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日本本土決戦 知られざる国民義勇戦闘隊の全貌 [日本]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

藤田 昌雄 著の「日本本土決戦」を読破しました。

日本軍がメインではない独破戦線ですが、3月に出たばかりの本書は妙に気になりました。
このタイトルと副題の「国民義勇戦闘隊」、思い出すのはベルリン最終戦国民突撃隊です。
何度となく紹介したこの2つに関する悲惨な戦争と同じようなことが日本で行われていたら、
老若男女が根こそぎ戦闘に駆り出されていたら・・。
人間機雷「伏龍」特攻隊」でも、地雷を背負って戦車の下に飛び込む「もぐら特攻」や、
米軍上陸の可能性がある全国各地で行われていたという訓練の様子にも触れられてましたから、
そのような訓練課程と、兵器、戦術について勉強してみたいと思います。

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プロローグ」では、この馴染みのない国民義勇戦闘隊について簡単に説明します。
昭和19年末に「本土決戦」の準備を始めた日本と、陸海軍の防衛部隊編成。
その後方支援を目的として全国民を組織化した「国民義勇隊」の編制が開始され、
いざ敵上陸となれば、国民義勇隊をベースとした戦闘組織、「国民義勇戦闘隊」が登場。
そして総員2800万名にのぼるというこの国民義勇戦闘隊の編成が始まったところで終戦・・。

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第1部「本土決戦体制」では前途の件を詳細に解説し、
陸海軍の予備人員である在郷軍人から、昭和17年に「防空招集」として近郊の防空部隊へ増員、
しかし昭和19年10月には対象者の枯渇から、招集対象が17歳~45歳と広げられます。
もうひとつ「警備招集」というのもあり、これは正規軍未配備地域と、空襲激化に備えた
主要都市の混乱防止と警備を行う警備隊。
このような部隊と編制が一覧表を用いて細かく紹介されます。

その他の組織として3つの婦人会を統合した「大日本婦人会」や、統合された「大日本青少年団」、
そして女性隊員もいた「防空監視隊」、「満蒙開拓団」の国内版という少年たちによる
「食料増産隊」が写真とともに紹介。250枚の写真を掲載しているとのことです。
下の写真は鈴木貫太郎首相の見つめる中、官邸の中庭まで農地する食料増産隊(東京大隊)。
そういえば後楽園球場や不忍池も、畑になったなんて話を聞きましたね。

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本土決戦の戦闘構想は、敵の爆撃および艦砲射撃に徹底した偽装と築城で被害を避け、
敵輸送船に対する空中、水上、水中からの特攻により、可能な限り、敵兵力を洋上で撃破。
上陸した敵には堅固な沿岸陣地と、挺身斬込による「拘束部隊」が食い止め、
その間に内陸部で待機していた「決戦機動兵団」が上陸地点へ殺到して、水際で撃滅する・・。

う~む。。まるで連合軍のノルマンディ上陸に対するドイツ軍のようですね。

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また陸軍は、これまで僅少な兵力の島々の「守備隊」が、圧倒的な物量を持つ敵に対抗して
玉砕戦闘を行ってきた反面、大規模兵団同士の戦闘はなく、大兵力を擁する本土決戦では
逆に長大な兵站線を保持する敵侵攻軍に対して、逆の立場で有利な戦闘が出来ると判断。

先日、原作を読んで初めて観た映画「日本のいちばん長い日」でも、
世界のミフネ演じる阿南陸軍大臣が海軍大臣と激論を交わし、
「陸軍は小さな島々で戦ってきたに過ぎん。まだ大兵力を用いた決戦を行っておらん!」
と、本土決戦での勝機を訴えるシーンがありましたねぇ。
原作本も映画も、どちらもオススメです。

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第2部は本土決戦の際の国民統制組織として、昭和20年3月に閣議決定された「国民義勇隊」。
主任務は食糧増産、輸送支援、災害復旧、陣地構築など・・。
あわせて既存の国民勤労協力令や、女子勤労挺身令などが統合され、
「国民勤労動員令」が施行されます。
読売新聞、朝日新聞に掲載された記事の他に、
ココでは、昭和20年撮影の「女子挺身隊による戦車製造の状況」写真が何とも言えません。

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国民義勇隊は男女別に編成され、「男子隊」は国民学校初等科修了以上~65歳以下。
「女子隊」の場合は上限が45歳以下で、病弱者や妊婦などは除外、
もちろん非該当者でも志願することは可能ですから、
旦那と息子を失ったお婆ちゃんが「鬼畜米英!」と叫んで志願したかも知れませんね。

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昭和20年3月29日の朝日新聞には、国民義勇隊の編制以前に、民間レベルでの義勇隊が
存在したことが記されていると掲載していますが、まぁ、見出しがヒドいですなぁ。
「合言葉は一人十殺 竹槍なくば唐手で 老幼も起つ沖縄県民」
「討つぞ盲爆の仇 敵百万・引受ける覚悟」

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途中、「在郷軍人会徽章」の写真が出てましたが、本来の金属製ではなく、
「織出」と呼ばれる布製のレア物・・。戦争末期は悲しいほど物資不足ですね。
勲章徽章類好きなので、ちょっと調べてみましたが、
数多く現存する金属製よりも、市場ではレアな布製の方が3倍ほどもお高くなってました。

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第4部はいよいよ昭和20年4月に閣議決定された「国民義勇戦闘隊」です。
義勇兵役法や、施行規則が数ページに渡って詳細に書かれていますが、
「服装規定」を抜粋しましょう。
「隊員各自が私服を着用するとともに、階級章等はなく、唯一、戦闘隊員と一般国民との
識別のために胸右部に『戰』と書かれた縦6センチ、幅7センチの白布製の徽章をつける。
また役職等があるものは腕章を着用する」。

編成形態についても詳しく、最大単位は各都道府県の市や郡の国民義勇隊本部隷下に
「聯合義勇戦闘隊」として編成。「義勇戦闘隊」は1000人規模の大隊、
「義勇戦闘戦隊」は中隊規模、「義勇戦闘区隊」は小隊規模、
10数名の隊員と隊長らで編成された「「義勇戦闘分隊」が最小単位となります。

そして6月、内閣情報局が国民義勇隊の士気高揚を目的とし、「国民義勇隊の歌」を発表。
本書には楽譜と歌詞が掲載されていますが、ちょっくら聴いてみました。
そんなに悪い曲調とメロディーじゃないですね。この末期の歌は悲壮感があったりしますけど・・。



3番の歌詞だけ・・

命下りたり 大八洲
屍越えて われ征かん
撃て おそひ來る宿敵を
怒りに冴ゆる日本刀
われらは國民義勇隊

国民義勇戦闘隊に類似した組織として紹介されるのは、やっぱりドイツの「国民突撃隊」。
招集年齢は男子のみ、16歳~60歳で、総兵力は600万名と写真付き。

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もうひとつの組織は1940年5月に編成された英国の地域防衛義勇隊「ホーム・ガード」です。
こちらはそれほど知られていませんが、フランスが電撃戦で侵攻され、
大陸派遣軍がダンケルクから這う這うの体で帰ってくると、
今にもドイツ軍がドーヴァー海峡を渡ってきたり、パラシュート降下して来るのでは?? と
幻となった「あしか作戦」を恐れて編成されたんですね。

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第5部は「学徒の戦力化と国民闘力錬成」で、学徒義勇戦闘隊のための
戦闘訓練を含んだ体力錬成の要領を紹介し、
女子も含めた国民闘力錬成要領では具体的な運動項目も・・。
女の子でも手榴弾投擲訓練やってたんですねぇ。
このあたりは「帝国日本とスポーツ」を彷彿とさせます。

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第6部はメインとなる「国民義勇戦闘隊のマニュアルと武器」。
竹槍訓練マニュアルは昭和17年に登場したものの、
昭和20年4月には国民義勇戦闘隊専用の本土決戦マニュアルが配布されます。
その名も「国民抗戦必携」です。
新聞にも連載されたこのゲリラ戦マニュアルは表紙もなかなか強烈で、
国民服姿の日本人が米兵の喉元に刃物を突きつける・・というもの。

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本書では配布された冊子版ではなく、新聞掲載版全8回の全文をイラスト共に解説。
しかし第1回が「恐れずに敵戦車に肉薄」っていうのも容赦ないなぁ。
内容はM4中戦車(シャーマン)、M1重戦車(M26のプロトタイプに日本軍が付けた名称)に対し、
爆雷や火炎瓶を用い、天蓋や背面、履帯を攻撃する方法が詳しく述べられています。
終いには「また進行前面へ7㌔の急造爆雷を抱えて飛び込むのも適切な攻撃法である」。
コレ・・早い話、死ねって言ってますよね。。

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第2回の「練磨の挺身攻撃」では、高所から車背目掛けて叩きつける「フトン爆雷」なるものに、
「刺突爆雷」という新兵器も登場。戦車側面に突き刺すと爆発するそうで、
モンロー効果とあるので、構造的には「飛ばないパンツァーファウスト」って感じでしょうか??
ただ「銃剣の如く戦車を串刺しにする意気込みで突っ込め」って書いてあっても、
その瞬間に爆発するから、やっぱり「必死」ですな・・。

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第3回は「われらの必殺戦法」。
「挺身斬込みこそ皇軍が世界に誇る戦闘様式の精華だ」と始まるこの回は、
狙撃と手榴弾に続き、「白兵戦闘、格闘」について述べられます。
「上背のあるヤンキー共には突きが一番だ」と、鎌や出刃包丁でも挑むのです。

と、まあ、こんな感じで8回続きますが、完全に「赤軍ゲリラ・マニュアル」のような展開です。
そして図入り、絵入りの築城マニュアルである「国民築城必携」も全32ページ掲載。

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全国の武道家有志が結成した「振武義勇隊」は斬込訓練を施しただけでなく、
国民義勇戦闘隊の「斬込隊」の中核になる組織でもあったそうで、
その戦闘マニュアルは「米鬼必殺剣-斬込刀法」。。もはや時代劇のタイトルだな・・。
達人たちですから、上背のあるヤンキー共には突きが・・なんて野暮なことは言いません。
「日本刀を用いた斬込は、第一撃でつねに斜め左下から右上に斬り上げ(逆袈裟掛け)、
第二撃で斜め右上から左下に斬り下げ(本袈裟掛け)、
第三撃で斬り下げた力を利用してトドメの突きを心臓に加え、
第四撃で刀を引き抜く動作である」。

米軍もこんな「サムライ」みたいな連中が飛び出して来たらビビるかもしれませんね。
「戦国自衛隊」の千葉ちゃんみたいな・・。

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そして武器の数々・・。
といっても「国民義勇戦闘隊」は被服を含めて原則、自己調達。。
竹槍に私物の日本刀や猟銃、鎌、鍬などの農機具に、スコップなどの土木工具。
ただし、銃身が鉄パイプで、古式銃と同一の簡単な撃発装置が付けられた「簡易国民小銃」や、
「簡易国民拳銃」の開発も始まっていたようです。

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各部隊では「自活兵器」として、急造手榴弾を作成。
しかし物資不足から「陶製手榴弾」も多く作られます。
パイナップル型は京焼と備前焼の陸軍製、丸型は有田焼、信楽焼きの海軍製です。

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続いての武器は「弓矢」。
弓道部員の学徒は引っ張りだこになりそうですが、手作りのボーガン・スタイルもあり、
矢の先端に爆薬を設置した「爆矢」まで作られていますね。

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打撃用兵器としては、各種「打撃棒」シリーズが・・。
打撃効果向上のために鉄パイプで強化した棍棒やら、
バットや木刀には打撃効果向上のために釘を打ちつけると。まさにコレで鬼に金棒。。

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最後の第7部では、沖縄と樺太での義勇隊の戦いの様子を・・。
特に伊江島の戦いでは、断髪して軍服を着用した「婦人協力隊」隊長の大城ハルと、
「女子救護隊」隊長、永山ハルら5名が爆雷を持って米軍戦車へ突入して散華した・・と。

沖縄には少年たちによる「鉄血勤皇隊」なんかもありましたからねぇ。

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335ページの本書は、基本的に一次史料の掲載と、それについての解説という流れであり、
資料を基にした読んで楽しいストーリー展開はありません。
ですから、退屈だと思う方もいれば、事実のみを知りたい方には良いのかもしれません。

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個人的には本土決戦に至らなくて正解だったと思いますけれど、
歴史として見て、どうせ負け戦だとか、物量的にも勝てるわけがないなどと言うのは簡単ですが、
自分の街が占領されそうになったら、それが命令であっても人々は武器を取るんですね。
ドイツの「国民突撃隊」しかり、英国の「ホーム・ガード」しかり、
またドイツの婦人補助部隊に、連合国にも各婦人部隊が存在。
ソ連でも各地で市民が抵抗を示した例が数多くあります。
その一例として「レニングラード封鎖」でもこんな記述がありました。

迫りくるマンシュタインの装甲軍団に対し、レニングラードの党第1書記、ジダーノフは
8月20日、女性や10代の若者を含む、義勇兵大隊の創設を決めて次のように宣言します。
「義勇軍は猟銃、手製爆発物、各博物館所蔵のサーベルと短剣で武装される」。







タグ:国民突撃隊
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遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ベン・シェファード著の「遠すぎた家路」を読破しました。

3月に出たばかりの625ページの大作を10日間かけてやっつけました。
タイミングとしては完ぺきで、前回の「ホロコースト全証言」の最後が解放された人々ですから、
まさに続きの如く、その後のユダヤ人、ナチスに強制連行された外国人労働者たち、
さらには迫る赤軍から西へと逃れてきたドイツ人難民の運命に迫った一冊です。

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19章から成る本書、出だしは1940年春のポーランド、クラクフの様子。
ゲシュタポが私たちの病院をいきなり襲撃した」と回想する学生看護婦のアンナ。
医師は連行され、看護婦は準備に5分間与えられた後、列車でヴェストファーレン送りです。
辿り着いたのは「職業紹介所」。
「未来の雇い主たちが私たちを待っていた。
家畜品評会の畜牛のように品定めをし、指でいじくった。
私たち女学生にはあまり買い手が付かず、最後まで広間に残された」。
最終的に彼女は農場労働者となりますが、都会育ちの若い女性にはつらい仕事です。

Zwangsarbeiterinnen aus dem Osten deportiert_1943.jpg

1930年代後半、ドイツでは景気回復と再軍備によって、労働力不足が予想されており、
農場では特に人手が足りず、ポーランド侵攻後には100万人を供給する計画があったのです。
しかしそれはナチスの民族原理に反する政策でもあり、国内の「血の純潔」を脅かすことに・・。
そこで連れてきたポーランド人には「懲罰的隔離制度」を課して、離れたバラックで暮らし、
低い賃金、「P」の字の認識札を身に付けることを強いるのです。

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ドイツ人とポーランド人の性的接触は当然、死刑に値します。
1941年、あるポーランド人が「農業の勤労奉仕をしているドイツ娘のスカートに手を突っ込んだ」
として、絞首刑に処せられるのでした。
むむ、まさしく「愛と欲望のナチズム」チックな話・・。 

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そんな時にご存知「バルバロッサ作戦」が発動するも、冬には行き詰まり、
兵士たちが帰還しないばかりか、膨大な数の補充兵が必要・・。
それは本国の労働者が新兵になるということであり、
すでに枯渇しているドイツの人的資源に悪影響を及ぼすのです。

Salt and bread from the Crimea-1941.jpg

ロシア人捕虜は「けだもの」であり、彼らを本国で働かせることで、
大事なドイツ女性に近づけることなど考えられません。
しかしウクライナではドイツ軍が「解放者」として、伝統的なパンと塩の贈り物で歓迎されると、
ドイツの生活水準の高さや、ウクライナ人をその気にさせるプロパガンダが掲載されるだけでなく、
ウクライナの若者たちが牧歌的なドイツの農場で歌い踊る「陽光あふれるドイツへおいで」
という映画まで上映されるのです。

Wir gehen nach Deutschland um für den Frieden und eine bessere Zukunft zu arbeiten..jpg

こうして、いい給料、すぐに帰れるという約束にキエフでも志願者が大勢現れ、
ブラスバンドの演奏に送られて、ドイツへと向かうのでした。

Fremdarbeiter waren die Sklaven eines barbarischen Systems. Über das Millionenheer der Zwangsarbeiter.jpg

そんな彼らを待ち受けていたのは、劣悪な住居、粗末な食事、さまざまな虐待と屈辱であり、
ポーランド人労働者以下の扱いを受けて、「Ost(東)」のパッチの装着が義務付けられ、
共産主義を広めないようにと、鉄条網で囲われた収容所に押し込められるのです。

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数ヵ月後にはそんな実情を噂で聞いたウクライナ人の志願者が激減するのは当然で
となれば労働力配置総監ザウケルは強制力を行使することになり、
公共の場にいるウクライナ人も一網打尽。
1943年8月までに、280万人の外国人労働者が送り込まれることになるのです。

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たまたま何人かのウクライナ少女を目にしたヒトラー。
その金髪と、「アーリア風」の顔立ちに驚いたことで、彼女たちはドイツ人家庭の家政婦として
働くことが許可されます。生意気で怠慢なドイツ人家政婦とは違い、
ドイツ語も話せず、部屋のトイレや風呂も見たことがない木靴を履いたメリーポピンズは、
うんと安い賃金ながらも、意欲があり、勤勉で、勉強熱心。汚れ仕事もへっちゃらなのでした。

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戦場の兵士たちにも食料が送れなくなったドイツは食糧危機に直面し、国防軍は自給自足、
占領地からドイツへ食料を送るという「戦争と飢餓」の話へと進み、
外国人労働者の配給や、ユダヤ人には配給停止・・といったホロコーストへと向かって行きます。

1943年の終わりには、ロシア人捕虜、フランス人に加え、脱落したイタリア人も強制労働者に・・。
鉱山での労働では、いけ好かないロシア人よりも、裏切り者のイタリア人への敵意が強く、
身体的暴力が横行・・。鞭打たれ、満足な衣類も与えられず、蠅のように死んでいくのです。

Sowjetische Zwangsarbeiterinnen 1943 bei Erdarbeiten am Diestelkai im Hafen Hamburg.jpg

工場で重労働を強いられる東方の女性たちも、無垢な少女から成長して知恵をつけ、
所長やドイツ人上司との「密通」により副収入を得て、闇市でパンを買うことも可能。
妊娠したら「外国人の子供のための養護ホーム」が企業によって設置され、
「レーベンスボルン」とは真逆なこの施設で、劣等人種の子供たちは、
育児放棄されて、栄養失調によって見殺しになるのでした。

Ausländische_Arbeitskräfte_im_III._Reich,_Ostarbeite.jpg

1944年、連合軍がノルマンディへ上陸・・となると、ナチス・ドイツの敗北と共に、
何百万人ものヨーロッパ人を本国へ送還するという、驚くほど大規模で、
複雑な問題に連合軍は気づきます。
本書では避難民や強制移住者を"Displaced Person"の略語である「DP」として表現。

フランクフルトなどの各都市、ブッヘンヴァルトなどの強制収容所を開放する度、
工場、鉱山、農場から数万人のDPと戦争捕虜が出てきて幹線道路に溢れ、
都市はカオス状態に・・。略奪、喧嘩、強姦、殺人が1週間も続きます。

A concentration camp victim identifies an SS guard in June 1945.jpg

小集団をなすフランス人、オランダ人、ベルギー人にチェコ人、ポーランド、イタリア、
そして圧倒的多数を占める、背中に白いペンキで「SU」と書かれたソ連の捕虜たちが、
食料と寝泊まりする場所を求め、ぞろぞろと西へと歩いて移動するのです。

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ハノーファーでは市庁舎の地下貯蔵庫に何百人ものロシア人が押し寄せて、
ワインや蒸留酒の樽を次々に叩き割ったことで、床は15㎝の混合酒の海となり、
しゃがみ込んでこの強烈なカクテルを呑んでいたロシア人はバタバタと倒れて、
その多くが溺死してしまいます。。
う~む。。ある意味、彼らにとって本望だったと思いたいですね。

解放されたDPの心は復讐心と飢え、歓喜であり、この3つの精神状態が結びついた結果、
行動の面で問題となったのです。
国ごとに分かれた集団はナショナル・アイデンティティの主張が強く、
リーダーを決めるにも、シラフの人間がいないため、容易ではありません。
連合軍はチフスや赤痢の蔓延を防ぐために、彼らを収容所へと追いやります。

The_British_Army_in_North-west_Europe_Ostarbeiterinnen in Osnabrück, die kurz vor ihrer geplanten Ermordung gerettet wurden, 7. April 1945.jpg

ふと思い出しましたが、フレンスブルクにあった海軍大学校が降伏したデーニッツの司令部で
英国軍からDPの襲撃に備え、歩哨を置くよう言われた結果、
この地区の司令官だったダイヤモンド章に輝くUボート・エースのリュートが、
18歳のドイツ人歩哨に誤って撃ち殺される・・という悲劇が起こっていますね。

それでも西欧の、まずフランス人労働者16万人が母国へ帰還。
30万人のベルギー人、オランダ人と続きますが、
イタリア人DPが想定の2倍、70万人もいることに驚く連合軍・・。

片や東欧のロシア人となると、コレが簡単にはいきません。
ノルマンディで捕えたドイツ軍捕虜1600名が、実はドイツ軍の軍服を着たロシア人だと解ると、
彼らがソ連全土から来たウクライナ人、中央ロシア人、ベラルーシ人、
シベリア人にモンゴル人の混成と判明。
生き延びるためにドイツ軍へ「奉仕」することを申し出た現地の助っ人、「ヒーヴィ(Hiwi)」と、
東部戦線の戦力増強のために東方義勇兵(オストトルッペン)として投入された赤軍捕虜たち。
しかし続々とパルチザンに鞍替えするために、西部戦線行きとなったのです。

German infantry and Hiwi.jpg

そしてロシア人捕虜は帰国後の運命をスターリンの発言から知っており・・。
「わが国に捕虜などいない。いるのは反逆者のみ。
最後の一発の銃弾は、つねに自分自身のためにあるべきだ」。
1939年のソフィン戦争で、フィンランド人捕虜と引き換えに返還された3万人のロシア人捕虜は、
機関銃隊に射殺され、その機関銃隊が今度はNKVDによって粛清されたのです。

また、チトーが実権を握ったユーゴスラヴィアからはクロアチア人とスロヴェニア人が逃げ出し、
英軍によって捕えられた彼ら2万7千人は、最後まで目的地はイタリアだと思っていたものの、
欺瞞工作によってユーゴ共産党に引き渡されてしまうのです。
その後の悲惨な運命は書かれていませんが、セルビア人を大虐殺したウスタシャだとすれば、
絞首刑や銃殺で済めば、万々歳といったところでしょうか・・。

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しかし一番の問題は4万人の「コサック」の扱いです。
ヤルタ会談で解放されたソ連市民はすべてロシア人へ引き渡すと明記されており、
運命を悟った彼らからは自殺者が続出・・。
このあたりはまさに「幻影 -ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語」を彷彿とさせる展開ですね。

Russkaia Osvoboditelnaia Armiia (KOS).jpg

同様に帰国を望まないウクライナ人の運命へと続きます。
8月、英軍のホロックス中将は手紙に書き記します。
「はたして彼らを帰すべきなのでしょうか?ロシア側を説得し、帰りたくない人々は、
全員この国に置いておくようにさせることはできないものでしょうか?」

また、同じウクライナでも東ウクライナはロシア正教の信者であり、ソ連の臣民、
対して西ウクライナはカトリック教徒で、元々オーストリア=ハンガリー帝国の臣民。
その後、ポーランド市民となって、独ソのポーランド侵攻によって、ウクライナ人に・・。
東ウクライナ人は帰国を希望し、「大飢饉」をを含めた複雑な歴史と、
ウクライナ人民族主義者にとっては、ロシアとポーランドは「大敵」であり、
ドイツは「伝統的な盟友」であるのです。
なんとも現在のウクライナ問題を思い起こさせますねぇ。

Many Ukrainians welcome German troops as liberators.jpg

また、別の章ではスターリングラードの戦いを起点に、非ドイツ人志願兵に参加呼びかけ、
すなわち武装SSの新師団へ参加するウクライナの若者たちの話もありました。
ドイツでの労働は免れたい彼らは、よく訓練された軍事力を持つことでロシアに対抗できると、
第14SS武装擲弾兵師団 ガリツィーエン(ウクライナ第1)が誕生。

しかし願いも虚しく、まともな訓練も受けないまま、「ブロディの戦い」へ投入され、ほぼ全滅。。
再編成後、ウクライナ国民軍第1師団となって・・と続き、
この「ガリツィーエン」に関しては初めて読んだ気がします。

14th Waffen Grenadier Division of the SS (1st Galician).jpg

またこの「ガリツィーエン」が全滅したころ、ドイツのソ連労働者の「Ost」が改変され、
ロシアとウクライナ、別々のパッチとなっていたのを発見しました。
仲悪すぎて、一緒に働かせると効率が悪かったんでしょうかね。。
ロシア人はブルークロスのマークで、これはロシア解放軍「РОА」のデザイン。
ウクライナ人は黄色と青にウクライナの国章「三叉槍」で、これもウクライナ義勇軍「YBB」と同じ。

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戦争の始まった1939年時点では、まだ独立国家だったバルト3国のDPも、
祖国がソ連に組み込まれたいま、帰国を願うのは少数派。
生き残ったDPの最大集団はポーランド人。
しかしウクライナ人と名乗るべきだった人々がココに多数含まれていたと推測。
そして強制収容所から出てきた20万人のユダヤ人、
西側占領区域には5万以上が生き残っていたものの、うち2万人が1週間と経たずに死亡。。

「戦争難民」という意味では東方から逃げてきた何百万というドイツ人も対象です。
ベルリン周辺にはホームレスとなった人々が溢れているだけでなく、
さらにチェコスロヴァキアから500万人のドイツ人が追い出され、じきにやってくるのです。

Ein erschöpfte russische Zwangsarbeiterin ruht sich im April 1945 in der Sammelstelle für Zwangsverschleppte in Würzburg auf Gepäckstücken aus.jpg

ドイツ軍の降伏後、ミュンヘン会談の侮辱やリディツェ村の虐殺などに対する報復の声が高まり、
チェコ人兵士がドイツ人をめった打ちにし、銃で撃ち、拷問にかけ、首を吊ったら火をつけ、
自警団はドイツ人を自宅から追い出し、国境の向こうへ追いやったのです。
その報復の激しさにはロシア人でさえ驚き、あるドイツ人は、婦女暴行の癖を別にすれば、
「ロシア兵の方がチェコ人より遥かに人情味があって信頼できる・・」。

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ポーランドでも追い出されたドイツ人は不幸な旅を続けます。
荷車はポーランド兵に強奪され、若い娘は悲鳴を上げながら畑へ引きずり込まれ、
わが娘を助けようとした男性は撃ち殺され・・。

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戦後2年半が過ぎても、ドイツとオーストリア、そしてイタリアにはまだ100万を超えるDPが。
DP収容所の数は762にものぼります。
マーシャルプランなどドイツ経済復興が優先事項になると、DPはルール地方の炭鉱で働き、
最大の雇い主はフォルクスワーゲン工場で、ここでは多くのウクライナ人とバルト人が・・。

German propaganda poster in Polish language _Let's do agricultural work in Germany_.jpg

後半の第15章では、「レーベンスボルン」のその後についても書かれていました。
選び抜かれたナチ党員の男性と女性が生んだ「アーリア人」の子供ではなく、
ポーランドなどから誘拐した「金髪で青い眼」をした子供たちについてです。
このような子供を捜索、発見するとドイツ人の育ての親の腕から引ったくり、
子も母もさめざめと泣くなか、本国へと帰されるのです。
しかし、実の母との再会を果たすことは少なく、ほとんどが孤児院行き・・。
子供の親が生きており、我が子を取り戻したがっているかは、二の次なのです。

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西欧諸国が最終的に受け入れた難民の数は17万人。全体の1/5です。
この問題の恒久的解決策は「海の向こう」、南北アメリカと英連邦しかありません。
カナダは森林作業にバルト人の若い労働者を中心に受け入れ、
90%が英国系だった広大なオーストラリアも、防衛力不足を理由に受け入れます。
ベロン政権が移住を促進しているアルゼンチンにも多くのDPが流れ、ブラジルにも・・。
ガーランドやルーデルといった空軍出身者や、メンゲレアイヒマンなども思い出しますね。

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やっかいなのはユダヤ人の扱いです。
トルーマン大統領は1947年の日記にこう書き記します。
「ユダヤ人は物凄く利己主義だ。自分たちが特別扱いさえしてもらえれば、
多くのバルト人やポーランド人が虐待されたり、殺されたりしようと気にしない。
だが彼らが財力なり、政治力なりを持ったら、
無慈悲さや負け犬の虐待の点では、ヒトラーもスターリンも敵わない」。

そして、なんでユダヤ人に我らの土地を分け与えなければならんのだ・・と、
不満タラタラなパレスチナにイスラエルが建国されると同時に
ユダヤ人DPは、その地へと向かうのでした。

元々ドイツ系の多かった米国、フーヴァーにアイゼンハワーリンドバーグらですが、
最終的にはこの国もドイツ人を含む、多くの難民を受け入れることに・・。

51aTv34nioL.jpg

昔から海外のスポーツが好きなヴィトゲンシュタインは、
NFLの選手の名前からナニ系米国人だとかをよく想像したものです。
もう20年前ですが、確かグリーンベイ・パッカーズに○○ヴィッチという選手がいて、
ストイコヴィッチ(Stojković)のようなユーゴ系だと思いきや、スペルは"○○vich"でした。
"vic"は英語読みだと、"ヴィック"になってしまうので、末尾に"H"をつけて"vich"。
当時聞いたところでは、ヴィックと呼ばれても構わないという人と、
スペルを変えてでもヴィッチと呼ばれたい人の差だそうで、
お父さん、お爺さんの代に変更したんでしょう。

現在ならテニス界で、錦織くんのライバル、カナダのラオニッチ(Raonic)も
少し前までラオニックと英語読みされてましたが、モンテネグロ出身なのでラオニッチに統一。
同様にオーストラリアのトミッチ(Tomic)は、まだ日本ではトミックとも呼ばれてますが、
親父さんはクロアチア人だし、大抵の審判もトミッチと呼んでいます。
まぁ、そんな移民の、名前からしての苦労も想像できますね。
いま売出し中のアルゼンチン人、ディエゴ・シュワルツマン(Diego Schwartzman)くんも
ナチ党員の移民の子孫だったりして・・なんて不謹慎なことを考えてみたり・・。

Raonic_Tomic_Schwartzman.jpg

本書のターゲットはあくまで一般の避難民(DP)であり、ドイツ軍捕虜は対象外となっています。
ですから、その捕虜たちの運命を知りたい方は、パウル・カレルの名著「捕虜」や、
消えた百万人」を読まれればよいでしょう。特に前者は超オススメです。

Berlin in Summer of 1945 (5).jpg

読み終えて、当初は各国の避難民がどれくらい悲惨な暮らしを強いられたのか??
に注目していましたが、結果的には戦後のイスラエル建国の経緯や、
現在、世界中に暮らしているの移民の2世、3世に思いを馳せたり、
そういえばドイツ系の英国人、その逆の英国系ドイツ人ってあまり聞かないな・・など、
戦後の難民たちの希望と、各国の思惑によって、紛争を含めた現在の世界が
出来上がったということがある程度、理解出来ました。

そして特に現在のロシア-ウクライナ問題に通じる歴史や、
近年、ドイツに対する戦後補償を求める当時の人々との裁判の話などは、
日本も隣国から求められたものとも似ていることが印象的でした。



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ホロコースト全証言 -ナチ虐殺戦の全体像- [収容所/捕虜]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

グイド・クノップ著の「ホロコースト全証言」を読破しました。

ドイツのテレビ(ZDF)現代史局長である著者の本はこのBlogを始めた当初から読んでいました。
ヒトラーの共犯者」や、「ヒトラーの親衛隊」など7冊ですね。
かなり勉強になった半面、自虐的過ぎるような構成と結論に違和感を感じたのも事実です。
そんなこともあって、2004年、441ページの本書を読むことに躊躇していましたが、
2週間ほど前に突然、読んでみよう・・という気になりました。
本書は写真タップリなので、このレビューでも負けず劣らず写真を掲載しますから、
もし「ホロコーストの写真は苦手・・、怖い・・」という繊細な方はスルーしてくださいね。
いまコレを書いている時点で、どんなエグい写真になるか、一切不明なんです。

ホロコースト.jpg

それでは第1章、「人間狩り」から・・。
1941年7月、ラトヴィアの都市リバウでユダヤ人47人とラトヴィア共産党員5人が射殺されます。
アインザッツグルッペンはこのあとの1ヵ月の間にラトヴィア人「自警団」とともに、
1000人のユダヤ人男性を処刑。
ソ連侵攻当初は、まだ女性や子供、老人は対象外なのです。
この「バルバロッサ作戦」とは、ヒトラーの思考のありとあらゆるイデオロギー的・戦略的要素が
束ねられ、ひとつの実戦的解答になったものだった・・として、
わが闘争」から具体的に抜粋します。
いわゆる「ユダヤ=ボルシェヴィズム」というヤツですね。

ゲシュタポクリポ(刑事警察)SD(保安防諜部)を中核に武装SSとオルポ(秩序警察)から成る
4個の特別行動隊アインザッツグルッペンも、隊長のシュターレッカーなどが登場しながら
なかなか詳細に書かれ、出動前にはハイドリヒから心構え、
「いかに苛酷で困難な任務であるか」を説かれます。

Franz Walter Stahlecker.jpg

そして非武装の民間人、「扇動者・ビラ撒き」といった嫌疑をかけられただけでも「ゲリラ」とされ、
銃殺や村を丸ごと焼き払うといった決定が現場の国防軍将校にも与えられるのです。

そんなアインザッツグルッペンvs国防軍兵士のエピソードも出てきました。
砂利採取の穴で300人ほどの民間人が銃殺中なのを発見したシュタルク少尉は駆け寄ります。
「この事態は何だ。ここで銃殺を執行せよという当師団司令官の命令はどこにある」。
プロイセン軍人の毅然とした態度にリトアニア人の死刑執行人とSS隊員は気圧され、
「銃を穴へ捨てろ!諸君を逮捕する!」 そして憲兵がやって来るのでした。

einsatzgruppen  execution.jpg

また、オルポの警察予備大隊が虐殺班を支援したという記述では、
ブラウニング著の「普通の人びと」を基準学術書として高い評価を得ている・・と取り上げます。
いや~、あの本は凄かったなぁ。

ウクライナのレンベルク(リヴォフ)でも常軌を逸した虐殺行為が繰り広げられます。
迫るドイツ軍を前にNKVD長官のベリヤが出した命令は「反革命要素はすべて射殺せよ」。
数百人の囚人が後頭部を撃ち抜かれ、大混乱のなか、いまだ人で溢れ返っている監房に
ソ連の看守は手榴弾を投げ込むのです。
ドイツ軍がやってくるとソ連軍が残していった死体の山に、身内を探す遺族と復讐を誓う人々。

execution-nkvd.jpg

反ユダヤ主義の根強いこの地域、スケープゴートとしてユダヤ人狩りが始まります。
ウクライナ人自警団が女性も子供も路上に引きずり出して暴行を加えますが、
「痕跡を残さないポグロムの扇動」もアインザッツグルッペンの任務の一つなのです。

pogrom-lviv-07-1941.jpg

本書はこのように1941年のソ連侵攻から始まるわけですが、疑問に感じる方もいるでしょう。
ホロコーストを記述するなら、1935年に制定された悪法である「ニュルンベルク法」や、
1938年に起きた「水晶の夜事件」、翌年のポーランド侵攻に伴う「ワルシャワ・ゲットー」など、
ホロコーストの前段階とも呼べるこれ等については、単に「ポグロム」としているようです。
ドイツ国内におけるユダヤ人迫害(ポグロム)から、
戦争の拡大によるユダヤ人虐殺(ホロコースト)とを別けて考えているように思いました。

7月30日、ヒムラーはプリピャチ沼沢地域に対する命令をバッハ=ツェレウスキに下します。
そしてこの命令は2個SS騎兵連隊騎馬隊へと伝えられるのです。
「SS国家長官の断固とした命令である。ユダヤ人の男を全員射殺せよ。女は沼へ追い込め」。

Russland,_SS-Kavallerie-Brigade.jpg

第2連隊は命令に従ったものの、第1連隊のやり方は苛烈を極め、
通過した村々に住むユダヤ人全員、女子供も無差別に、機関銃で掃射していくのでした。
このSS騎兵連隊騎馬隊を率いるのは、後のエヴァ・ブラウンの義弟、フェーゲラインです。

Hermann Fegelein.jpg

この時から遂にユダヤ人は男性だけでなく、無差別に殺害されていくことになるわけですが、
リトアニア人の警察志願兵大隊将校で銃撃手だったマレクサナスはこう語ります。
「子供だけは守ろうと、親が子供を腕の中で庇っていることがよくありました。
それで子供がいっそう苦しむことになるとは、その親たちにはわからなかったのです。
射殺できなかった子供は、穴の中で親の身体の下敷きになり、結局は窒息死するのですから。
私はいつも確実に死なせるため、星の付いた部分、正確に心臓を狙うようつとめました」。
まだまだアインザッツグルッペンを中心とした人間狩りは、
バービ・ヤール」の大殺戮などへと続きます。

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87ページから第2章、「決定」です。
ヒトラーが署名したホロコーストの命令書は存在しない・・ということはよく言われており、
本書でも口頭で伝えられたり、暗示であったり、或いは同意を示すうなずきであったり・・と表現。
そして「最終的解決」に向けての全権を1941年7月に与えられたハイドリヒ。
1942年1月に、「ヴァンゼー会議」を開き、ユダヤ人絶滅について協議。

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しかしこのホロコーストの頂点に君臨したのはヒムラーです。
ミンスクで行われた100名の処刑に立ち会ったヒムラー。
この後、バッハ=ツェレウスキはこう訴えたそうです。
「この者たちの神経は、もはや残りの人生に耐えられません。
我々はここで神経症患者や無法者を育成しているのです!」

Erich von dem Bach-Zelewski.jpg

ドイツ本土のユダヤ人は「最終的勝利」を収めた後に移送されることになっていましたが、
ソ連がヴォルガ=ドイツ人40万人をシベリア送りにするということが判明すると、
東方占領相ローゼンベルクが「中央ヨーロッパのユダヤ人も可能な限り東の果てへ」と考え、
ハンブルクが爆撃されて600人の市民が焼け出されると、ガウライターのカウフマンは、
「ユダヤ人を移送して、焼け出された人々に住居を与えて欲しい」とヒトラーに訴えます。

個人的には、独ソ戦は軍事的に、ホロコーストは政治的政策として切り分けて考えていましたが、
本書ではモスクワ攻略に失敗したヒトラーが、その責任をすべてのユダヤ人に押し付け、
ホロコーストを加速させていった・・という見解です。
いわゆる絶滅戦争にシフトした感じですが、こうなると切り分けて考えることは不可能ですね。

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虐殺行為が加害者にかける負担を軽減することの必要性を感じたヒムラーは、
効率的かつ加害者の神経をいたわるような殺害方法をアルトゥール・ネーベに委託。
ネーベの下には刑事犯罪技術研究所が従い、すでに「安楽死(T4作戦)」の開発を行うなど、
その創造性は折り紙つきなのです。
早速、精神病患者20名を地下壕に閉じ込めて爆殺を試みるも、生き残った者がいたため失敗。
今度は大量の爆薬を使用して成功するものの、バラバラになった死体が飛び散り・・。

やがて研究は進み、「ガス・トラック」へと形を変えるのです。
それでも荷台中の排気ガス濃度が致死量に達するまで時間がかかり、
断末魔の苦しみは15分以上続き、凄まじい叫び声が運転席にまで届いてしまうのです。
部下に与える苦痛を軽減したいと目論むヒムラーの願いも虚しく・・。

hans frank_himmler.jpg

第3章は「ゲットー」。
ポーランドのウッジ・ゲットー、ドイツ語ではリッツマンシュタットと呼びますが、
この人で溢れかえっていたゲットーにウィーン、プラハから5000人づつ、
その他ベルリン、フランクフルトなどから、〆て25000人のユダヤ人が新たにやって来ます。

rad0b.jpg

彼らの家はすでに当局が家財・家具ごと押収しており、そこには事務的な規定が・・。
真っ先に財務行政機関がやって来て、机や書棚、絨毯に椅子などを差し押さえ、
価格の低い物は「国家社会主義国民福祉協会(NSV)」が引き継いで、慈善事業に回すのです。
有価証券は帝国中央金庫が、ミシンはゲットーの管理部が軍服製造のために引き受け、
切手コレクションはどこどこ、書籍類はドコドコと役所の取り決めがあるものの、
実際には値打ちある物はゲシュタポに確保されてしまっていることが多く、
獲物の分配を巡って熾烈な競争が行われるのです。

下はそんな「NSV」のポスターです。
福祉うんぬんだけあって、爽やかなSA少尉とSS軍曹の顔が印象的ですね。

Nationalsozialistische Volkswohlfahrt poster.jpg

このように多くの所有物を残してきたままゲットーに到着しても、少ない手荷物も没収されたり、
食料配給と引換えに取り立てられ、さらにはわざわざ「ゲットー通貨」まで導入されているのです。
そして17万人が暮らすこのゲットーで赤痢が大流行すると、4万人もが命を落とします。

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ヴァンゼー会議の結果を受けて、ウッジ・ゲットーから2万人が「移住」させられることに・・。
選抜するのはゲットー内の「ユダヤ人評議会」、ユダヤ人警察、裁判所などの各責任者です。
特に今回は対象者が65歳以上の老人に加え、10歳未満の子供たち。。
管理部職員や警官、消防署員の子供は除外して、その彼らが1軒1軒しらみつぶしに捜索。
当然、親は子供を隠したりと、ユダヤ人がユダヤ人に悪魔の手を差し伸べ、
労働力にならない老人と子供たちを移送先で待っているものはひとつしかないのです・・。

重要人物と迫害されるユダヤ人の白黒写真が多く掲載されている本書ですが、
下 ↓ の写真はキャプションによると、「ウッジ・ゲットーで食糧配給を待つ子供たち」。

Ghetto Litzmannstadt children.jpg

ゲットーのユダヤ人警察っていうのは、「戦場のピアニスト」にも出てきたかも知れませんが、
まぁ、難しい立場ですねぇ。
人道的な警官もいたでしょうが、特別なバッチを付けた制帽をかぶり、
腕章を付けて威張りくさっていたナチスの犬の如き若造なんかもいたんじゃないかと思います。
ホロコーストを語るとき、ナチス=悪、ユダヤ人=善という図式になるのは当然だと思いますが、
ナチスにも善人はいるし、ウッジ・ゲットーにいる17万のユダヤ人に中にも悪人はいるでしょう。

Jewish_Ghetto_Police_Arm_Band.jpg

ちょうど半分まで来ました。第4章は「虐殺工場」です。
この章タイトルでおわかりのように、「アウシュヴィッツ」を中心とした絶滅収容所の様子。
1941年9月6日、600名のソ連軍捕虜と300名の病気の囚人が人体実験の犠牲になります。
それは初めて「チクロンB」を使用した大量ガス殺人が成功したということです。
これで殺しがより迅速に、かつ安価になったばかりでなく、より「人道的」になったのです。

所長のルドルフ・ヘースは語ります。
「白状すると、わたしはガス殺に安堵の息をついた。
いずれ近いうちにユダヤ人の大虐殺を始めなければならない。
わたしはいつも銃殺には震え上がっていた。でも、もう安心だ。
これで我々は皆、血の海を見なくても済むのだ」。

ツィクロンB.jpg

1940年の4月にテオドール・アイケの教え子、SS大尉ヘースがアウシュヴィッツに到着したころ、
ここへ送られてきた最初の囚人はザクセンハウゼン強制収容所の刑事犯30名なり・・。
彼らは殺されるために送られてきたのではなく、監督囚人、すなわち「カポ」として、
収容所ブロックや房の古参として、他の囚人を監督するのが任務なのです。
肉体労働の義務すらなく、良い食事に革の長靴、特別仕立ての囚人服を身にまとい、
ポーランドからやって来た囚人らを怒鳴り、殴り、蹴りながらバラックへと追い立てるのです。

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このような「カポ」システムっていうのはアウシュヴィッツだけでなく、大抵の収容所でも行われ、
ドイツ人カポの場合もあれば、ユダヤ人カポだったりするんですね。
ですから被収容者からしてみれば、直接手を出してくる外道はカポ、
その上にウクライナ人などの外国人看守、次にドイツ人SS軍曹といった看守長、
最後にSS大尉、またはSS少佐の階級で君臨する所長となるわけで、
この収容所階級社会から見れば、末端の囚人は所長を王様のように感じたことでしょう。
ちなみにカポの腕章もいろいろありますが、カポリーダーというか上級カポもいたようてす。

Oberkapo_-_Armbinde.jpg

1942年になると連日のように、ヨーロッパ全土から数千人が到着します。
アイヒマンの移送計画はアウシュヴィッツだけでなく、トレブリンカ、マイダネク、ゾビボルなど、
計6か所の絶滅収容所に及び、そのガス殺~焼却までの流れ作業も効率化。
本書ではガス室から焼却作業に従事したユダヤ人「ゾンダーコマンド」の回想も挿入しつつ、
私はガス室の「特殊任務」をしていた」からも抜粋していますから、細かい手順は今回、割愛・・。
それから「死の天使」メンゲレも当然、出てきます。でもコレもゲスい人体実験なので割愛・・。

その他、著名な人物としては「ナチ・ハンター」サイモン・ヴィーゼンタールの証言、
イタリア人、プリーモ・レーヴィの回想が随所に登場。
そういえば、プリーモ・レーヴィ著の「休戦」を以前からチェックしていたのを思い出しました。



第5章は「抵抗」。
1943年1月、「ワルシャワ・ゲットー」に8000人の移送命令が下ると、
これまで確実に命令を遂行してきたユダヤ人警官も今度ばかりは協力を拒みます。
自分が最低5人を引き渡さなかった場合、次に移送されるのは自分の家族だ・・
ということを承知しているにもかかわらずです。
このような反抗的態度は4月に始まった「ワルシャワ・ゲットー蜂起」へと繋がっていくのです。

Der-Pianist Jewish ghetto Polizei.jpg

ポーランドの総督ハンス・フランクはベルリンへ状況を大袈裟に報告します。
「この組織的な蜂起と戦うには重砲を動員しなければならない。
ドイツ軍兵士に対する殺戮が恐ろしい勢いで進行している」。
そしてSS指揮官シュトロープがゲットーに火を放ち、廃墟にしていくのでした。

Das Ghetto wurde teilweise mit Flammwerfertrupps in Brand gesteckt.jpg

また、1942年5月には地下の抵抗運動組織によって英国に情報がもたらされ、BBCが報道。
翌月には「デイリー・テレグラフ」紙がホロコーストを記事にし、西側社会に広まります。
「史上最大の大虐殺により、70万人を超えるユダヤ人が殺戮された」。
しかし、外務省の専門化たちも新聞社のトップも、このあまりの人数の多さに内心では、
ユダヤ人が拡張しているのだろう・・と考えていたとします。
それでも実際はこの時点での犠牲者数は、ゆうに2倍になっていたと。。
確かにゲーリングも戦後、「あの数字はあり得ないと思った」と語ってましたねぇ。

Libau execution 1941.jpg

11月には新たな証人がロンドンに到着します。非ユダヤ人の彼の名はヤン・カルスキ。
ポーランド亡命政府のエージェントとして、占領下のポーランドに3年間潜伏した彼は、
ウクライナ兵士の軍服を着てルブリンの収容所に潜入したりと、逮捕、尋問、脱走という
修羅場を何度となく、くぐり抜けてきた人物なのです。
本書に掲載されている彼の写真を見て、すぐにピンときました。
2012年に出た、「私はホロコーストを見た: 黙殺された世紀の証言1939-43」の著者ですね。
いや~、そういうことなら読んでみようかなぁ。



ユダヤ人組織の代表者たちは外部から救援を組織しようと努力しますが徒労に終わります。
ローマ教皇に働きかけようとしても、ピウス12世は新ドイツ派であり、
正面切ってヒトラーに対抗するつもりはなく、また、カトリックの因習的な反ユダヤ主義も・・。

もうひとつドイツ国内で道義的中心となるべき機関はドイツ赤十字(DRK)です。
しかしナチスに「同質化」されていたこの機関に期待するのはお門違いであり、
事務局長はSS大将エルンスト・グラヴィッツ医学博士で、「T4作戦」では
精神障害者の殺害を自ら買って出た「SS国家医師」なのです。
それにしてもこの人の名前で、「手榴弾2個」をイメージした方はマニアですねぇ。
ヒトラー 最期の12日間」で、ベルリンからの退去を許されず、家族もろとも自爆したあの人です。

DRK-Geschaeftsfuehrer Grawitz.jpg

ユダヤ人を守った人物としてオスカー・シンドラーや、アプヴェーアのハンス・オスターらも紹介。
カナリス提督シュテルプナーゲル将軍トレスコウシュタウフェンベルクらも取り上げ、
彼らの過去の反ユダヤ主義的発言を踏まえたうえで、
1944年のヒトラー暗殺計画へと進んでいった経緯についても検証します。
関与者にはクリポ局長で、アインザッツグルッペンの隊長を務めたネーベも含まれるのです。

ただ個人的には国家元帥ゲーリングの弟、アルベルト・ゲーリングの話が印象的でした。
リスボン経由で脱出するユダヤ人のための資金を準備したり、
ハイドリヒに働きかけてチェコの抵抗活動家をプラハのゲシュタポ監獄から釈放させたり・・。

Hermann_Albert göring.jpg

最終章は「解放」。
1944年4月になって、アイヒマンはいまだ非ユダヤ化されていないハンガリーに手を伸ばします。
一日あたり1万4000人にのぼるハンガリー・ユダヤ人が故郷を追われ、アウシュヴィッツへ直行。
3ヵ月間で43万人の強制輸送をやってのけると、所長を退任していたヘースが
最後の大仕事をやり遂げるため、アウシュヴィッツにカムバック。。

Zug.jpg

しかし、連合軍がノルマンディに上陸し、ブダペストが空爆され、ルーズヴェルト大統領が
「この蛮行に加担した人間は、1人として刑を逃れることは出来ない」と宣言すると、
ホルティは保身のためにユダヤ人の輸送停止を命令し、それに激怒するアイヒマン。
そして10月、ハンガリーのファシスト、「矢十字党」がクーデターを起こし、ホルティは失脚。
ブダペストに戻って来たアイヒマンはユダヤ人指導者に冷酷に告げます。
「どうだね。わたしはまた帰って来たぞ」。

この部分は早い話、「パンツァーファウスト作戦」のことですね。
本書では触れられていませんが、並行してスコルツェニーがホルティの息子を誘拐したり・・と、
有名な話ですが、今回は「矢十字党」に興味をそそられました。

Arrow Cross Party.jpg

1945年1月、アウシュヴィッツはとうに絶滅作業を終了し、東から迫るソ連軍から逃れるため、
9000人の病人を残して、5万人が西へ向かいます。
痩せ衰え、消耗しきった囚人たちは雪と寒さのなかバタバタと倒れては監視兵が射殺。

death marchs 1945.jpg

苦しい旅の果てにようやく辿り着いたのは ベルゲン・ベルゼン強制収容所
いまや看守の暴力も、ガス室も、銃殺も行われないここで、ただ朽ち果てるのみ・・。
アンネ・フランクも若い命を落とした、この不衛生な強制収容所。
監視兵が仕事を放棄した結果、囚人医師が戦後証言したところによると、
仲間の死体を食べるカニバリズムが、少なくとも200件あったということです。

本書ではこのあたり、痩せ細った死体の山の写真が多くなってきますが、
一番印象に残ったのは、「ベルゲン・ベルゼン解放後、仲間の死体の前で食事をする女性たち」。

Bergen-Belsen 1945.jpg

ダッハウでは解放された収容者の歓声が、午後には野蛮な無政府状態へと変化。
怒りに任せて監視兵に襲い掛かる囚人たち。
米兵がSS看守をまとめて銃殺しただけでなく、囚人服を着て変装したり、身を隠した看守も
あちこちで正体を暴かれて、その場でリンチ。身体が裂け、内臓がはみ出るほど激しく・・。
米軍の従軍ラビはこう書き記します。
「1人の痩せ細った囚人が、死んで硬直した監視兵の顔に小便をかけていた」。

Dead SS soldier and another man at Dachau.jpg

気の良いGIは、あちこちで囚人にコンビーフやチョコレートを配って回ります。
しかし極度の脱水症状を起こしていた彼らの身体は、大量のカロリー摂取に耐えきれず、
数百人が命を落としてしまうのです。う~ん。ヨーロッパ中で起こった話ですね。

最後にアイヒマンは1960年に発見され、メンゲレは捕まらずに1979年に溺死。
所長のヘースは1947年、アウシュヴィッツの敷地内で絞首刑に処せられます。

Hoess.jpg

2007年に本書のドイツTVシリーズ版がDVDになって発売されていました。
6枚組のDVD-BOXで、各章ごとに1枚になっているようですね。
タイトルは「ヒトラーとホロコースト -アウシュビッツ」、計300分の大作です。
ヒストリー・チャンネルで放送したかなぁ??



単純なホロコーストものでは、極悪非道のナチス、その首領ヒトラー、
悪魔の所業を推進した子分ヒムラーと、進んで命令に従ったヘースやアイヒマン・・といった
加害者側と、生き残った被害者ユダヤ人の回想という構成が多いですが、
本書はこのように加害者側にも様々な考えを持った人間がおり、
それは敗戦へと向かって行く過程で起こす行動にも変化が見られます。

Holocaust.jpg

また、中立の人間、一般のドイツ市民やナチス占領地の市民が何を考えていたのか??
と、幅広い証言からも成り立っています。
見て見ぬ振りをしたことが、ホロコーストに加担したことになるのか、
ユダヤ人がスウェーデンに逃亡するのを助けたデンマーク漁船の漁師たちが
大金をはずんでもらったことが、恥ずべき行為なのか、
こういった複数のケースに、単純に善悪では切り分けられない問題の難しさも認識しました。
もっと早く、3年前にでも読んでおけばよかった・・と後悔する一冊でした。
そうか。今年は「アウシュヴィッツ解放70周年」だから読もうと思ったのか・・。












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