兵50個中隊並びに弾薬を委譲して下さるよう要望いたします」。

う~む。。勝手に参戦すると言って、防御の為に兵士と弾をくれ・・というのも凄いですが、
「我々相互の同志的連帯を示すための部隊兵員の交換」というまっとうな理由があるそうで・・。

Mussolini with Hitler 1941.jpg

7月には英国本土上陸作戦にイタリア軍を参加させたいと要望するムッソリーニ。
「我々は現在、極めて強力かつ高速の新型機の航空部隊を擁しています」。
当時、イタリア空軍このような新型機があったのかは良くわかりませんが、
北アフリカでの状況もあって、英軍に対して致命的打撃を与えようと目論んでいるのです。

日本の情勢についてもヒトラーに進言します。
「それとわかる新たな動きの兆しはまだありません。
日本の政策は謎めいており、優柔不断であります」。

Mussolini recibe a los japoneses en Palazzo Venezia 1941.jpg

こうしたムッソリーニの書簡が続いた後、11月になって初めてヒトラーの書簡が登場。
ムッソリーニの書簡を読む限りでは、別にヒトラーが無視していたわけでなく、
ちゃんと返信なり、ヒトラーからの書簡はあったようですが、本書に未掲載なんですね。
そもそもポンセと出版社がどのような経緯で、この書簡を手に入れたのかも不明で、
書簡によっては後半部分が判読不能として省略されているものもありました。

anking Nazi and Italian Fascist officials, including Hitler and Mussolini, at Santa Marinella, north of Rome, during Hitler's 1938 state visit to Italy.jpg

その10ページ越えのヒトラーの書簡、出だしはこんな感じです。
「ドゥーチェ
本書簡をしたためるにあたって、過去2週間、私の心はかつてないほど貴下と共にあったと
確信することをお許しいただきます。現在の情勢下で、貴下への支援になりうる
全てのことを行うという当方の決意をここで改めて披瀝しておきます」。

この長い書簡には興味深かった箇所が2つほどありました。
まずは対ギリシャ戦の延期要望が叶わなかったことに遠回しに不満を述べ、
「とりわけ、クレタ島の電撃的制圧がなるまでは、その行動を控えることの必要を
納得していただくつもりでありました。」と、有名な「クレタ島攻略作戦」の半年も前に、
イタリア軍も含めた空挺作戦を想定していたことです。
しかし実際には10月にイタリア軍がギリシャに侵攻したことで、英軍がクレタ島を占拠し、
翌年5月の作戦で、ドイツ降下猟兵が大損害を負うのです。

3rd Alpine Division Julia marching through the Balkans to Greece.jpg

もう一つは地中海の封鎖要望です。
「貴下が、それが可能になった時点で、メルサ・マトルーに進駐して空軍基地を建設し、
シュトゥーカを大量に投じてアレキサンドリアの英国艦隊を駆逐し・・」。
ロンメル戦記でお馴染みのエジプトの都市メルサ・マトルーにすでに言及していますが、
ドイツ・アフリカ軍団の派遣は、この3ヵ月後です。
まだドイツ軍の舞台となっていない北アフリカ戦線の知識と、
イタリア軍の戦略にまで丁寧ながらも遠慮なく首を突っ込んでいるのが印象的です。

3CountyClassCruisersAlexandria.jpg

12月のヒトラーの書簡ではスペイン情勢がアツいですね。
「スペインは枢軸諸国との協力を拒否いたしました。
フランコはその生涯最大の愚行を演じているのではないかと思われます。
まことに嘆かわしい事態です。なにしろ我々としては、1月10日にスペイン国境を踏破し、
2月初めにはジブラルタルを攻撃する予定だったのです。
この作戦に充当されるはずであった部隊は特別に選別され、訓練されていたのです。
フランコの決定にはいたく失望しております。
彼自身が苦境にあった時に我々が支援したことからは考えられない態度です」。

Francisco Franco.jpg

そしてロシアとの関係・・。
スターリンが存命である限り、かつ、我々が深刻な危機に見舞われるようなことがない限り、
我々に対してロシア側から手出しすることはあるまいと考えております。
ソ連邦との現在の関係が非常に良好だということであります」。

しかし新年に際しての文末はこのように締め括られるのです。
「来たるべき年が最終的勝利の年となるよう願うことになりましょう」。

State visit of the Leader in Rome 1938.jpg

1941年の書簡は2月28日のヒトラーからムッソリーニへのもの。
年を跨いでもいまだフランコに対する「きわめて不快」な話から始まります。
そしてあの将軍の名前が・・。
「トリポリタニアのイタリア軍機甲部隊を我がロンメル将軍の指揮下に置いて下さったことに
深く感謝いたします。彼は貴下の信頼を裏切ることはありませんし、
貴下の兵士たちの心服と敬愛を短期間に勝ち取るものと確信しております」。

Erwin Rommel is awarded the Colonial Order of the Star of Italy.jpg

6月21日の書簡。ヒトラーが「バルバロッサ作戦」を翌日に発動することを知らせるものです。
ヨーロッパ各国に北アフリカの状況、米国や日本の情勢にも触れたうえで、
「クレムリンとの騙し合いに終止符を打つ決心をしたのであります」と語ります。
そして、あのイタリア遠征軍を送ろうという申し出に対して、遠回しながらも、
それよりアフリカ軍団を強化したり、地中海での空戦と潜水艦戦に力を入れなさい・・
といった具合です。

また、最も重要なメッセージは、ポロポロと情報漏れするイタリアへの一言。
「とりわけ貴下に心から要望するのは、この件を貴下のモスクワ駐在大使には
伝達しないでいただきたいということであります」。

mussolini_Ciano_hitler_Heß.jpg

1942年はムッソリーニの書簡が2通掲載されているだけで、
しかもファシズム成立20周年を記念して、ドクター・ライに率いられた使節団の到着、
恐らく、ロベルト・ライの歓喜力行団がローマでお祝いした・・というようなお礼ですね。

hitler-mussolini_stamp.jpg

最終章となる1943年は、20ページに及ぶ2月16日のヒトラーの書簡からです。
スターリングラードでの敗北後のこの書簡は次のように始まります。
「長らくご無沙汰いたしましたのは、数ヵ月来、我が肩にのしかかっている
極めて重大な責務のためであります」。

第6軍のことなど、すでに終わったことには触れずに今後の問題を相談。
「ドゥーチェ、バルカンの情勢については強い懸念を抱いております。
バルカンのいずれかの地点に連合軍が上陸したならば、
共産主義者、ミハイロヴィッチのパルチザンらがただちに結束し、
ドイツ、イタリア軍部隊を攻撃して、連合軍を支援するでありましょう。
チトーの反乱組織の拡大ぶりは驚くべきものであり、
ミハイロヴィッチのチュトニクの行動には危険が潜んでいるのでありますから、
占領地域にいる彼の配下のパルチザン全員をわが部隊によって
殲滅するよう指示いたしました。
貴下の各部隊指揮官にこの方向での指令を発するよう希望いたします」。

チトーが登場する戦記はいくつか読みましたが、ミハイロヴィッチのチュトニクに対しても
かなり心配していたんですねぇ。
このような命令から、血で血を洗う凄惨なバルカン・パルチザン戦争へとなるわけですか。

Draža Mihailović.jpg

また、ヒトラーはサルデーニャ、コルシカ、シチリアの上陸の可能性も排除できず、
「サルデーニャとコルシカはとりわけ標的にされていると思われますので、
この2島の防衛力強化は決定的に重要であると考えます。」と、
あの英国による欺瞞工作「ミンスミート作戦」の影響があるかも知れません。

manstein_Richard Ruoff _Hitler_meeting_1943.jpg

東部戦線ではマンシュタインが部隊の再編成と戦線の再構築をしている最中ですが、
A軍集団のカフカスからの撤退などについてもその苦労を語ります。
ドイツ軍将兵に求められている努力が言語を絶するものであるとして、一例を挙げますが、
それは前年の武装SS「トーテンコープフ」のデミヤンスク包囲での戦いです。
包囲陣から連絡を回復した後も戦い続け、最終的には170名まで減少。

SS-Totenkopfdivision Im Kessel von Demjansk.jpg

フリードリヒ大王の話も織り交ぜながら、ナチスは絶対降伏しないとの決意を示し、
もはやムッソリーニに対して脅迫めいたことまで書き記します。
「最後の男子、最後の婦女子に至るまで動員し、戦い抜くでありましょう。
そしてドゥーチェ、イタリアには同じ道を進む以外の選択はあり得ないのです」。

hitler-greets-muso-munich.jpg

この書簡に対するムッソリーニの返信。
チュニジアを維持するためにはロンメルの提案ではたちまち海中へ追い落とされる・・
といったことに、第1次大戦の遺留品のような兵器で戦わなければならない悲劇を・・。

3月、ロンメルが総司令部に出頭した件をムッソリーニに報告するヒトラー。
「とりあえず健康上の理由ということで彼を司令官の地位から解任いたしました。
医師団の所見に照らしても、彼には休息が緊急に必要であります。
いずれにせよ、ロンメル元帥の解任並びにアフリカ軍団司令部の暫定的改編については、
これを極秘にして下さるよう要望いたします。
この情報が漏れ伝わることは我々にとって極めて有害であると考えます。
というのも、後世が彼をどう判断するにせよ、彼は指揮を執った至る所で、
部下の将兵から敬愛された指揮官だったからであります。
彼の敵側からすればロンメルは恐るべき敵手であったし、いまもそうでありましょう。
もっとも悲劇的なのは、稀にみる指揮能力と勇気とを兼ね備えたこの人物が、
海上輸送力を最大限に拡充することによってしか解決しえない、
補給能力において敵側に凌駕されたことであります」。

Erwin Rommel greets Nazi nurses in 1943.jpg

3月25日のムッソリーニの書簡を最後に紹介しましょう。
「いまやロシアの章は閉じらせても良いと申せるかと思います。
もし可能ならば、単独講和によって、あるいは防衛線を設置することによって。
このような結論に至ったのは、なによりもまず、
ロシアを破壊し尽くすことは不可能であるとの確信からであります。
我々は夏の侵攻と冬の後退とを果てしなく続けることは不可能であり、
それを無理に続けていれば疲労困憊し、結局はアングロサクソンに
漁夫の利を与えることとなりましょう。
加えて申しますなら、スターリンと連合国の目下の関係は良好どころではなく、
従っていまは決行の好機でありましょう」。

Mussolini-Hitler_03.jpg

4年以上前に読んだ「第二次世界大戦 -ムッソリーニの戦い-」を思い出すと、
この辺りはまさに娘婿の外相チアーノの影響のように思いますね。
そしてこの4か月後の7月には逮捕されてしまったムッソリーニ
スコルツェニーによって救出され、ナチスの傀儡国家であるサロ政権を樹立して、
それまで以上にヒトラーと親睦を深めるも、ヒトラーがエヴァと自殺する2日前、
愛人のクラレッタと共に銃殺されてしまうのでした。
ヒトラーの「そしてドゥーチェ、イタリアには同じ道を進む以外の選択はあり得ないのです」が
なんとも恐ろしく感じましたね。

本書はヒトラーとムッソリーニの関係をちょっと知ってみたいな・・という方には向きません。
最初のフランソワ・ポンセによる解説文こそ、まさにその点に光を当てていますが、
「書簡の内容を如何に楽しむか・・」というのが、本来の目的になるでしょう。
それには1939年から1945年までのヨーロッパ戦線全般の知識が必要であり、
具体的には児島さんの「ヒトラーの戦い」を全巻読んでいるくらいがちょうど良いと思います。

mussolini-hitler.jpg

書簡の日付を見て、東部戦線、西部戦線、北アフリカ戦線で何が起こっていたかがわかり、
その数ヵ月後には何が起こるのか・・という答えを知りながら読む楽しさということです。
また、お互いこれ以上ないほどの丁寧な文章と、自軍の状況、相手に対する希望は、
そのまま鵜呑みにできない政治的駆け引きや、己のプライドも垣間見ることができ、
読者の知識をもって深読みするのも、大人の楽しみ方のひとつのように思います。

確かに序盤から中盤にかけてはムッソリーニの書簡が一方的に紹介されたことから、
読みながらも、その書簡ごとの内容説明が必要なのでは・・と思っていました。
しかし1942年~43年、双方の危機的状況が頻繁にやり取りされてくると、
逆にそんな解説があったら「野暮」だなぁ・・と考えが変わりました。
それは第3者の余計な説明が一切ないことで、その2人の緊張感が持続するからです。
特に最後の数10ページは夜中にお酒を呑むのも寝るのも忘れて、一気読み・・。



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ふたつの戦争を生きて ファシズムの戦争とパルチザンの戦争 [イタリア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヌート・レヴェッリ著の「ふたつの戦争を生きて」を読破しました。

実に久しぶりとなる「イタリアもの」の紹介です。
前回はいつかというと、2010年9月の「誰がムッソリーニを処刑したか」ですから、
3年以上になりますね。
ちょうどその頃、2010年7月に出た272ページの本書は
イタリア軍将校として東部戦線に従軍し、その後、本国でパルチザンとして・・という、
タイトルどおりの経歴を持つ著者による一冊です。

ふたつの戦争を生きて.jpg

「はじめに」では、一般的な歴史書や将軍たちが書いた回想録を
「高所から見た歴史」と位置づけ、兵士たちの声、「底辺から見た戦争」を重視し、
素晴らしい本として「雪の中の軍曹」を挙げています。
あ~、あれも何とも言えない良い本でした。今でもすぐに思い出せますね。

第1章は、著者の生まれた1919年に出現した初期のファシストについて。
イタリア全般というよりも、著者の出身地であるクーネオ県が舞台です。
このクーネオ県はピエモンテ州の南西部に位置し、北にはトリノ、
西はアルプス山脈をはさんでフランスに接する地域のようです。
1930年代になると教育はファシズム一色となり、
全国バリッラ事業団(後のリットリオ青年団)により、青少年は強制的に組織されます。
6歳~8歳までは「牝狼の息子たち(フィーリ・デッラ・ルーパ)」。

Bambini con le divise dei figli della lupa.jpg

11歳までは木製の銃を与えられた「バリッラ少年団」、
14歳になると本物の銃を与えられて「前衛少年団(アヴァングァルディスティ)」、
最終的に18歳までの若者で構成される「青年ファシスト隊(ジョヴァニ・ファシスティ)」となります。
ヒトラー・ユーゲントと、その年少組織と同様・・というか、その手本ですね。

La Opera Nazionale Balilla del Fascismo Italiano.jpg

女の子の場合にもナチスのBDMなどと同じく年齢別に組織され、
最初は「イタリアの少女たち(ピッコリ・イタリアーネ)」、

piccole italiane.jpg

「イタリアの娘たち(ジョヴァニ・イタリアーネ)」、

Giovani Italiane_Duce.jpg

そして最後には「ファシスト婦人団(ドンネ・ファシステ)」となっていくのです。

Roma, 1939_grande adunata femminile.jpg

いや~、こんな話、初めて知りました。
ちょっと調べてみましたが、日本語で書かれた書籍やWebサイトは見つかりませんでした。
やっぱりピン・バッジなんかもあったようで・・。

Piccole Italiane e Giovani Italiane.jpg

そして10代の著者も勉強そっちのけで、制服を着た軍隊モドキの生活、
提供されるスポーツ活動に励み、大いに満足しているのです。
学校は公然たるファシズム機関と化し、非ファシズムは危険を伴います。
エチオピア戦争、スペイン戦争と戦勝を祝う日が続き、
1938年には人種法が制定され、クラスのユダヤ人も学校に来られなくなるのです。

Giovani Italiane.jpg

1940年6月にはドイツ軍の電撃戦の前に右往左往しているフランスに対し、
火事場泥棒的に攻め込みます。
10月にはアルバニアからギリシャへと侵攻。
しかし12月には前線が壊滅状態になると、バドリオが参謀本部から放逐され、
1941年4月、ドイツ軍がユーゴからギリシャに転進したことによって、
ムッソリーニもようやく喚き立てることができたのです。
「我々はギリシャを粉砕するだろう」。

Albania_1940_41.jpg

そんな1939年から1941年の4月まで、著者はモデナの陸軍士官学校に在籍。
叩き込まれた第1点は、
国王は国家のヒエラルキーの頂点に位置し、次に来るのが皇太子殿下ピエモンテ公、
最後が内閣の長であり、全軍総司令官たるムッソリーニ閣下」。
あ~、ピエモンテ公ウンベルト2世は、マリア・ジョゼーの旦那さんかぁ。。

Villa Ada un viale dedicato a Umberto II di Savoia e Maria José.jpg

そしてもう1点、「軍とファシズムは別物である」。
パドリオが参謀総長を解任されたその日、厳格な老士官である教官が授業で語ります。
「卑しいファシストどもの、烏合の衆どもの陰謀がわが軍のバドリオ元帥を罷免したのである。
ファシストどもはイタリア全軍を辱めた。暗黒の時代となった」。

序文で「本書は歴史書と回想録の中間に位置する」と書かれているとおり、
章ごとにまず全体的なイタリア軍の情勢が描かれ、次に著者の体験へと続くパターンです。
士官学校の制服は伝統的なようで、特に色合いが良いですね。イタリアのセンスです。

Accademia militare di Modena.jpg

1941年6月21日、ドイツ軍による「バルバロッサ作戦」発動の前日に、
ムッソリーニは参謀本部に「軍団」の創設を要請します。
ドゥーチェの思いは唯ひとつ、「乗り遅れるな」。

Duce.jpg

しかしヒトラーは、イタリアは北アフリカと地中海の戦いを強化すべきだと釘を刺し、
6月30日にはロシア戦線についての現状を報告し、敵がまさに鋼鉄の動く要塞というべき
装甲75㎜の巨大な52㌧戦車を配備していることを告げるのです。
「ドゥーチェよ、よく考えたまえ。きみの3㌧戦車など、ここではおもちゃのようなものだよ」。
まぁ、実際にはもっと丁寧な言葉づかいの手紙を送っているんでしょうが、
以前から気になっていた「ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡」を読んでみたくなりました。

KV 2 heavy tank captured by German forces 1941.jpg

そんなことは意に介さないムッソリーニ。
7月9日、ロシア戦線イタリア派遣軍(CSIR)が結成され、
パズビオとトリノの自動車化師団に第3快速師団、戦闘機51機を含む空軍など、
将校2900名、兵58800名をジョヴァンニ・メッセ司令官と共に送り込むのです。

ルーマニアで軍輸送列車から降ろされたイタリア派遣軍。
ここから先は集結地点まで自力でやりくりせよ・・と言うドイツ軍に対して、
「君たちは誤解している。CSIRは自動車化部隊ではなく、
トラックで移動する訓練を受けた「『自動車輸送可能』部隊なのだ」。。

giovanni_messe.jpg

仕方なく自前のトラックでカルパチア山脈を越え、ドニエストル河畔を目指しますが、
トリノ師団に至っては全行程1300㌔を徒歩で進む羽目に・・。
難渋の末にフォン・クライストのもとで進軍するイタリア派遣軍。
しかし冬には全戦線が行き詰まり、ヒトラーも追加の軍団の派遣を要請することになって、
1942年7月には3個軍団から成るガリボルディ将軍の
「イタリア第8軍」として生まれ変わるのです。
将校7000名、兵22万と大増強され、「小型トラック」と呼ばれた例の3㌧戦車も55両配備。。
少尉に任官したての著者も、第2山岳師団「トリデンティーナ」に所属して出発。

divisione-tridentina.jpg

前年の冬から何も学ばず、北アフリカで戦うのと同じ靴を履かされたイタリア第8軍。
片やドイツ軍はフェルトでできた「ヴァーレンキ」という冬靴を大量生産しています。
山岳軍団としてカフカス山脈に向かっていたはずが、いつの間にやら12月には
ドン河での防衛陣地に配備され、ハンガリー第2軍とルーマニア第3軍に挟まれます。
これは確か、ハンガリー軍とルーマニア軍をくっつけると戦争になる・・って話だったような。。
イタリア軍の前線は270㌔に及び、後方には予備軍のない、心もとない抵抗線。

Sentinella del 6° reggimento alpini sul fronte del Don (dicembre 1942).jpg

そして12月11日、ソ連軍の攻勢が始まります。
スターリングラードの「天王星作戦」に続く、「小土星作戦」ですね。
1月、何の予告も無く前線を放棄して西へと撤退したお隣さんのハンガリー軍。
左翼は完全な無防備の状態となり、トリデンティーナ師団も
ドン河から離れることを余儀なくされます。
脚が凍傷になって行き倒れている兵士・・。
まさに「雪の中の軍曹」を再現した世界が繰り広げられています。

Armir- La disfatta dell’armata italiana.jpg

ドイツ軍が遺棄したコニャックが山と積まれた倉庫を発見し、
水筒をコニャックで満たして酔っ払った部下たちの姿・・。
この寒さに空きっ腹でコニャックを流し込むことは、野垂れ死にを意味します。
年上の部下たちは憎々しげに語ります。
「俺たちにはコニャックしか残ってないんだ。
なのにあんたは、それさえも取り上げようというのか!」

またある時にはソ連軍が遺棄していったトラックによじ登り、
「蒸留酒が詰まった容器がある」と誰かが叫ぶと、山岳兵たちが殺到。
黄色のベタついた妙な甘みのあるその液体を大勢が飲みますが、
正体は「不凍液」。。
多くが中毒死する、おぞましい光景です。

soldati del Regio Esercito.jpg

ソ連軍に包囲され、カチューシャ・ロケット戦闘機の機銃掃射を浴びる師団。
若き少尉である著者は疑問に思います。
「ローマは我々の窮状を知っているのだろうか。なぜ救援しようとしないのか・・」。
そしてファシズムと軍上層部、希望のない袋小路に追い込んだ「祖国」を呪うのでした。

quello sul fronte russo.jpg

ロシアから戻らなかった者85000名のうち、行方不明者が64000名。
著者はなんとか包囲網からの脱出に成功し、故郷へと帰還を果たします。
神経を冒されて引き籠りの生活を送るなか、7月25日、ファシズムが崩壊。
連合軍がシチリアに上陸し、ムッソリーニが逮捕されたということです。
9月8日にはバドリオの休戦を伝えるニュースが流れ、戦争が終わったと歓喜する人々。

Buona Festa della Liberazione a tutti!.jpg

3日後、装甲車の隊列をなしてクーネオにやってきたドイツ軍が広場を占拠。
ワルシャワで、ロシアで目にした厚顔で傲慢で、おぞましいドイツ軍の姿。
しかもヨッヘン・パイパーが率いるSS部隊なのです。

9月19日にはパイパーSS少佐による虐殺がボヴェス村で行われます。
お~、コレは「炎の騎士 -ヨーヘン・パイパー戦記-」にもありましたね。
著者はパルチザン部隊「戦死者たちの復讐第一中隊」を結成し、
ドイツ軍とファシストに徹底抗戦することを決意するのでした。

Guhl, Peiper and Werner Wolff in Reggio Italy 1943.jpg

そんなパルチザン狩り、掃討作戦を実施するドイツ軍。
それに追従する形で現れるのが憎きファシストであり、
パルチザンの縁者を連行しては口を割らせるために打ちのめす、
残忍非道な拷問者であり、捕えた者は縛り首にするのです。
片やパルチザンはファシストを人間として尊重し、痛めつけることなく、銃殺。。

Donna impiccata dai nazifascisti ad un albero a Roma_1944.jpg

後半は小さな組織が入り乱れての複雑なパルチザン戦ですから、
著者の回想がほとんどを占め、例えばムッソリーニの最期などには触れられません。
ドイツ軍が悪役であるにしても、ある意味、イタリア人同士による内戦ですし、
客観的には「寝返った」などと、いろいろ言われているだけに
読み方によって本書の印象は変わってくるでしょう。

A bullet-holed portrait of Italian dictator Benito Mussolini fixed to a tree.jpg

それでも著者の思い、「底辺から見た戦争」は充分に伝わってくる一冊で、
こんなにイタリア軍のことを知らなかったのか・・と、目から鱗が落ちた一冊でした。
また、イタリア軍だけでなく、まるでヒトラー・ユーゲントのような青少年組織や、
武装SSのようなファシスト軍(国家義勇軍、黒シャツ隊)など、
大きく3つに分けて詳しく知りたくなりました。
「イタリア軍入門 1939~1945」や、「Viva! 知られざるイタリア軍」で勉強してみようかなぁ??
と思いますが、青年団に関する書籍は皆無ですし、黒シャツ隊も同様です。
特に黒シャツ隊の一部は、武装SSの「イタリア第1」になっていったようですから、
なおさら興味が湧いてきました。









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誰がムッソリーニを処刑したか -イタリア・パルティザン秘史- [イタリア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

木村 裕主 著の「誰がムッソリーニを処刑したか」を読破しました。

前作「ムッソリーニを逮捕せよ」は、なかなか勉強になった一冊でしたが、
本書はその続編、スコルツェニーに救出されたムッソリーニが復権を目指すものの、
最終的には、パルチザンによって処刑・・そして、ヴィトゲンシュタインが30年前に
初めて見た「ムッソリーニの写真」・・有名な逆さ吊りにされた姿となるまでが描かれています。

誰がムッソリーニを処刑したか.JPG

イタリア本土は既に南部から連合軍が上陸し、ドイツ軍はいまだ支配下にある北イタリアで
ムッソリーニを首班とした「イタリア社会共和国(サロ政権)」を樹立します。
首都ミラノにはカール・ヴォルフSS大将の親衛隊本部を置き、
ローマにはケッセルリンク元帥率いるイタリア占領軍が本陣を置いて、
イタリア全土のドイツ軍20個師団を指揮します。

Albert Kesselring in uniforme bianca.jpg

そんなローマ市内中心部で1944年3月23日の午後、
突如、市内全域で聞こえるほどの大爆発が起き、このスペイン広場に近い
ラセッラ街を行軍中のドイツ親衛隊156人が吹き飛ばされてしまいます。
このパルチザンによる12㎏と6㎏の2つの爆弾テロによって、現場は血の海となり、
散乱した肉片、ちぎれた軍服など酸鼻の極み・・即死したSS隊員は32名だそうです。

Via Rasella bomba.jpeg

激怒したヒトラーは「24時間以内にドイツ兵1人に対し、イタリア人50名を処刑せよ!」。
更には「ラセッラ街まで全域爆破」という命令まで出され、最終的な死者33名の50倍、
1650名もの処刑対象者をどのように集めるかに困窮したケッセルリンクは
ロシア戦線での「1対10」の割合を適用することでなんとかヒトラーの了解を得ます。

この命令を遂行するためローマのゲシュタポ長官、37歳のヘルベルト・カプラーSS中佐が登場し、
大急ぎで「処刑者リスト」が作成されますが、ゲシュタポが監禁している反ナチ・ファシストや
刑務所の政治犯や死刑囚だけでは330名に遥かに届かず、
不足分にはユダヤ人があてがわれます。

Kappler dopo la cattura.jpg

食肉運搬車に詰め込まれたイタリア人をローマ南郊の「アルデアティーネの洞窟」へと運び、
次々に銃殺し、証拠隠滅のため、入り口を爆破・・。
戦後のカプラーの裁判の様子まで書かれていて、少年をも含めた死を待つイタリア人の様子や
逆にカプラーから叱咤激励を受け、コニャックをラッパ呑みしながらこの命令を実行した
若いSS隊員たちの証言などは印象的でした。

なお、本書ではカプラーが処刑現場で指揮を取っていますが、
実際にはエーリヒ・プリーブケというSS大尉が実行したようです。

Erich Priebke.jpg

この「アルデアティーネの虐殺」というのは、なんとなく聞いたことがあったものの、
その発端となったパルチザンによる爆弾テロはまったく知りませんでした。

ローマのこの町の住人たち、すべてがパルチザンであったろうハズもなく、
静かに戦争をやり過ごしたかった人たちや、335人の犠牲者からしてみれば
「なんちゅうことをしでかしおって!」と思っていたのかもしれませんね。。
実際、戦後、この爆弾テロ実行犯は遺族から訴えられたそうです。

Fosse Ardeatine_44.JPG

本書のようなパルチザン活動は、最近でも中東のある国でアメリカ軍に対して行われ
連日、日本のTVニュースでも報じられる、「爆弾テロ行為」となんら変わりがありません。

占領軍や占領政府からしてみれば、このようなテロは容認出来るものではありませんが
では、どうすれば円満な「占領」や「統治」が可能か・・という問題は
アメリカをみても未だに解決不能な難しい問題だと思います。

ムッソリーニ政権を転覆させた娘婿チアーノのその後も出てきました。
妻エッダとともにスペインへ逃亡するところをドイツ軍に捕えられ、
その後、ドイツではなく「サロ政権」によって死刑判決を受けます。
これは裏切り者チアーノの処遇をムッソリーニに押し付けたヒトラーの意思であるとして、
その裁判と続く銃殺のシーンも非常に詳細です。

striscia_ciano_1944.jpeg

また、チアーノから彼の「日記」の場所を探り出すため、ヒトラーの命により
美貌のSS隊員「ビーツ夫人」が囚われのチアーノの世話を焼く場面がありますが、
女好きとして知られるチアーノもこれを賢明にも適当にはぐらかし、
逆に「ビーツ夫人」はチアーノの人柄に負けて、遂には任務放棄・・。
しかし、この話はちょっと出来すぎの感じがしますね。

Frau Beetz.jpg

連合軍がローマを開放し、日本人3人がパルチザンに殺されるという話が続き、
「マルツァボット虐殺」という初めて聞く話が出てきました。。
1944年8月、ドイツ軍の防衛戦「ゴシック・ライン」の背後を襲うパルチザンに
業を煮やしたヴァルター・レーデルSS少佐の指揮するSS部隊が
マルツァボット村での1800人を頂点に複数の村落を次々と焼き払い、
計3000人の村人を殺害した・・というものです。

LA STRAGE DI MARZABOTTO.jpg

このSS部隊が気になって調べてみると
「第16SS装甲擲弾兵師団 ライヒスフューラー・SS」のようです。
また、このヴァルター・レーデルSS少佐は写真の通り、元「トーテンコップ」ですね。。。
「パルチザンが潜伏、利用すると思われる村々」というのがこの虐殺の理由と書かれていますが、
いくらなんでも、もうちょっとマシな理由がありそうなものです。

Walter Reder 3.SS-Panzer-Division Totenkopf and the 16.SS-Panzergrenadier-Division Reichsführer-SS.jpg

後半はタイトルどおり、誰がムッソリーニを処刑したかを大きな組織となっていった
パルチザン組織と、この傀儡政権におけるムッソリーニの生活、
そして愛人クラレッタ・ペタッチとの逃避行の様子を描きます。

clara_petacci.JPG

追い詰められたムッソリーニは戦いつつも名誉ある降伏を模索しますが、
ヴォルフSS大将は”カール・ハインツ”(ムッソリーニの暗号名)には内緒で
連合軍側と降伏交渉を行います。

Karl Wolff.JPG

スイスへの逃亡も護衛に付くSS隊員と偶然に合流した撤退するドイツ軍一行。
ムッソリーニは泥酔したドイツ兵に変装させられますが、パルチザンに見破られ、
山の一軒家に監禁されてしまいます。
そして4月28日、処刑人として登場して来たパルチザンによって、クラレッタと共に銃殺・・。
その他の側近たちも同様の運命を辿り、ミラノのロレート広場で晒しものにされ、
群集が数千から数万へと膨れ上がると、良く見えるようにと、
ガソリン・スタンドの屋根から吊るされることに・・。

Mussolini et sa maîtresse Clara Petacci.jpg

このムッソリーニ処刑の下手人は様々な説があり、本書でもいろいろと紹介しています。
また、クラレッタまで処刑したことには「やりすぎ」との声も多く、
気の毒に思った市民のなかには、ムッソリーニの頭をクラレッタの胸に乗せてあげたり・・と、
自分が見た吊るされる前の写真でも、2人が腕を組んでいるショットもありました。
新聞を読んだ英首相チャーチルも「ショックだ!」と憤慨していたそうです。

パルチザンやレジスタンスと呼ばれ、英雄視される彼らも
対する占領軍からしてみれば、軍服も着ずに一般市民のフリをして
背後から襲ってくるという、まったく卑怯な連中であり、
まして、昨日までの友であったイタリア人がそのような行動に出てきた場合
報復が報復を呼ぶ展開になることは想像できます。

結局、パルチザンやレジスタンス活動は、それによる「報復」というのも
充分に考慮に入れて置くべきもので、それゆえ第二次大戦中でも政府レベルな作戦は
ハイドリヒの暗殺以外あまり知られていません。

The_place_where_Reinhard_Heydrich_was_killed.jpg

このドイツ目線から見たブログとしては、本書の真逆な視点も楽しめ、
その結果、三国同盟の数十年経った日本人という微妙な客観的立場からして、
今まで以上に、このパルチザン・・或いはテロ行為、
それに伴う報復処置というものを改めて考えさせられました。



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ムッソリーニを逮捕せよ [イタリア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

木村 裕主 著の「ムッソリーニを逮捕せよ」を読破しました。

いわゆる「イタリアの寝返り」がどのようにして起こったのか・・ということに
焦点を当てた本書は、以前から気になっていた一冊で
著者は毎日新聞の記者としてローマ特派員を務め、後に
在イタリア日本大使館広報・文化担当官という人物で
30年越しの独自の調査などから、思い入れタップリに本書を書き上げ
講談社のノンフィクション賞を受賞しています。

ムッソリーニを逮捕せよ.JPG

1943年初頭の暗雲立ちこめるイタリアの状況から始まります。
「ラテン系」のイタリア人と「ゲルマン系」のドイツ人の大きな性格の違いや
古くローマ時代の北方ゲルマン民族に対する脅威から不倶戴天の敵と見做していた・・と
その「枢軸」の無理やり加減を解説しています。

「イタリア人にとって無意味な戦争である」として一刻も早く戦争からの離脱を考える、
参謀部の若き将軍、ジョゼッペ・カステッラーノは
新参謀総長アンブロージオの信任とともにムッソリーニの失脚を画策し始めます。

Vittorio Ambrosio.jpg

国王の意向も重要なことから宮廷大臣アックワローネ公とムッソリーニの娘婿で
外相のチアーノとも接触し、ファシスト党内部での反乱も押し進め、軍と国王、
ファシスト党というムッソリーニの周辺を極秘のうちに切り崩していきます。

そして1943年7月、有名なイタリアン・マフィア、ラッキー・ルチアーノの協力や
多数のイタリア系将官を要した連合軍によるシチリア上陸のハスキー作戦が実施されると、
ファシスト党からも「大評議会」が数年ぶりに開催され、長時間に及ぶこの会議で
遂にムッソリーニ解任要求が議決されます。

Benito Mussolini, Galeazzo Ciano Graf von Cortelazzo, Adolf Hitler.jpeg

それでも国王エマヌエーレ3世の信任に自信のあるムッソリーニは
翌日、国王のもとを訪れますが、すでに反ムッソリーニ派からの進言を
受けていた国王は、あっさりとバドリオ元帥が後任である・・と指示し、
ガックリと王宮を出てきたムッソリーニを護衛という名目で拉致することに成功します。

本書のタイトルである「ムッソリーニを逮捕せよ」までの過程は
この中盤に差し掛かろうかというところで首尾よく完了してしまいますが、ここから
本当の主題である「連合軍との休戦」に至るまでの各国の思惑と騙しあいの幕があがります。

giuseppe_castellano.jpg

イタリア国内でも戦力の優れたドイツ軍にバレた場合の被害を想定すると
ムッソリーニ失脚後も、新イタリア政府は「戦争を続ける」と公式に表明し、
枢軸の兄貴分ドイツを安心させようと四苦八苦します。
しかし「戦争を続ける」といってもそれは、連合軍がイタリア本土に上陸した暁には
彼らと共にドイツ軍と戦うという意味であり、そのために本書の主役カステッラーノは
リスボンの英国大使にイタリアの意向を伝えようと、
ゲシュタポの目をかいくぐりながらの列車の旅に出ます。

政治的な駆け引きと全権を託されていない、あくまで軍人であるカステッラーノは
国王やパドリオの考える政治的解釈と、なによりも本国と連絡ができないことが
大きな悩みであり、このあたり、政治サスペンスの様相を呈しています。

Vittorio Emanuele III.jpg

やがてシチリアで、アイゼンハワーとも直接対面しての休戦交渉に挑みますが、
連合軍側の条件は「無条件降伏」という厳しいもの・・。
なにを言われようが枢軸軍から連合軍に寝返ることが目的のイタリアは
ローマ以北へ上陸してもらい、ドイツ軍を分断して被害を最小限に抑えながらも
一緒にドイツ軍をイタリアから駆逐することを進言します。

1943-Bedell Smith-Castellano-Eisenhower-.jpg

アイゼンハワーを筆頭に厳しい条件と態度の連合軍首脳のなかで、
補佐官のベデル・スミス将軍だけは唯一、カステッラーノに同情的で
遠回しながらも極力真意を伝えようと努力します。

ですが、連合軍の上陸作戦とそれに伴う「無防備都市ローマ」市内への
降下作戦の日時を誤解したことから、この降下作戦は中止となり、
さらには同様に教えて貰えずじまいだった上陸地点が南であったことからも、
結局はケッセルリンクロンメル率いるドイツ軍の防衛戦術の前に時間と損害、
そして長期に渡るファシストと反ファシストとの争いやパルチザンの大量処刑など、
当初カステッラーノたちが目指したものとは違う展開となっていきます。

Roma, città aperta.jpg

スコルツェニーによるグラン・サッソからのムッソリーニ救出も語られますが、
個人的に興味のあるチアーノのその後が出てこないのが残念でした。
これは本書の姉妹編である「誰がムッソリーニを処刑したか」に
書かれているのかもしれません。

Mussolini and Skorzeny.jpg

なかなか勉強にもなり、かつ楽しめました。
ドイツ目線から見れば、やはり「都合の良いことやってんな~」とも思いますが、
それも戦争の一部ですし、民族気質の違いもある程度理解できます。
また"ドゥーチェ"ムッソリーニと、"フューラー"ヒトラーとの決定的な立場の違い、
イタリアには国王がおり、その信任が必要であるという、当たり前と言えば当たり前ですが、
同じ「独裁者」と呼ばれる人物でも、人間性より、その足元の違いを大きく感じました。


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雪の中の軍曹 [イタリア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

マリオ リゴーニ・ステルン著の「雪の中の軍曹」を読破しました。

3年ほど前でしょうか。なにかの書評で本書を知り、
古書で安く見つけて購入していました。
スターリングラードにおけるロシア軍の大攻勢の前に崩壊し、
敗走するイタリア軍の軍曹の物語で、その徒歩での悲惨な行軍の末、
倒れて行く上官や部下たち、そして、いつ終わるとも知れない包囲陣から脱出行を
当時21歳の軍曹だった著者が日記をもとに本書を書き上げました。

雪の中の軍曹.JPG

1942年の冬、ドン河の河畔に拠点を置くイタリア軍の様子から語られます。
対岸にはロシア軍・・。たまに散発的な撃ち合いがあるものの、
基本的には暖かい塹壕での単調な生活、同郷人で構成されたイタリア山岳中隊ごとの
個性や、彼らの戦争に対する考えなどが理解出来ます。

とにもかくにも「国に帰りたい」彼らは、帰ったら何をするかを語り合います。
ほぼ全員、ワインとパスタをたらふく食べたいという希望を持っていますが、
戦場での生活の長さからか「俺はパスタを"飯盒"で3杯は食うぞ!」とつい言ってしまいます。

rigoni.jpg

年も明け、1月の初旬になると、どうやらロシア軍に包囲されているらしい・・という
情報が届きはじめます。本書ではドイツ第6軍の話などは一切触れられず、
同盟軍といえども、最前線での情報は限られたものしかなかったのでしょう。

やがて対岸のロシア軍歩兵は「ウラー!」の掛け声とともに、凍ったドン河を渡って
突撃してきます。いつもの如く狙い撃ちされバタバタと倒れるロシア兵ですが、
なかには死んだフリを得意とし、しばらく倒れていては突然起き上がって突撃を
三度も四度も繰り返すという、まるで「だるまさんが転んだ」的戦術を駆使する兵士も登場。。

Il sergente nella neve.jpg

ついに退却命令が下され、分解した重火器も担いでの長い長い行軍が始まります。
ドイツ軍目線で見れば、イタリア軍のやる気のなさは良く言われているとおりですが、
著者からすると、ハンガリー軍は武器も持たず、まったくやる気がない・・という感想です。

この包囲陣からの撤退ではドイツ軍戦車と連携した戦闘も所々出てきますが、
メインとなるのは零下30℃にもなる雪の降り積もったステップをひたすら歩き続け、
農家を見つけてはお邪魔する・・という展開に終始します。

La tragica ritirata degli Alpini in Russia.jpg

このようなロシアの農家に入るにしても慎重なドイツ兵は、まずドアを一蹴りして開け、
中の様子を懐中電灯で伺って、藁の山があれば、そのに数発の銃弾を撃ち込みますが、
彼らイタリア兵はまるで友人宅を訪ねる感じで、ホイホイ入って行きます。

案の定、空腹で疲労困憊したリゴーニ軍曹は一軒の農家に入り込むと、
そこにはロシア人の母子と、食卓には数人のロシア兵が・・。
疲労のためか恐怖すら感じない彼は「食べ物をください・・」。
ロシア兵たちが身じろぎもせずに黙って見つめるなか、差し出された粥をひたすら食べ、
「スパシーバ・・」と礼を言って立ち去るリゴーニ軍曹・・。

Il Sergente Nella Neve di Mario Rigoni Stern.jpg

なんとか包囲陣からの脱出に成功し、はぐれていた部隊と合流しますが、
大佐をはじめ、中尉や若い仲間たちの多くの死を知らされます。
この物語はここで幕をおろしますが、彼自身は更にウクライナ、白ロシアからポーランドまで
延々と歩き続けたそうです。

なにかストーリーとしては「忘れられた兵士」を彷彿とさせますが、
こちらは非常に淡々と感情を抑えた語り口で、この悲惨な敗走劇を
詩的ともいえるような雰囲気に仕上げています。

200ページ程度の本書ですが、国際的な評価は高く、フランスでは
「イタリアのヘミングウェイ」ともされているそうで、
今、amazonで見てみたら、¥8000~という信じられない高値が付いていました。
自分はどこで買ったかはすっかり忘れてしまいましたが、
我が家の「本の家計簿」によると、¥1200です。なんなんですかね~。


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