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フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」 [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

志水 速雄 全訳解説の「フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」」を読破しました。

これまでソ連ものや、スターリンものを読んでいると、必ずと言っていいほど出てくるのが、
戦後のフルシチョフの発言でした。
回想録も知られていますが、有名なのがこのスターリンが死んだ3年後の1956年、
第20回党大会で突如スターリンに対する批判を行った「秘密報告」です。
最近も「共産主婦」、「誰がキーロフを殺したのか」にも出てきましたし、
1977年という古い文庫ですが、218ページとお手頃なボリュームなので、
ちょっくらお勉強してみます。

フルシチョフ秘密報告.jpg

「はしがき」では本書はロシア語テキストからの本邦初訳かつ、全文翻訳であることなどが
簡潔に書かれていますが、フルシチョフについての細かい説明はありません。
昭和52年当時、すでにフルシチョフは死去し、ブレジネフの時代です。
ですから、個人的にもフルシチョフについての印象はまるでありませんが、
ジュード・ロウ主演の映画スターリングラード」に出てきた"ハゲおっさん"といえば、
思い出される方も多いのではないでしょうか。

Enemy at the Gates_Bob Hoskins_Jude Law.jpg

「同志の皆さん!」で始まる秘密報告。
続けて、フルシチョフは冒頭でこう語ります。
「ある特定の人物を殊更に持ち上げ、その人物を神にも似た超自然的能力を持つ
超人に仕立て上げることは、マルクス=レーニン主義にとって許しがたいことであり、
また無縁のものであります」。

そして革命以前からレーニンが「党の中央委員会を集団的指導者であると呼んでいた」と述べ、
まずはスターリン批判の目的が、その独裁的指導であることが理解できます。
1922年、レーニンが党大会に宛てた手紙には、
「スターリンはあまりに粗暴である。この欠陥は仲間内の付き合いではまだ我慢できるものの、
書記長という役職にあっては許しがたいものとなる。
そこで私は、スターリンをこの地位から降ろし、他の人物に替えるよう提案する」。
コレは有名な「政治的遺書」と呼ばれるもので、何度か読んだことがあるものです。

Marx,_Engels,_Lenin,_Stalin_(1933).jpg

スターリンが作り出した「人民の敵」という概念。
どんな問題であれ、スターリンと意見が合わなかったり、敵対的行動を起こすと疑われたり、
悪評の立っている人物は「人民の敵」とされて告訴・・。
犯罪を犯したという被告自身の「自白」のみが唯一の証拠とされ、
その「自白」は肉体的拷問によって得られたものであったことも語ります。
こうして1937年~38年の「大粛清」へと進むフルシチョフ。
「第17回党大会で選ばれた中央委員会の委員と候補139名のうち98名、
すなわち70%が逮捕され、銃殺されたということであります(場内、憤激の叫び)」。

stalin.jpg

1934年のキーロフ暗殺の謎についても触れながら、トロツキスト、ジノヴィエフ派、
ブハーリン派が一掃され、党内で完全な統一が達成されると、
スターリンは中央委員や政治局員の意見さえ軽視し、
今や自分は一人ですべてのことを決定できると考えるようになったとします。

また、「大粛清」の中心人物であるNKVD長官だったエジョフの責任について・・。
「エジョフを告発するのは確かに正しいでしょう。しかし、エジョフがスターリンの承諾なしに
優れた党員を逮捕できたり、党員の運命を自分で決定できたでありましょうか。
いいえ、こういう問題を決定したのはスターリンであり、彼の命令と同意がなければ、
成し得なかったということはきわめて明瞭であります」。

voroshilov_starlin_Yezhov.jpg

いよいよフルシチョフは「大祖国戦争」について言及を始めます。
戦争初期の痛ましい結果は、1937年~41年までの「赤軍大粛清」によるものだとして、
「軍隊の規律も緩んだ」と語ります。
「数年間に渡って、党およびコムソモールに属している将校はもとより兵士でさえ、
自分の上官を隠れた敵として、その正体を"暴露"しなければならないと
吹き込まれていたからです(場内騒ぐ)」。

監獄での野蛮な拷問を生き延びた英雄的な愛国者として、ロコソフスキーの名を挙げますが、
「多くの指揮官は収容所や牢獄で死に、軍は再び迎えることができなかったのであります」。

K.K.Рокоссовский перед подъемом в воздух в корзине воздушного шара. 1944.jpg

途中まで読んで、イメージしていた「ソ連の報告書」といった堅苦しいものではなく、
荒っぽそうなフルシチョフのキャラクターが良く出た演説速記録といった趣で、
カッコ書きで「場内憤激」など、その現場に居合わせているかのような雰囲気すらあります。
通常、共産党の党大会の演説といえば、「赤軍ゲリラ・マニュアル」のスターリン演説のように 
「割れるような拍手喝采」というのが定番ですから、
このような党員のリアルなリアクションも楽しめるポイントのひとつです。

khrushchev.jpg

「軍事的天才」スターリンが、1942年のハリコフ攻防戦の時、"地球儀"で作戦を練っていた・・
というエピソードや、戦闘指導の基礎知識を欠いていたにもかかわらず、
絶えざる正面攻撃という自分の戦術実施をすることに固執したことの代償として、
多くの血を流さなければならなかったと熱く語ります。

stalin poster.jpg

大勝利の後、多くの司令官の格下げを始めたスターリンは、
功績を独り占めにしようとしたとして、特にジューコフ元帥の評価を気にします。
あるときフルシチョフに話かけたスターリン。
「君はジューコフを褒めたが、彼はそれに値しない男だ。
ジューコフは作戦を始める前にいつも土を手に取って臭いを嗅ぎ、
『攻撃を開始しようじゃないか』とか、反対に『この作戦は遂行できない』とか言うそうだ」。

Zhukov stalin.jpg

そんな大祖国戦争中には少数民族に対する弾圧が起こり、
チェチェン人やイングーシ人が根こそぎ追放になったことをフルシチョフは語ります。
「ウクライナ人がこのような運命を逃れたのは、ただ彼らの人口が多すぎて、
ウクライナ人を追放しようにも、その場所が無かったからに過ぎません。
そうでなければスターリンはきっとウクライナ人を追放していたでしょう(場内、笑いとざわめき)」。

いや~、(場内、笑い・・)というのが、ウクライナ嫌いを物語っている気がしますね。。

戦後のスターリンは以前よりも気まぐれで怒りっぽくなり、残忍に・・。
猜疑心は一層深く、その被害妄想は信じられないくらいに広がって、
彼の目に多くが敵に映ったところに登場してきたのは、
「低劣な挑発者であり、正真正銘の敵であったベリヤなのです。
彼は何千人というソヴィエト人を殺しました。
様々な噂や会話の形で証拠材料を捏造しましょう、とスターリンに申し出たのが、
このベリヤだったのです」。

Malenkov_beria.jpg

1948年に出版された「スターリン小伝」。
スターリン自身によって承認された「スターリン崇拝」本のようですが、
スターリン本人によって加筆されたとして、その部分をお披露目するフルシチョフ。

「『レーニンが戦列を離れた後、レーニンの遺訓の元に党を団結させ、
人民を工業化と農業の集団化の大道へと導いたのである。
この中核の指導者であり、党と国家の指導力こそ、同志スターリンであった。』
このように書いているのはスターリンその人なのであります!
続いて彼は次のように付け加えております。
『スターリンは、党と人民の統領としての課題を立派に果たし、
全ソヴィエト人民の支持を完全に獲得していたが、反面、自分の活動の中に、
自慢、高慢、自惚れなどの影が少しでも見えるのを許さなかった』」。

starlin poster01.jpg

この「スターリン小伝」、日本でも1953年に出版されているようです。
「天才的な洞察力をもって敵の計画を見抜き・・」と、軍事面の天才ぶりも書かれた
かなり楽しそうな自画自賛本ですが、古書価格5000円といい値段ですね。

スターリン小伝.jpg

1951年にスターリンが巨大な「スターリン像」を建てるという決議に署名し、
33トンの銅を鋳造するよう指示したことを挙げます。
その場所は戦争以来、住民が土小屋に住んでいたというスターリングラード
「レーニンを記念した「ソヴィエト宮殿」の建設はいつも後回しになって、
その案もだんだん忘れ去られてしまいました」。

starlin 24 meters.jpg

このスターリングラードの24mのスターリン像は、この後、レーニン像になったようですね。

largest monument in the world who have actually lived the man Lenin located in Krasnoarmeysk district of Volgograd..jpg

困難な農業の現状についてもスターリンはどこにも出かけず、農民とも会わず、
ただ映画を観て知っていたに過ぎなかったと説明します。
「ところが、その映画たるや、まるで食卓が七面鳥や鵞鳥の重みで壊れてしまいそうな調子で、
コルホーズの生活を美化するという代物だったのです」。
あ~、「スターリンの歌」でも、『コルホーズの野は満たされる』って歌詞が。。

晩年になると、異常な猜疑心のために古い政治局員も取り除こうとするスターリン。
「スターリンは、わが党の最長老のひとり、ヴォロシーロフが英国のスパイではないかという、
馬鹿馬鹿しい笑うべき考えに取りつかれることさえあったのです(場内笑い)。
まったくそうなんです。英国のスパイだと言うんです。
ヴォロシーロフの家には盗聴器さえ仕掛けられていたのであります(場内憤激)」。

voroshilov.jpg

最後に「レーニン主義万歳!」と叫んで、フルシチョフの秘密報告は終了します。
フルシチョフ自身が「スターリン派」ではなかったか。
フルシチョフも「大粛清」に関与していたのではなかったのか。
フルシチョフ以降の最高指導者も、独裁的指導ではなかったか。
といった疑念を読んでいて持ちましたが、
146ページから50ページほど書かれた「解説」がこれらの疑問を解決してくれます。

フルシチョフの簡単な生い立ちと経歴では、彼がスターリンの右腕だった
カガノーヴィチに見込まれ、彼の指揮下で粛清を実行し、
1938年にはウクライナ共和国党第一書記に任命。
戦後は1953年にスターリンが死ぬまでモスクワ州党第一書記の地位にあったなど・・。

starlin_khrushchev.jpg

この「秘密報告」は党大会中に行うべきだと、舞台裏の幹部会で議論され、
11人中、ブルガーニンら4人の支持を得、ミコヤン、マレンコフら3人が中立的態度、
ヴォロシーロフ、モロトフ、カガノーヴィチが強硬に反対したと推察しています。

そして1436人の代議員ら聴衆の前で、また、ノートを取ることも禁じられた
秘密報告会にもかかわらず、いずれ、世界中に知れ渡るだろうと読んだスターリン批判を
なぜフルシチョフが行ったのか・・?? については、
「告発者は告発されない」という論理に基づいたものとしています。
スターリンを弾劾することによって、自分は無実であることを証明したかった・・。
このとき、フルシチョフは党のトップですから、誰かに「フルシチョフ批判」をやられる前に、
先手を打ったという感じでしょうか。

Nikita Khrushchev.jpg

フルシチョフの「秘密報告」演説自体は130ページ。
その後、著者による詳細な解説が50ページという構成ですが、良いバランスですね。

フルシチョフについての本もいくつか出ているようですが、
一番気になった「回想録」がamazonだとプレミア価格で9000円・・。
1972年、 617ページの函入りだそうで、ちょっと悔しいですね。
神保町の古書店で3800円くらいで探してみたいと思います。









誰がキーロフを殺したのか [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロバート・コンクエスト著の「誰がキーロフを殺したのか」を読破しました。

誰がムッソリーニを処刑したか」に続く、「誰が・・」シリーズの第2弾です。
まぁ、そんなシリーズはやっていませんが、レニングラード共産党のボスであり、
スターリンのライバルだったキーロフの暗殺事件を知ったのは、
スターリン -赤い皇帝と廷臣たち-〈上〉」を読んだときです。 
1992年、288ページの著者は、あの恐ろしかった「悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉」の方で、
原著の出版は1988年のソ連崩壊前、原題は「スターリンとキーロフ暗殺事件」です。

誰がキーロフを殺したのか.jpg

最初はまるで小説のような「主な登場人物」です。
ブハーリン、カガノーヴィチ、フルシチョフ、トロツキーといった党の有力政治局員たちに、
ヤーゴダ、エジョフなどのNKVDのトップの名前などが全部で44名。
NKVD内務人民委員代理や、党レニングラード州委員会第一書記といった役職の他に、
1988年時点で存命または死亡年が書かれていますが、
この44名中、30人が1934年~40年の間に銃殺、謀殺、暗殺で死亡・・。
小説だって、登場人物がこんなには死なないですね。。

第1章は「キーロフが暗殺された日」。
1934年12月1日の夕方、レニングラード党本部で銃撃されたキーロフ。
この党本部は、かつて貴族子女の学校だった建物をレーニンが奪取したという壮麗な建物で、
本書にはこの建物も含め、ところどころで写真が掲載されています。
ボリソフというベテラン・ボディガードは建物の中まではついて行かず、
3階の執務室に至るまでに配置されているはずの警備員もいない、怪しいシチュエーション。。

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暗殺者はナガン・リボルバーを手に身を潜め、キーロフの首を背後から撃ち、
自身も気を失って倒れて、駆け付けた係官に逮捕された・・というのがこの暗殺事件です。

犯人はニコラーエフという名の30歳の男で、子供は2人、共産党員ながらも仕事は降格されたり、
党から除名されたりと、大いなる不満を持つ落ちこぼれであったとされています。
そしてこの事件の前、2度も拳銃を持ってキーロフの周辺をうろついてるところを逮捕され、
2度とも上層部の命令によって釈放されているという謎の人物なのです。

Leonid Nikolaev.jpg

1886年生まれのキーロフの生い立ちにも1章割いた後、「キーロフ対スターリン」の章へ。
1933年の中央委員会総会。あのウクライナを中心とした「飢餓テロ」が最高潮に達し、
ロシア共和国内の諸都市でも国民の栄養失調が問題視され、
スターリンの指導体制に危機感を持つ委員が増えてくると、
農民に対し、ずっと融和的な「キーロフ路線」が脚光を浴びてきます。
そして1934年の党大会では、スターリンに反対票が投じられる一方、
キーロフは300票近くスターリンを上回る票を集め、書記長の座も打診されるのです。
結局はキーロフがコレを辞退するものの、モスクワvsレニングラードの構図が・・。

Sergej Kirov_1934.jpg

こうして9月、NKVDレニングラード支局長のメドベドは、キーロフに問題を報告します。
支局長代理のザポロジェッツがNKVD長官であるヤーゴダのモスクワ本部から、
5人のスタッフを連れてきて、勝手に秘密警察部の要職に就けてしまった・・というもの。
キーロフはスターリンに苦情を述べますが、言いくるめられてしまうのでした。
いわゆる内堀が埋められた・・ってところでしょうか。。

ここまで、キーロフが暗殺され、また暗殺されるまでの政治状況が語られてきましたが、
ここからは暗殺後です。
キーロフ暗殺の報を受けたスターリンは直々に調査を行うべく、レニングラードに乗り込みます。
スターリン派であるヴォロシーロフモロトフジダーノフが調査団の構成メンバー。。
さらにはヤーゴダに、その代理であり国家保安局を担当するアグラーノフ、
後にヤーゴダに変わって「大粛清」を手掛けることになるエジョフ・・といった恐ろしい面々も・・。

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ナチスに例えれば、ヒトラーを筆頭に、ゲッベルス、ボルマン、ヒムラー、ハイドリヒ、
ハインリヒ・ミュラーがひとつの殺人事件の調査に乗り出したようなものですね。
そういえば、1933年の「国会議事堂放火事件」に似てなくもない気が・・。

キーロフのボディガード、ボリソフは、事件の翌日、護送車の追突事故によってただ一人死亡。
実際には3人の係官たちに鉄の棒で殴り殺されていたのです。
スターリンは事件の捜査をアグラーノフ、政治面での責任者にエジョフを据え、
キーロフの柩を佇立して守護するのです。

Funeral of Kirov 1934.jpg

事件から3週間が過ぎ、犯人ニコラーエフの共犯者が発表されます。
それは古参ボルシェヴィキで前のレニングラードのボス、ジノヴィエフ派のメンバーたち。
ニコラーエフは単独犯ではなく、巨大な黒幕が存在したというシナリオ・・。
もちろん、ジノヴィエフはスターリンの政敵です。

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NKVDレニングラード支局長のメドベドと支局長代理のザポロジェッツでさえ、
「職務上の刑事過失」を問われて3年の刑を宣告されます。
それでもNKVDの要人警護の過失ということは、スターリン自身も暗殺の標的になりうるわけで、
本来の基準なら「関係者全員、即決処刑」になってもおかしくありません。
この2人の流刑地は、シベリア北東部の酷寒の地、コルイマです。
しかし「白い地獄」と呼ばれるコルイマも、この金鉱地帯が国家にとって重要であったため、
1937年までは食料や衣服を充分に与えられた、非常にな健康的な風土だったそうです。
そして2人は丁寧な扱いを受け、責任あるポストまで与えられるというお客さん扱い。

この死の収容所は「極北 コルィマ物語」という本があるので、読んでみたいところです。



スターリンの「シナリオ」はさらに広がりをみせます。
ジノヴィエフと同じく古参ボルシェヴィキのカーメネフらが、トロツキーと共にテロ活動を計画し、
スターリン、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、オルジョニキーゼ、ジダーノフ、そしてキーロフら
党幹部を殺害するためのグループを組織し、実際にキーロフを殺害したというもの。
裁判では自白が重要ですが、その裏には拷問と、家族の命といった脅しが行われ、
公開裁判を受ければ命は助けてやる・・という約束も反故にされて全員銃殺・・。

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こうして、あの「大粛清」が始まっていくわけですが、
あまりにも対象者が多いため、本書ではキーロフ派とレニングラードに限定して紹介しています。
例を挙げると、「1937年にレニングラードの各地区で選出された新しい65名の委員ですら、
翌年には、わずか2名しか残っていなかった」。

ブハーリン、ルイコフに続いて、NKVD長官だったヤーゴダまでも逮捕されてしまいます。
これまでNKVDに対しては「キーロフ暗殺の過失」を問われていたわけですが、
単なる過失から積極的な共謀の罪・・、ヤーゴダが暗殺の手引きをしていたとされたのです。
もちろん、NKVDのトップに罪があれば、コルイマの2人の命も風前の灯・・。

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当時、キーロフ暗殺事件から始まった粛清について、ソ連国外で情報が出ています。
亡命していたトロツキーは1935年、「ジノヴィエフ首謀説は、スターリン=ヤーゴダ共謀説の
大掛かりなカモフラージュである」と書き、NKVDといえどもスターリンの示唆なしに、
このような危険な企てを決意するはずもないことは明白であると断言。

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そしてもうひとつ、重要な証言がもたらされたのは日本です。
1938年に日本へ亡命したNKVD極東部門の責任者、リュシコフは、
1939年4月に、日本の総合雑誌「改造」にキーロフ暗殺事件に関する情報を発表します。
彼は1934年~36年にはモスクワのNKVD秘密政治局長代理として捜査を指揮していたそうで、
レニングラード関係者への告発が濡れ衣だったことも明らかにします。

この人が独破戦線で出てくるのは「ゾルゲ」の時以来、2回目だけに、なかなか気になりますねぇ。
「謎の亡命者リュシコフ」と、「粛清―リシュコフ大将亡命記」という2冊を見つけました。

Genrikh Lyushkov.jpg

大粛清が完了すると、キーロフ事件の関係者、および、スターリンの政敵が一掃されて、
この事件は再び闇の中に消えますが、1956年になるとフルシチョフが「秘密報告」を行います。
「キーロフを警護していた男が殺され、次いで彼を殺した者たちも銃殺された。
これは単なる事故ではなく、明らかに計画的な犯罪だろう。
誰がこのような犯罪を行うことができたろうか」。

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「証言」という問題についての考察は、かなり興味深かったですね。
ちょっと長くなりますが抜粋してみましょう。

刑事裁判では関係者による直接証言といえども、常に真実であるとは限らない。
証人が自らの責任を覆い隠すために、まったくの嘘をつくこともあり得る。
或いは、ちょっとした過失を隠したり、自分をよりよく見せようして、
部分的に嘘をつくこともあるかもしれない。
多かれ少なかれ、無意識に歪曲を行ったり、勝手な想像を述べるケースもある。

多くの歴史研究においては、伝聞の証言だけしか入手できないこともしばしばある。
そのような証言は、これらの様々な虚偽や歪曲を免れない。
おまけに伝聞証言者が、もともとの情報提供者の言葉を誤解することもありうる。
それでも、意図的な場合を除けば、これらの欠点があるからといって、
必ずしも特定の証言が無価値になってしまうわけではない。

人が何かを打ち明ける場合、完全に真実であることは、極々稀であり、
少しの偽りや誤りもないなどということは、滅多にあり得ないのである。
従って様々な欠陥のつきまとう証言から真実を引き出すことは、
法廷としては当たり前の仕事であり、歴史家もまた、同じような義務を負っている。
しかし、歴史家というより、門外漢の学者たちの間で、ある種の情報源を
ただ「信頼できない」と決めつけて、それらをあっさり切り捨ててしまう傾向が見られる。

mikoyan kirov stalin.jpg

いかがでしょうか。
ヴィトゲンシュタインは歴史家でもなければ、研究者でもない、単なるノンフィクション好きですが、
複数ある説のナニを信用するか・・?? というジレンマにはしょっちゅう陥ります。
いままでどんな本を読んでも、その内容のすべてを100%信じたことはありませんし、
明らかな間違いや誤字が多い本は、確かに、読んでいてすべてを信用できなくもなります。

特にナチス・ドイツ関連の本の場合、訳者さんを否定するわけではありませんが、
ドイツ語から英語に、または仏語に翻訳されたものが、さらに日本語になったりしているのです。
その過程で、本来の意味(ジョークや嫌味を含め)が変わることもありうるでしょう。

「証言」ということでは、まさしく「回想録」も特定の人物による「証言」だということができますが、
人間は自身に起こった過去の記憶も、自分の都合の良いように解釈してしまいますから、
歴史的視点から見た場合と乖離するのは当然だと思っています。

最近、パウル・カレルが信用できないとして、参考文献から外される本などというのは、
個人的には安直な回避策だと思いますね。
では、ノンフィクション好きとして、どんな本が面白い本なのか・・というと、
新説がある研究書や、日本で紹介されたことのない部隊、あるいは戦役や作戦、
これまで語られたことのなかった体験談が述べられた本です。
そして、それらの内容が完全な真実であるかどうかは、また別問題なのです。

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巻末の「解説」によると本書のタイトルは本文中の一節から取ったそうで、
これは著者コンクエストが世界有数のソ連史研究家というより、
「安楽椅子探偵」として登場しているという、謎解きスタイルを意識したようです。
ただし、本書を好んで読むような人間からしてみれば、
結論を知る前から、「そりゃ犯人はスターリンだろ・・」と思っている訳であり、
ドラマチックな大どんでん返しに驚きを隠せない・・なんてことにはなりません。
それでも一介の暗殺者ニコラーエフが弾いたナガン・リボルバーのトリガーが、
「大粛清」のトリガーでもあったということを教えてくれた一冊でした。

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また、コンクエストの著作紹介では、「悲しみの収穫」のほか、
「スターリンの恐怖政治」がありますが、これは原題が「大粛清」なんですね。
上下巻の大作で、amazonでも2冊揃いで7000円・・とレア本のようです。
ソレと本書を経て結実したのが、「スターリン―ユーラシアの亡霊」であり、
見事に描かれた伝記として、ニューヨーク・タイムズが1991年の推薦図書に挙げたそうな・・。
でも一番読んでみたいのは、「コルイマ -北極の死の強制収容所-」ですが、
残念ながら未翻訳。。得てして無いものネダリなんですよね。













悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉 -スターリンの農業集団化と飢饉テロ- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロバート・コンクエスト著の「悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉」を遂に読破しました。

一昨年の9月に「スターリン -赤い皇帝と廷臣たち-」を読んだ際に知った本書は、
このBlogでも何度となく取り上げた「ホロコースト」に匹敵するジェノサイドとして、
「ホロドモール」と呼ばれる、ウクライナでの恐るべき大飢饉の全貌を描いたものです。
2007年に発刊された638ページの大作ですが、すでに廃刊でプレミア価格・・。
区内の図書館にも置いていませんでしたが、よその区からお取り寄せしてもらいました。 

悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉.jpg

3部から成る本書、まずは第1部「主役たち・・党、農民、国家」です。
キエフ大公の時代からモンゴル軍の手に落ち、今度はモスクワ公国へ・・といった
災難をいくつも乗り越えてきたウクライナ人の歴史を紹介し、
「10月革命」後、その資源に期待を寄せ、なんとしても自分の新体制の中に
ウクライナを編入したいと望むレーニン
1919年、1人当たりの消費量を130㌔とし、それを超えるすべての「余剰」穀物を
無料で徴発するよう命じます。
ナチス・ドイツもそうですが、この肥沃な土地は魅力があるんですね。

Lenin.jpg

ウクライナでは4ヵ月間で300回もの暴動が起こり、まだ内戦の最中ですから、
白軍の攻撃からも撤退を余儀なくされるボルシェヴィキ・・といった構図です。
「国家が必要」という観点から、農民の手元にどれだけ残るかということには関係なく、
徴発されることとなり、「食料徴発隊」が45000名に増員。
村々ではそんな食料徴発隊が到着すると発砲して交戦。
これに農民パルチザンの「緑軍」も加わって大掛かりな反乱へと発展していきます。
この1918年~20年の「農民戦争」における死者数は900万人。
さらに1921年~22年にかけて大飢饉が発生します。
天候が悪かったのに加え、農民が生存していくための最低条件となる農産物まで
ソ連政府が没収したことで、500万人が命を落とすのでした。

Одеські комсомольці вирушають на боротьбу з повстанцями, 1920.jpg

都会人のボルシェヴィキはもともと農民を「恐ろしく貪欲で負けず嫌い」と見ており、
スターリンも「農民は屑」と語っています。
そんな農民、特に地主貴族の延長上である「クラーク(富農)」は共産党の敵であり、
階級的にも許されず、反革命家であるわけです。
しかし富農の定義は曖昧であり、1927年、最も豊かな農民でも7人家族で
2,3頭の雌牛と10haの耕地を持っているだけ・・。
そして日雇い労働者などの「貧農」、その間に存在する「中農」も定義しようと四苦八苦。
「弱い」中農と、「豊かな」中農に分けると、党内も大混乱です。

Кулак смертный и бесмертный 1920_1930.jpg

第2部は「農民蹂躙」。
1929年、スターリンが「富農撲滅運動」に着手します。
これまでの、ただ穀物を収奪しただけの政策から大きく転換。
富農を3つのカテゴリーに分け、第1カテゴリーの10万人の富農を銃殺、または禁錮。
第2カテゴリーはシベリア、ウラル地方、カザフスタンなどの遠方地への強制移住で、
その数、15万世帯。。カラシニコフ一家もコレに該当したんでしょうね。
第3カテゴリーは政府に忠実な富農として、財産没収は部分的。
労働予備軍として政府の支配下に置かれます。

第1カテゴリーの「強情な階級の敵」とレッテルを貼られた富農は、
25人用の監房に140人が詰め込まれ、またある監房では7人用に36人が・・、
そしてキエフの刑務所では一夜に100人が銃殺された記録もあるそうです。

また、強制移住もこれだけの世帯数ですから計画もずさんで、
北半球におけるもっとも寒い地域であるマガダンのキャンプに送られた数千人と
監視人や番犬までが、その恐ろしい冬によって一人残らず全員が死亡。

magadan.jpg

北カザフスタンの無人地に送られた富農たちが目にしたのは、
定住地5番とか、6番と書かれた小さな標識の付いた杭が地面に打たれているだけ。
建物も何もないこの土地で、「以後、自分のことは自分でせよ」と命令を受けます。
彼らは地面に穴を掘りますが、無数の人間が飢えと寒さで死んでいくのでした。

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「富農は人間じゃない。蛆虫だ」という言葉によって、このような大量虐殺が起こります。
ナチスが「ユダヤ人は人間ではない」と言ったように・・と、所々で、
ウクライナ生まれの、あのグロースマンの文章からも引用しています。
また、ウクライナ共産党第一書記でスターリンの側近だったカガノーヴィチや、
モロトフカリーニントロツキー、そしてフルシチョフの報告や命令、回想も随所に・・。

Lazar Kaganovich_Stalin.jpg

富農のいなくなった農場は「コルホーズ(集団農場)」に変身。
しかし農民たちは家畜の大量殺処分で抵抗します。
また、巨大な官僚ネットワークによって派遣されたコルホーズ責任者の無知や怠慢によって、
大抵のところでは不効率を極め、例外的に模範的なコルホーズも、
その穴埋めのために農民の分の穀物まで取り上げるのです。
まして農民に支払われる1年間の現金は、靴一足が買えるかどうかという程度。。
当然、ガッカリした農民の労働意欲は失われていきます。

例えば日本の大企業であっても、工場長と熟練の技師たちをクビにして、
代わりにデスクワークが取り柄の素人主任と、時給激安のバイトが来たところで、
生産能率が上がるとは、とても思えませんね。

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大規模に導入された機械トラクターも故障が多く、そのくせ部品のスペアがないために
農業全体の生産はガタ落ちです。
ですが、スターリンはこれらの政策によって1932年には生産高が50%も上昇するだろうと予測。
新たに導入された「生物学的収穫高」によって、見積もりが行われますが、
これは利用可能な最大限の土地に対して、理論的に可能な最大の収穫高を当てはめ、
他方、収穫の際の、気候も伴うさまざまな損失は無視する・・というもの。
すなわち、「凶作」だろうが関係なく、「大豊作」の供出を要求するということですね。

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中盤ではウクライナ以外の国、ウズベキスタンやカザフスタンなど中央アジアにおける
「集団化」についても触れられます。
元来、定住すらしていない遊牧民を集団化させようという無茶な政策で、
その多くが砂漠など充分な水の供給すらない場所があてがわれます。
カザフ人の馬賊はコルホーズを襲撃してOGPUの武装隊と戦い、家畜を連れ去ります。

共産党のもう一つの敵が「教会」です。
革命前のロシア正教会は、1億人の正規信徒、5万の教会と同じだけの司祭を抱えていますが、
集団化は、地元教会の閉鎖も伴います。
イコンは没収されて、聖器具と一緒に燃やされ、教会そのものは「穀物倉庫」に変身。

Снятые с церквей колокола, г. Запорожье, 1930 год..jpg

以上を踏まえて、360ページからメインとなる第3部「飢饉テロ」が始まります。
1931年、ウクライナ嫌いのスターリンによって収穫高の42%に当たる
770万㌧の供出が要求され、さらに翌年も同じ数字をウクライナに求めます。
畜牛に穀物といったコルホーズのすべての財産は国家の保有とすることが定められ、
農民の70%がコルホーズで働いていたウクライナでは、法的な飢餓が始まります。
自分の自営地で実ったトウモロコシを100個ほど刈り取った農婦は10年の禁固刑を言い渡され、
集団農場から10個のタマネギを掘り出した別の農婦も同じ道を辿ります。
オマケに財産まで没収ですから、家族は餓死・・。
情状酌量の余地がなければ銃殺で、ハリコフ法廷の1ヶ月だけでも死刑判決が1500件。。

Дети на колхозном поле собирают мерзлую картошку, с1933 год..jpg

ある村では多数の農民が埋められた馬を食べたために銃刑に・・。
これは鼻疽病などの伝染病を恐れるGPUの手によるものです。
しかしスターリンの手先として農民のわずかな食料を徹底的に捜査する「作業班」のなかには、
腫れ上がった足を抱えて絶望し、毎日、死体が運び出されるさまに、
神経が耐えられなくなる者も出てきます。
慈悲深く、ジャガイモやサヤエンドウを家族の食糧として残してやることもあれば、
「これがスターリンの政策の結果だとしても、正しいやり方なのか・・」と。。
う~ん。。「普通の人びと -ホロコーストと第101警察予備大隊-」を思い出しますね。

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もちろん町には共産党員の官吏らのための大食堂があり、
とびきりの安価でパンや牛肉、フルーツ、ワインが提供されています。
このオアシスに飢えた農民や子供たちが入ってこないよう、警察が守りを固め、
農婦たちは食物欲しさに官吏らを相手に売春をするのです。

国家からハッパをかけられて、虐殺行為が広がっていくウクライナの村々。
小麦を引き抜いたり、トウモロコシを拾い集めているところを見つかっただけで、
武装した警備員に14歳の子どもでも銃殺されてしまいます。
1941年のレニングラードのように犬や猫も食べて、ミミズや砕いた骨も食べる農民たち。

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食料を求めて、キエフやハリコフ、オデッサの諸都市にやって来た農民も、
歩道に倒れ、飢えたまま転がっているだけ・・。
医師には農民に医療を施すことを禁じる命令が出され、
党員と警察が飢えた農民を駆り集めて、汽車で窪地に運んでそのまま放置。

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ある街路では毎日、150もの死体が集められます。
2500万人というウクライナの農業人口の1/4から1/5、約500万人がこのようにして死亡。
その死亡率は村や地域によって異なりますが、10%~100%です。
・・・「100%」って凄いですね。。村ひとつが飢餓で全滅したということです。

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飢餓の肉体的症状についても詳しく語られます。
もうちょっとシンドくなってきましたので、詳しい話はパス。。
自殺も増え、主な方法は首つりです。
母親たちは、しばしば子供の首を絞めて、悲惨な状況から子供を解放してあげるのです。
しかし、人間の顔をしながら、狼の目をした母親も・・。 
そう、気が狂って、自分の子どもを殺して食べる「人食い」です。
人食いを禁じる法律はないものの、「こいつは人食いだ。射殺しなければ・・」となります。
ですが、そう言う彼等こそが母親が子供を喰うほど、狂気に追い込んでいるのです。
トドメとばかりに「子供たち」という章も出てきて、餓死しただけでなく、
親と生き別れた子供たちが浮浪者となって・・と、もう書く気がしません。。

BLACK FAMINE IN UKRAINE_1932-33.jpg

1933年3月、ウクライナの穀物徴発はついに中止が決定します。
ミコヤンが軍隊の保存していた穀物の一部を農民に解放する指令を出しますが、
パンを与えられた農民が、あまりに沢山、しかも早く食べ過ぎて、死者が出た・・という話も。。
こうして農民と教会が破壊されただけでなく、文化人のほとんども粛清され、
ウクライナは蹂躙され尽くすのでした。

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ウクライナの国旗が、青色は空、黄色はステップ(草原)に豊かに実る小麦・・
ということは知っていましたが、本書を読んでから改めて眺めると、
何とも言えない気持ちになります。

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「結論」として著者は、1930年~37年までのソヴィエト農民の死亡者を1100万人、
この時期に逮捕され、その後、強制収容所で死亡した者を350万人、
合計1450万人が死亡したとしています。

「エピローグ」ではその後の出来事が語られます。
1936年~38年に起こった次のテロ。「大粛清」です。
10年の刑で刑務所にいた富農や農民がこの時期に銃刑となり、
また、コルホーズの議長や役人を告発することが期待されます。
告発された議長は自分の委員会を告発し、委員は監督や作業班長を告発・・。
もちろん、ブハーリンやルイコフといった党の主要人物も銃刑に処せられ、
ウクライナのNKVDの部長、バリーツキーらも同様です。
1938年のウクライナ共産党大会では86人のうち、前年から残っていた者は3人だけ。。

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スターリンを始めとして、本書には写真が一枚も掲載されておらず、
細かく挙げられる収穫高や死者数も表や一覧にまとめられていないのは不親切に感じました。
その分、登場する人物については訳注として生没年月日から党での役職、
エピソードが書かれていて、コレはなかなか参考になりました。
しかし恐ろしいのはこのような党員・・、80人くらいは出てくるでしょうか、
ざっと8割方が1937年前後に、「銃刑」、「自殺」、「獄中死」となっていることです。

ロシアに滞在していた海外メディアによる飢饉報道に対しても、
そんなものは存在しない・・と頑なに否定していたスターリン。
もうスターリン自身とモロトフ、カガノーヴィチ以外の関係者も粛清してしまってますから、
この問題は長い間、闇に葬られることになるのです。

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著者は英国のソヴィエト史家であり、「スターリンの恐怖政治」、
「誰がキーロフを殺したのか」、「スターリン -ユーラシアの亡霊」も書いている専門家です。
キーロフの本は読んでみたいと思っていたんですよねぇ。

本書は確かに、スターリン体制下のソ連について、ある程度知っている方向きです。
例えば頻繁に名称の変わる、KGBの前身であるいわゆる秘密警察・・、
GPU→OGPU→NKVDということを知っていた方が読みやすいですし、
また、個人的には知らなかった名称・・、
国営農場の「ソフホーズ」や、「村ソヴィエト」などは勉強になりました。
「ソヴィエト」って何の意味だっけ?? と、新鮮な感じでした。

それに純粋に「ホロドモール」について知りたければ、第3部だけでもOKでしょう。
しかし、なぜそれが起こったのか?? は、やはりウクライナの歴史と農民、
そしてボルシェヴィキのイデオロギーを前半で理解する必要があると思います。

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現在、ウクライナで激しいデモによって多数の死者が出ていると伝わっていますが、
EUとの連合協定締結協議を停止して、ロシアとの経済協力強化を進めようとする政府に
抗議する形で始まったようです。
政府側と戦っているのは、つい最近までボクシングのヘビー級チャンピオンだった
野党ウダル(UDAR)の党首、"鋼鉄の拳"ビタリ・クリチコです。



いくら10試合くらいは見たからといって、ウクライナの野党が正しいなんて言えませんが、
こんな本を読んだ後だけに、ロシアとの関係も含めて早く落ち着いてほしいものです。

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訳者あとがきでは「餓鬼(ハングリー・ゴースト)―​秘密にされた毛沢東中国の飢饉」
という本を紹介し、そちらでも本書が比較参考にされているそうです。
中国の大飢饉は「毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962」を
チェックしていましたが、ちょっと気になるところです。

また「北朝鮮飢餓の真実―なぜこの世に地獄が現れたのか?」というのもあるそうで、
「北朝鮮人喰い収容所―飢餓と絶望​の国」というホラー映画みたいな本もあったり、
レニングラード包囲ガダルカナル島、そして本書と続いてきた飢餓シリーズは
今後どうするか、悩ましいですね。

















カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男 [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エレナ・ジョリー聞き書きの「カラシニコフ自伝」を読破しました。

これまで、戦車や戦闘機、対戦車砲に列車砲という兵器は読んできた独破戦線ですが、
今回は「銃」という初のテーマに挑戦します。
というのも、先週ディスカバリー・チャンネルで「スペツナズ」の特集を見ていたら、
「カラシニコフ AK47」を詳しく取り上げていて、気になって調べたところ、
2008年に出た249ページの本書を発見・・。
全世界に8000万丁が出回っているといわれているこの小銃。
スターリンのソ連で、一体どんな開発が行われたのかが、とても知りたくなりました。

カラシニコフ自伝.jpg

「はじめに」では英国市民からアフガンの山岳に暮らす人々まで誰でも知っている
世界共通の単語といえば「タクシー」、「ラジオ」、「コカコーラ」、そして「カラシニコフ」。
フランスの調査では「20世紀を代表するもの」として、「テレビ」、「抗生物質」、「ブラジャー」、
そしてやっぱり「カラシニコフ」。。
革命や反植民地主義の理想を求める解放闘争では、英雄の手に「AK」が握られ、
パレスチナ、ドイツ、イタリア、日本のテロリストの手にも「AK」の姿が・・。
う~ん。確かにヴィトゲンシュタインのイメージも目出し帽の「IRA」ですね。

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ミハイル・カラシニコフは「10月革命」の2年後、1919年生まれ。
農家の8番目の子供ですが、母親は合計18人も生んでいます。
10歳の頃には農村では密告が日常茶飯事となり、
「富農(クラーク)」と認定されれば、財産没収の上、シベリア送り。
しかし「貧農」や「中農」との違いなど、実際にはほとんどなく、
大家族であればそれだけ多くの家畜を飼育しなければならないのは当然です。
そして初恋の女の子の一家に続き、カラシニコフ家もシベリア送りになってしまうのでした。

Пионеры собирают в поле колоски, г. Сталино, 1934 год..jpg

流刑地での厳しい労働によって父親は死亡し、1936年、カラシニコフ少年は脱走に成功。
いや~、この最初の章は「グラーグ -ソ連集中収容所の歴史-」や、
我が足を信じて -極寒のシベリアを脱出、故国に生還した男の物語-」を思い出して、
悲惨さと苦労が良く伝わります。

1938年には西ウクライナで兵役に就くことになると、
戦車の操縦士兼整備士として訓練を受け、銃眼から効果的に撃つための装置や、
エンジンの作動状況を計測する機器を発明し、
キエフ軍管区司令官のジューコフ将軍からお褒めの言葉を頂戴し、
レニングラードで、この装置の量産が始まります。

Калашников М.Т. в Киевском округе с друзьями курсантами. 1939-1940 г.jpg

しかし時は1941年、ドイツ軍がまっしぐらに向かってくると、すぐに連隊へ戻され、
ブリャンスクでの戦闘に巻き込まれます。
いきなり戦車長に任命された22歳のカラシニコフですが、
敵に居場所を特定されるのを避けるため「撃ってはならない」との命令が・・。
やがて、砲塔ハッチから顔を出した途端、
すぐ横で炸裂した砲弾によって、重傷を負ってしまうのでした。

こうして早々と戦線から離脱し、入院生活を送ることになると、
「なぜ我がロシア軍はあんな形で敗走することになったのだろう?」と
武器、特にオートマチックの短機関銃を造り上げることを夢見ます。
当時はデグチャレフの短機関銃が接近戦で威力を発揮しており、フィンランド戦でも活躍。

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巨大な病室で様々な兵士たちの意見を聞きながら短機関銃の研究を進め、
退院後には早速、小規模な工員チームと銃器設計を始めます。
他にもシュパーギンの短機関銃「PPSh-41」なども紹介されますが、
本書ではカラシニコフの写真しかないので、その都度、調べたり・・。

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ちなみにドイツ軍の銃火器については1年前にムックの
「図説ドイツ軍用銃パーフェクトバイブル」でがっちり勉強しました。



そして療養休暇中のカラシニコフ軍曹の試作短機関銃は注目を集めますが、
コンペでは何度も落選。
そんな時に知り合ったのは、並外れた若き設計者であるアレクセイ・スダレフです。
彼の創った短機関銃「PPS43」は第2次大戦における銃器の最高傑作であり、
しかも包囲されたレニングラードで設計、製造が行われたのです。

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1945年、小銃よりも小さく、拳銃よりも大きい新しいタイプの突撃銃を作るための
コンペが開催されることに・・。
ソ連の偉大な設計者トカレフは、銃の中に塵ひとつ入らないよう、すべての部品を
ピッタリとくっつけるという原理を採用したのに対して、カラシニコフはまったく別のアプローチ、
部品と部品の間に隙間を設け、まるで一つひとつが宙に浮いているかのように設計。
たとえ銃を砂の中に落としてしまっても、機関部がダメージを受けることはなくなるのです。

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コンペの強力なライバルであり、「ソ連邦労働英雄」を胸に付けたデグチャレフ将軍は
試作品を見るなり、パッと目を輝かせ、驚くべき発言をします。
「カラシニコフ軍曹の部品設計は、私のものよりもずっと巧妙で、間違いなく将来性があります。
ですから私は、最終審査への参加を辞退いたします」。

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3人が残った1947年の最終審査。
カラシニコフの試作品は命中精度はNo.1で、弾詰まりも一度も起こしません。
しかしテストは段々と過酷なものとなり、装填した銃を池の中に落としたり、
砂の中を引きずったりしたあと、引金を・・。
さらにコンクリートの床にいろいろな角度から投げつけて、機関部が無傷であるか??
好結果を残したカラシニコフの試作品は「AK47(1947年式カラシニコフ自動小銃)」として
量産されることになるのでした。

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1944年から助成金を承認してくれていたヴォロノフ砲兵元帥に呼び出されると、
10人ほどの将校が集まっています。
「みんな君のことを知りたくてな。
出身や家族のことなど、君の人生について話してくれないか」。

「富農」、すなわち「人民の敵」の息子であり、シベリアに強制移住させられた子供時代や
そこからの脱走した経緯をドラマチックに語ってしまえば、設計者として終わりどころか、
どんな酷い目に遭うかわかったものではありません。
多くの事実を「割愛」した生い立ちを話して、
別れ際にサイン付きの写真が欲しい・・と言う元帥。。いい人です。

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AKプロジェクトで知り合った工業デザイナーのカーチャと結婚をして順風満帆。
1949年にはこれまでの功績に対する褒章として、「スターリン賞」を授与されます。
おまけに最高級の車を1ダースは買える15万ルーブルの賞金付き。
へ~。ソ連の勲章もそれなりに知っていましたが、「スターリン勲章」っていうのは初めてです。

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そのスターリンがすべての銃器の規格を統一しようと言い出すと、
それまでのAK47、デグチャレフの軽機関銃、シモノフの半自動カービン銃に取って代わる、
新口径の統一規格品コンペが開催されます。
そして主要な部品は100%互換性を持つ、カラシニコフの改良された新しい突撃銃「AKM」と、
軽機関銃「RPK(カラシニコフ軽機関銃)」が軍内で統一して使用されることになり、
ソ連軍全体がカラシニコフの銃のみをソ連が崩壊する時まで装備し続けるのでした。

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1958年、「国力を増強した」との理由で、遂に「労働英雄称号」を授与されます。
1964年には最高勲章である「レーニン賞」が授与されますが、
1935年~1957年までは「スターリン賞」が代替していたということで、
フルシチョフが「スターリン批判と個人崇拝」を問題にした後、先のスターリン勲章は
証書とともに返還させて、「ソヴィエト連邦国家賞」なるものに取って代わられたそうです。

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ソ連の歴代指導者たちを語るカラシニコフ。
弱冠30歳にして最高会議の代議員に任命されて、クレムリンでスターリンを目にします。
圧倒的な存在感、家族をシベリアに追放した張本人だと考えたことなどありません。
それがわかった今でも、スターリンは20世紀の偉大な国家指導者であり、
偉大な軍の統率者だったと思っているのです。

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それに比べるとフルシチョフにはかなり冷たい態度で、
何度か会ったことのあるブレジネフは約束はするものの、いつも口先だけ・・。
ソ連の解体を許したゴルバチョフのことも毛嫌いし、
破滅へと導いたエリツィンがいくら勲章をくれたり、
特別扱いして中将まで昇進させようが、辛辣な言葉が並びます。
まぁ、日本にもいる職人気質のおじいちゃん・・って感じですね。

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ブルガリアやルーマニアのカラシニコフ製造工場も見学。
ワルシャワ条約機構に加盟するすべての国でカラシニコフ銃を生産することが可能で、
それはソ連からの贈り物であり、「AK47」は特許を取っていないため、
売買されたカラシニコフ銃からは、1コペイカたりとも懐には入ってこないのです。

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中国の工場も見学したあと、今度は米国からの招待を受けることに・・。
1990年、訪れた米国で「M16」の発案者であるユージン・ストーナーと何日も過ごし、
お互いに尊敬の念が生まれます。
演習場の実射会ではカラシニコフが「M16」を、ストーナーが「AKM」を・・。

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本書はカラシニコフ本人が書いたものではなく、
彼の娘の友人であるモスクワ生まれでパリ在住の著者がインタビューを行い、
時系列に整理して、2003年に仏語で発表したものです。
本文はインタビュー形式ではなく、カラシニコフの独白形式ですから、
集中して読めますし、実際、有名人の自伝なんて、そんなものなんでしょうね。

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また、章ごとのアタマに戦争の推移やスターリン社会などの概説が書かれていて、
カラシニコフの発言を補完しています。
当時のカラシニコフは83歳で、まだまだシャキっとして工場にも顔を出しています。
90歳を過ぎた今も、「カラシニコフ・ウォッカ」を販売したりと、ご健在なようですね。

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うわっ! こんなAKボトルまで売ってんのか。呑兵衛にはたまらん逸品だなぁ。。

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しかし彼の人生や意志とは無関係に「AK」はひとり歩きしてしまい、
カラシニコフ銃を手にしたビンラディンの姿をテレビで見ては憤慨します。
そして皮肉を込めて、こう語るのです。
「だが、私に何ができる? テロリストも正しい選択をしているのだ。
一番信頼できる銃を選んだという点においては!」

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さすが有名な銃だけあって、日本でもいろいろな本が出ていますね。
「カラシニコフ I」と、「カラシニコフ II 」に、
「AK‐47世界を変えた銃」、「カラシニコフ銃 AK47の歴史」など・・。
ただ、どうしても「人類史上、最も多くの人を殺した武器」と言われ、
テロリストと結び付けられるのが、本書を読んだ後だと切ない気持ちにもなりますね。

と、ここまで書いたのが12月23日の夜のことです。
翌朝、「カラシニコフ氏が亡くなった」というNHKニュースが流れて、固まりました。
まさに昨日じゃないか・・。
2か月前にはチトーの奥さんでも同じことがありましたが、
読んで、Blogで取り上げようとした人物が亡くなる・・という呪われた読書家なのか・・?
もっと若い人が死んだら「呪いの独破戦線」は本物でしょう・・。



とりあえず、"ミス・カラシニコフ"とカラシニコフ・ウォッカをぐいっとやりたい気分です。。

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ソビエト航空戦 -知られざる航空大国の全貌- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

飯山 幸伸 著の「ソビエト航空戦」を読破しました。

ドイツ空軍モノはそれなりに読んできて、ドイツ軍機についてもそれなりに知識がつきました。
ただ我ながら不思議に思うのは、巨大な敵であるソ連空軍はからきしわからない・・。
陸戦ならソ連の戦車や自走砲が詳しく紹介されることが多いのに、
ソ連軍機のこの扱いは一体なんなんでしょう?
そんなことから今回は一度、キッチリ勉強してみようと
無敵!T34戦車―ソ連軍大反攻に転ず」のようなイメージで
2003年発刊、399ページの本書に挑んでみました。

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まずはロシア/ソ連の航空機の歴史から勉強です。
スターリンの独裁時代には「様々な大発明がソ連人によってなされてきた」と主張され、
それは航空機の発明にも当てはまり、ソ連ではライト兄弟ではなく、
19世紀末、モジャイスキーの「空中飛行機械」が世界初の動力飛行とされたそうです。
本書ではこのような重要な飛行機が登場する度に図解とスペックを紹介。
う~ん。しかし、モジャイスキー・・、見たことも聞いたこともありませんでした・・。

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続いて第一次大戦でのロシアの空軍力です。
ここでは「イリヤ・ムロメッツIM -V」という世界初の四発爆撃機が登場。
コレは正真正銘の「世界初」のようですが、いや~、知らないことばかりで勉強になります。。
また、飛行機の性能ばかりでなく、450回出撃し、64㌧の爆弾を投下した・・など、
軍用機としての働きについてもシッカリと言及しています。

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そして内戦が終わり、1922年には同じ敗戦国ドイツとの「ラパロ条約」を締結。
ドイツがソ連国内に資本を投下して軍需工場が設置され、軍用機や戦車といった
ヴェルサイユ条約で認められていない兵器の開発とその訓練を実施する話です。
モスクワから400㌔南のリペツク飛行場で航空士官養成に励むドイツと、
その見返りに訓練や演習にソ連人パイロットの参加を要求するソ連。

初期の複葉戦闘機としてポリカルポフやコチュリギンといった機種が紹介され、
機載式ロケット弾の早期開発では、後の大戦争でロケット兵器重要な働きをすると考えた
トハチェフスキー元帥により、1934年にロケット科学研究所が創設され、
それによってRS-132、RS-82といった空対空ロケット弾が開発されます。
そして陸戦兵器としてはあの「カチューシャ・ロケット」に・・。
う~む。。興味深い話ですねぇ。

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ドイツとの蜜月も1933年にヒトラーが登場すると、昨日の友は今日の敵状態に・・。
スペイン内戦では武器の実験場として独ソがしのぎを削ります。
複葉機ではドイツのHe-51に対して、ポリカルポフI-15の性能の方が上ですが、
単葉機が登場するとI-16は、名機Bf-109の前に立場は逆転。
こうしてヤコブレフYak-1、ラボーチキンLaGG-3、ミコヤン・グレヴィッチMiG-1の
開発が大急ぎで進められることになるのでした。

ちなみにスペイン内戦も詳しく知りたいとずっと思っていましたが、
朝日ソノラマの「スペイン戦争」を買いました。楽しみですね。

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さすが日本人の著者だけあって「ノモンハン」での日ソ戦闘の様子も詳しく語ります。
特に航空戦では7.7㎜機銃しか搭載していなかった九七式戦闘機に対して、
例のRS-82ロケット弾を装備したI-16が巻き返しを図ります。
そしてフィンランドとの「冬戦争」へ・・。

rs-82.jpg

このちょうど真ん中あたりで20ページほどソ連軍機の写真集ですが
せめて1/3は即答できるようになりたいところです。。悲しすぎるぜ・・。

さて、いよいよ来たるべく「大祖国戦争」に向けての軍用機開発。
戦闘機については先に挙げた3機種が中心ですが、
ここでドイツ軍ファンでも知ってる有名なヤツが登場してきました。
その名は「イリューシンIl-2」、通称「空飛ぶ戦車」です。
重装甲なうえに、20㎜機関砲と7.62㎜機銃、爆弾400㌔も搭載し、
RS-82ロケット弾を4発づつ装着できるロケットランチャーまで追加装備。
複座の「Il-2M」になると後部席に12.7㎜機銃がセットされたこのタフな相手に
ドイツ空軍も装甲部隊も手を焼く・・という戦記は何度か読みました。

Ilyushin Il-2.jpg

重爆撃機の主翼に戦闘機をドッキングさせて長距離飛行の末に分離するという
特殊な親子飛行機、ヴァクミストロフというのも面白いですね。
大戦末期のドイツ空軍がヤケクソ気味で開発した「ミステル」を連想しますが、
この実験を1931年からやっていたというのが何とも言えません。。

Vakhmistrov.jpg

バルバロッサ作戦が始まると、この「青天の霹靂」の緒戦1日だけで
3000機以上が無抵抗に近い状態で破壊されてしまいます。
その後、制空権を握って装甲部隊とともに進撃するドイツ軍。
モスクワを目指すタイフーン作戦を発動しますが、ソ連側も徹底的に防戦。
首都を守る決死の防空戦では「タラーン」と呼ばれる体当り攻撃も繰り出します。
敵機や敵戦車に突撃する自殺攻撃ですが、神風特攻の3年前の作戦です。
「モスクワ上空の戦い―知られざる首都航空戦1941~1942年--防衛編」
という本にはこのあたりが詳しく書かれているのかなぁ??

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ウラル山脈の向こうへと疎開した工場群は航空機も決死の増産体制です。
1942年の1年間だけで2万機を超える軍用機を生産
例の「労働者ノルマ競争」については触れられていませんが、
先日、クイズ番組で「ノルマ」が問題に出ました。
コレ、ロシア語だったんですねぇ。。
また、米国からはP-39が5,000機、A-20が3000機、
英国からもハリケーン3000機、スピットファイア1300機がレンドリースで届けられます。

そして激しい航空戦が繰り広げられるスターリングラードへ・・。
ドイツ軍はシュトゥーカ急降下爆撃機を繰り出して、この工業都市を徹底破壊。

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耐えるソ連はヤコブレフYak-7にラボーチキンLa-5といったドイツ戦闘機と同レベルの
新型機を着々と配備し、11月、「ウラヌス(天王星)作戦」を発動してドイツ第6軍を包囲します。
女性エース、1号、2号となったリディア・リトヴァク
エカテリーナ・ブダノヴァといった女性飛行士にも言及。
そういえば棒高跳びのエレーナ・イシンバエワもスターリングラード出身なんですよねぇ。

Yekaterina Budanova.jpg

また、珍しいところでは「自由フランス軍」もなかなか詳しく書かれていました。
1942年11月25日に協定が結ばれたという14名のパイロットと58名の整備員から成る
「ノルマンディ部隊」。リトヴァクちゃんと同じYak-1を受領して翌年3月に初出撃。
しかし損害は大きく、初代隊長のジャン・テュラーヌも7月に戦死しますが、
部隊を立て直した4個飛行隊は、ルーアン、ル・アーブル、シェルブール、カーンと称されます。
最終的には5000回以上出撃して、撃墜273機を記録したそうです。

jean-tulasne.jpg

クルスクの航空戦が出てきた後、ソ連のエースたちを紹介します。
最も有名なコジェドブは62機を撃墜。そこにはMe-262の1機も含まれます。
クルスク戦にLa-5で出撃したアレクセンドル・ゴロヴェツは、
Ju-87の20機編隊の一団を発見するものの、無線機が故障していたために単独で急襲。
9機を撃墜しますが、間もなくBf-109に囲まれて戦死・・。

kursk.jpg

そんな彼らの強敵だったのが、「地球人類の撃墜機数1,2,3位であり続けるとみられる」
352機のハルトマン、301機のバルクホルン、275機のラルです。
このクルスク戦と以降の撤退戦において、スコアを上げ続けたのは
撃墜しても次から現れるソ連軍機と、1000回、2000回と一ケタ違う出撃回数によるようです。
1944年になるとドイツ軍機は1800機体制となりますが、
ソ連軍機はやっぱり一ケタ違いの1万機超・・。

Soviet MiG-3 and Yak-9, downed German bomber Junkers Ju-88.jpg

ドイツ領内に侵攻したソ連軍はV兵器を開発していたペーネミュンデ
ジェット戦闘機を開発していたユンカース社のデッサウに米軍に先駆けて迫ります。
最後はベルリン航空戦。
1130機ものドイツ軍機を撃墜したものの、ソ連側も527機を失うという激しい戦い・・。

Soviet Il-2s in the skies above Berlin.jpg

いま気が付きましたが、著者は以前に紹介した
ドイツ戦闘機開発者の戦い―メッサーシュミットとハインケル、タンクの航跡」の方でした。
なるほど、ドイツ空軍についても詳しい訳ですね。
バルバロッサ作戦が1942年6月22日とか、パウルスの第8軍、モーデルの第6軍など、
??っとなるところもありましたが、まぁ、誤字ということでOKでしょう。

自分にとって未知の航空機が次から次へと登場する一冊でしたが、
少なくとも「Yak-9」が完成された名機であることは理解しました。
また、Yak-1、Yak-3などと、奇数が振られたのが戦闘機であり、
偶数(Yak-2、Yak-4)は爆撃機なんてこともちょっとした豆知識ですね。







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