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わが闘争 〈上〉Ⅰ 民族主義的世界観 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アドルフ・ヒトラー著の「わが闘争 〈上〉」を読破しました。

ナチス関連本を読み倒すという特異なBlogなのに、一番有名な本を紹介していませんでした。
忘れていたわけではなく、再読するのが面倒くさかったという理由でもなく、
単に、あまり興味がなかったからです。
本書が日本でも発刊された経緯については以前に「第三帝国の興亡〈1〉」で書きましたから、
そちらを参照していただくとして、今回、ようやく読んでみようという気になったのは、
「独破戦線」の最終回としてはちょうど良いかな・・と思ったからなのです。

わが闘争 上.jpg

本場ドイツで本書が発刊された経緯を簡単に整理すると、
1923年に「ミュンヘン一揆」が失敗に終わり、ランツベルク刑務所に収監されたヒトラーが
モーリスヘスを相手に口述して編集されたものが1925年に出版されます。
第1巻と第2巻から成り、発売当初の売り上げは数千部というもの・・。
しかし1930年代~ドイツの総統になるにつれて売り上げはうなぎ登りとなり、
結婚式には付き物といった具合で、まさに一家に一冊となっていくのです。

当初、ヒトラーが考えたのは「虚偽、愚行そして臆病に対する4 1/2年の闘争」という
長ったらしいタイトルだったというのも知られていますが、
そこからもわかるように第1次大戦後に政治家を志したヒトラーですから、
本書の執筆当時は、ミュンヘンの地方政党で4年そこそこの政治経験があるに過ぎない、
30代半ばのオーストリア人が獄中で書いた本だということです。

1925_AH_MK_1st_Edition.jpg

後年、ヒトラーはこの「わが闘争」については多くを語らなかった印象を持っていますが、
常識的に考えれば、それも当然と言えるでしょう。
例えば、1944年になっても同じことを語っていたとすれば、
20年間、政治家として成長していないと証明しているようなものですし、
若気の至りだと感じている部分もあったのではないかと思います。

25歳の方が中学生時代の卒業文集を読み返して、恥ずかしかったり、
40代の課長の方が最初に手掛けたプロジェクトの企画書を見たら恥ずかしいと思うのと同じく、
もし、若い頃の自分が書いたものを読んで恥ずかしくならないなら、
その人はまったく成長していないと言われてもしょうがありません。
ヴィトゲンシュタインも5年前の記事を読めば、やっぱり恥ずかしくなります。

ということで、本書の内容についてはWIKIはおろか、Amazonのレビューも見ておらず、
研究本に研究サイトも完全無視した状態ですので、
ひょっとしたら、とんでもなく変な解釈や誤解をしてしまうかもしれませんが、
そこそこヒトラーを勉強してきた読書好きの日本人という立場で、
この若きヒトラーの思いが書かれた本に挑みます。

mein kampf 1925.jpg

まず、「序言」では、ランツベルク刑務所に収監されたことを契機に本書に取り掛かったことと、
その目的について簡単に述べています。
「わたしは二巻の書において、われわれの運動の目標を明らかにするだけでなく、
われわれの運動の発展の姿をも記そうと決心した。
さらにわたし自身の生い立ちを、第一巻と第二巻の理解に必要であり、
またユダヤ新聞がつくりあげた、わたし個人に関する不当な伝説を破壊するのに
役立つ限り、述べておいた」。

1920 in Munich’s Hofbräuhaus, Adolf Hitler.jpg

この上巻は副題が「Ⅰ 民族主義的世界観」となっており、その第1章は「生家にて」。
ドイツとの境に位置するオーストリアのブラウナウが生誕の地であることを述べると、
それが運命であり、「幸運のさだめ」だとし、いきなりアンシュルスを力説します。

「ドイツ・オーストリアは、母国大ドイツに復帰しなければならない。
しかもそれはなんらかの経済的考量によるものではない。
そうだ、そうだ。たといこの合併が、むしろ有害でさえあっても、
なおかつこの合併はなされなければならない。
同一の血は共通の国家に属する。
ドイツ民族は自分の息子たちを共通の国家に包括することすらできない限り、
植民政策の活動への道徳的権利を持ちえない。
ドイツ国の領域が、ドイツ人の最後の一人に至るまでも収容し、
かれらの食糧をもはや確保し得なくなったときにはじめて、
自国民の困窮という理由から、国外領土を獲得する道徳的権利が生ずるのである」。

う~む、1ページ目から、コレは予言的ですね。
1938年に語ったことならまだしも、その14年も前からオーストリア併合、
ズデーテンラント、ポーランド、ロシア侵攻を夢見ている気すらします。

Anschluss.jpg

そして子供時代の出来事に触れ、「両親の死」については、
「わたしは父を尊敬していたが、母を愛したのだった」。

「図工兼水彩画家」となってウィーンでの生活。
それと同時に、「わたしは多くを読み、そして学んだ」として、「読書法」を解説します。
独破戦線的にも興味深いですね。ちょっと抜粋しましょう。

「際限もなく多く読む人、一冊一冊、一字一句読む人々をわたしは知っている。
けれどもかれ彼らを『博識』ということはできない。
彼らもちろん多量の『知識』を持っている。
だが彼らの頭脳は、自分に取り入れたこの材料を分類したり、整理することを知らない。
彼らには自分にとって価値あるものと価値なきものを選別する技術に欠け、
その上、読書というものは、それ自身目的ではなく、目的のための手段である」。

hitler Landsberg 1924.jpg

本書にはかなりの箇所に注釈があり、巻末にまとめられていますが、
このヒトラーが「多くを読んだ」ことについては、ヒトラーが一冊もまともな本の名を
挙げていないことから、系統的な勉強はしていなかったという説を裏付けている・・としています。

巨大な都市、ウィーンの中心部を歩き回っていると、
「突然、長いカフタンを着た、黒い縮れ毛の人間と出くわした。
これもユダヤ人だろうか?
リンツではそんな外見をしていなかった。わたしは密かに注意深く観察した。
これもまたドイツ人だろうか?
その後わたしは汚い衣服の臭気で、気持ちが悪くなった」。

Jüdisches Leben in Wien_1915.jpg

このような生理的嫌悪感からユダヤ人嫌いが始まり、彼らについて学んでいったようです。
「淫売制度と少女売春に対するユダヤ人の関係さえも、
ウィーンではよく研究することができた。
ユダヤ人が、大都市の廃物たるこの憎むべき淫売業の、厚顔無恥な仕事をしている
支配人であることをはじめて見た時、背筋がかすかにゾッとするのを覚えた。
だが、次には憤慨した」。

政治に興味を持ち始め、ギリシャ風の壮麗なオーストリア議会を訪問するも、
議場はがら空き、あくびをしたり眠っている議員、副議長は退屈そう・・という光景にまたも憤慨。
ふ~む。。確かに議場で睡眠をむさぼっている人って、どの時代にもいますねぇ。

バイエルンに移ると第1次大戦が始まり、連隊へ志願。
東部戦線の状況をこのように解説します。
「3年間、東部のドイツ軍はロシアを攻撃した。
初めはほんの少しの成果さえもなかったように思えた。
結局、人間の数が多い大男ロシアが勝利者であるに違いなかった。
そしてドイツは出血して倒れるのだ」。

いや~、事実はそうはならないわけですが、1945年にはそうなるんですね。

Hitler+Germans-in-hospital-1916.jpg

ガス中毒となって戦後を迎え、上官の命令により「ドイツ労働者党」なる政治団体の調査へ。
フェーダーやドレクスラーが登場しますが、ほとんど「劇画ヒットラー」の雰囲気です。。
「ひどい、ひどい。これは確かに最もひどいインチキ団体だ」。

しかし、なんだかんだと悩み抜いた末、この綱領も、印刷物も何もない、
ヘボ団体に入党してしまったヒトラー。
とりあえずは宣伝担当です。

Two of Adolf Hitler's documents.jpg

新聞の読者を3つのグループに分けて詳しく解説します。
第1のグループは数字の上からは、桁外れの最大グループであり、
それは「読んだものを全部信じる人々」です。すなわち一般大衆ですね。
第2グループは「もはやまったく信じない人々」であり、ごく少数派。
第3には「読んだものを批判的に吟味し、その後で判定する頭脳をもつ人々」。

そして「大衆の投票用紙があらゆることに判決を下す今日では、
決定的な価値は最大多数グループにあり、これこそ第1のグループ、
つまり愚鈍な人々、あるいは軽信者の群集なのである」とします。

hitler_1921.jpg

また、ポスターを含む宣伝方法についても別に述べていて、
「宣伝は大衆的であるべきであり、その知的水準は、最低級の者がわかる程度にすべきで、
それゆえ、獲得すべき大衆の多くなれば多くなるほど、
純粋の知的高度はますます低くしなければならない。
余計なものが少なければ少ないほど、
そしてそれが大衆の感情をいっそう考慮すればするほど、効果はますます的確になる」。

GermanyIsFree.jpg

言いたくないですけど、正直、耳が痛いですね。
個人的には第3グループでありたいと思いますが、今の日本でも、
ネットに流れるいい加減なニュースをすぐさま鵜呑みにして拡散してみたり、
それがデマだと解ると、今度は「マスゴミ」と逆ギレして吊し上げる。。
選挙では政策よりも、「人柄が良さそう」、「若くて誠実そう」といった見た目で投票。
このような第1グループが相変わらず多いことに、ヒトラーは笑っていることでしょう。

Hitler-in-Shorts-in-The-Late-1920s.jpg

「われわれの愛を汚す売春」と、再び、この問題を取り上げます。
それは結核と同様に健康上の毒化である恐ろしい「梅毒」がテーマ。
一民族を滅亡させかねない深刻な害悪であるとして、
不治の病人の隔離、断種・・と、後の政策、最終的な「T4作戦」にも繋がりそうです。

古代ローマの円形競技場コロッセオに、古代ギリシャのパルテノン神殿の名が出てくると、
将来、ベルリンの子供たちが、「われわれの時代のもっとも巨大な工事として、
2~3のユダヤ人がもつ百貨店や、いくつかのホテルを挙げて驚愕するだろう」。
こうなると、あの「ゲルマニア計画」を夢想しているのは当然の如くです。

Albert Speer's planned capitol building for Germania.jpg

12章から成る本書の第11章「民族と人種」になって、あの「アーリア人種」が出てきました。
「アーリア人種は、その輝く額からは、いかなる時代にも常に天才の神的なひらめきが飛び出し、
沈黙する神秘の夜に灯をともした人類のプロメテウスである」。
なんだか良くわかりませんけれど、注釈でも書かれているように、
アーリア人種とはナチズムでは、ユダヤ人との区別で用いることが多いようで、
本書の場合も、ユダヤ人以外のヨーロッパ人(スラブ民族を除く)を指しているように感じます。
ですから、イメージにあるような金髪碧眼の北方人種である必要はなく、
ヒトラーを筆頭としたナチ党指導者の風貌でも、立派なアーリア人種なんでしょう。

Himmler,Goebbels,Schaub,Göring,Hitler in 1925.jpg

そして定住地も独自文化も持たないユダヤ人が寄生虫のように入り込み、
混血されていく・・という、いつもの陰謀論をこれでもかと展開するのでした。
また、以前からヒトラーが"ソ連=ユダヤ"と考えている節があるのを疑問に思っていましたが、
カール・マルクスがユダヤ人であることを本書で強調していることから、
そのマルクス主義(共産主義)者たるもの、ユダヤ人である・・という単純なことかも知れません。
或いは共産主義の首領レーニンがユダヤ系であることかも・・。

Jewish conspiracy propaganda poster.jpg

途中で2ヵ所、日本海軍や日本の文化にも独特の解釈で語っていますが、
最後の章では英国についてこのように述べています。
「イギリス国民は、かれらの指導者層と大衆の精神の中に、
一度開始された戦いは時間と犠牲を無視し、あらゆる手段を用いて
最後の勝利まで貫き通そうと決心しているあの野蛮さと粘り強さが期待される限り、
世界で一番貴重な同盟仲間であるとみなさなければならぬだろう」。

まぁ、この頃から良くわかってたんですねぇ。

Hitler_early.jpg

地方の政治団体でしかない、ナチスの運動の将来も語ります。
「この若い運動はその本質および内部の組織からして、反議会主義である。
つまり多数決の原理を拒否する。
というのは、この原理では指導者はただ他人の意志と意見の執行者に
下落してしまうからである。この運動は、事の大小を問わず、
最高の責任と結合された無条件の指導者権威の原則を主張する」。

指導者たるもの、究極のもっとも重大な責任を担うのであり、
そうしたことのできない臆病者や、責任を持てない者はその値打ちが無いと力説。
そしてこう締め括ります。
「運動が議会制度に参加するのでさえ、
ただそれを破壊するための活動という意味しか持たない」。

reichstag-1933.jpg

一応、選挙によって首相となり、「国会議事堂放火事件」の下手人は不明だとしても、
焼けたライヒスタークも修復せず、クロールオペラハウスで全権委任法が承認された・・
ということで、コレも確かに実践しましたか・・。

Krolloper hitler.jpg

予想どおり、冗長で、思いついたことを次から次へと口述している感じです。
まぁ、監獄で時間を持て余していることもあり、自分の考えを整理している風にも思えます。
この上巻554ページ、途中6回ほど落ちました。。下巻も頑張ろう・・!



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スカパ・フローへの道 ギュンター・プリーン回想録 [Uボート]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ギュンター・プリーン著の「スカパ・フローへの道」を読破しました。

プリーン艦長のU-47が英国戦艦ロイヤルオークを撃沈した話は、
「独破戦線」初のUボート本、「Uボート、出撃せよ」で紹介しましたが、
2009年5月という遠い昔のことであり、いま読み返してみてもなんだか良くわからないという
かなり酷いレビューです。。
本書は2001年に出た336ページの一冊で、気が付いた時には絶版かつ、
プレミア価格になっていたということもあって、スッカリ忘れていました。
しかし、つい最近、よくお邪魔するBlogでプリーンとスカパ・フロー・ネタが
投下されたことで思い出しました。
定価3600円のところ、古書価格も1600円に下がっていたので、迷わず購入です。

スカパ・フローへの道.jpg

まず、本書の特異性についてちょっと説明しましょう。
amazonでは商品の説明に、「94年名取書店刊「Uボート」の改題。」と書かれていますが、
これは「1994年」ではなく、「1941年」の間違いです。
本書の巻末には「一九四一年名取書店より・・」と明記されていますので、
漢数字の"一"を、"-(ハイフン)"と認識してしまったんでしょう。
プリーン自身は1941年に戦死しているわけですから、原著も1940年に書かれたものであり、
また、その内容もプロパガンダ色が強く、もっと言えばゴーストライター説も根強い、
かなり怪しげな一冊としても知られています。
そんなこともあって、本書の存在を忘れていたんですが、
今回は敢えて、それらのこと・・・
ゲッベルスの日記」に収められていた、「勝利の日記」のような当時のナチス・プロパガンダ本・・・
を踏まえたうえで、楽しんでみたいと思います。

GntherPrien-Hoffmann.jpg

第1章は「海へ、海へ」。
1923年のライプツィヒでのプリーン少年の生活の様子です。
母親の内職の手伝いをして、お小遣い稼ぎの日々。
部屋には「海の英雄では彼が一番好きだ」というヴァスコ・ダ・ガマの肖像画が一枚・・。
プリーンは1908年生まれですから、このとき15歳ですね。

Vasco da Gama.jpg

苦しい家計を助けるため、そして海への憧れから海員養成所へと進み、
帆船ハンブルク号の見習い水夫となります。
乗船して4日目、ハンブルクを出航。
乗組員一同は陸の方を並んで見つめ、「聖パウリに三唱」と叫んで万歳三唱が・・。
「女たち、しばしの別れだ」と言われても、プリーン少年にはなんのことやら。。
訳注にあるんですが、これはハンブルクの歓楽街、ザンクト・パウリのことなんですね。

航海中は、牛乳も出さずに評判の悪いケチな料理番が自分だけはコッソリと・・、
というわけで皆の怒りが爆発します。
「バルケンホルめ、狡猾な豚・・ユダヤ人め、犬みてえに袋叩きにしちまえ」。

船長は船長で、「シァーデ君、ひとつ積荷の方を見て下しゃらんか。
此の様子では多分、小麦粉の袋を移す必要があると思うのでしゅが・・」。
と、なんとも甘ったるい調子で喋ります。
これは、「Sの発音が少し強い」ことを日本語で表現してるんですね。
そして料理番を任されたプリーン少年・・、先輩からは「プリ公」と呼ばれていますが、
張り切り過ぎて大失敗。全員が食中毒という大騒ぎで、艦長も激怒。
「此処から出て行きなしゃい! また元の通り働くのでしゅ。見張り番じゃ!」

hamburg.jpg

ハンブルク号はダブリンで難破。
しかしダブリン港に上陸するとアイルランド人は大歓迎します。
彼らに言わせれば、「英国人の敵は、みな自分の友人」なのです。

ハンブルクへ戻ると、今度は貨物船プファルツブルク号に乗船。
「波止場破落戸」と呼ばれる巨漢の先輩水夫との決闘・・。
破落戸と書いて、ゴロツキと読むんですね。
巻頭で「旧字は新字に直しました」などとありましたが、
基本的には昭和16年の文章と漢字そのままで、感心したりも・・。

続いて旅客船サンフランシスコ号の4等航海士となりますが、
見張りの際に、カールスルーエ号と衝突。。
海難審判庁に出頭し、あわや免許が取り上げられそうな絶体絶命も、
ブッツラー1等航海士の助けもあって、ギリギリ・セーフ。

A twenty-one year old Günther Prien (at left) with First Officer Bussler, aboard the liner San Francisco in 1929..jpg

遠洋航海の船長試験にめでたく合格したものの、時は1932年の失業時代。
どこの汽船会社も雇ってはくれず、文無しとなって失望の日々・・。
この失業地獄から抜け出すために決心する24歳のプリーン。
「その日以来、僕はナチス運動の一員となった」。

特にナチ党員になったとは書かれていませんが、労働奉仕団(RAD)に志願し、
とりあえず、衣食住は保障されます。
新米ながらも皆よりも年長のために、すぐさま同志指導者、部隊指導者へと昇進。
盗みを働いた団員を秩序を守るために追放することで、反対派の仲間たちと大揉めに。。
そんなとき、海軍の士官候補者補充の通知を受け取り、喜び勇んで海軍へ。
1933年の1月、まさにヒトラーが首相となったときです。

ここまで全12章のうち、7章。半分の170ページが過ぎましたが、
ハードカバーとはいえ、上部に無駄な余白はあるわ、字も大きいわ、
嬉しいことに、所々で写真も掲載されているわ・・と、2時間ほどで読めてしまいます。

Prien-1.jpg

第8章は「潜水艦乗り組み修業の始まり」。
キール軍港のUボート学校へ入学させられ、U-3に乗り込んで実習。
このU-3については、訳注でも書かれていますが、1933年時点ではまだ、
ドイツ海軍はUボートを保有しておらず、フィンランドで建造された練習艦では・・
と、推測しています。確かにU-3は1935年の建造ですし、
あのヴィディゲンが乗った第1次大戦のU-3も、1919年に廃艦となっています。
まぁ、この当時は書いて良いことと悪いことがあるでしょうね。

実習が終わると、1936年に新造されたU-26の先任将校に任命されます。
艦長は、「剃刀の如くきれる男」と云われているハルトマン大尉。
「プリーン少尉、U-26勤務を拝命したことを申告いたします」。
「では君だね。わしは待ちかねておった」。

このハルトマン艦長。実はプリーンよりわずか6歳年長なだけの34歳です。
日本の古いドイツ軍戦記を読むと、艦長や将軍となると年齢に関係なく、
「わしは・・」とおじいちゃん言葉になるのが面白いですね。
シュタインホフの回想録でも、プリーンより4歳も若いガーランド将軍が、
やっぱり「わしは・・」とやってて、笑いましたっけ・・。

Werner Hartmann u26.jpg

U-26は、「スペイン方面に出動だ」と、大急ぎで出航。コレは「スペイン内戦」ですね。
フランコ将軍の軍艦2隻と遭遇しますが、こちらへその砲口を向けています。
「我々を人民戦線政府の艦と間違えておるわい」と語る艦長。

かくして1938年秋、海軍中尉プリーンは、Uボート艦長に任命されます。
先任将校のエントラースら、乗組員についても触れられていますが、
肝心要の「U-47」の文字が本文中には一切ありません。
戦時中の秘密事項なんですね。

U-47etU-46pendantlt1939.jpg

そして1939年9月3日、司令塔にいたプリーンに臨時ニュースが届きます。
それはドイツに対する英国の宣戦布告・・、戦争の始まりです。
早速、出会った英国船を撃沈・・、もちろん乗員を下ろしたうえでの騎士道的方法。
今度は英軍機ブリストル・ブレニムに撃墜され、漂流中のドイツ軍飛行士3名の救出作戦。

U-47-Priene_Luftwaffe.jpg

この哨戒では1万2千㌧級のタンカーや、7千㌧級のタンカーなど次々と屠り、
最後の魚雷で1万5千㌧の英国汽船アランドラ・スターも撃沈し、合計トン数「66587㌧」。
Uボート戦に詳しい方なら、1939年の9月~10月の間に、
そんな大戦果はないだろう・・と思うでしょうが、まさにそのとおり。。
この第11章はスカパ・フローの後の話、すなわち1940年の哨戒であり、
実際にアランドラ・スターの撃沈は1940年7月のことです。

arandora-star.jpg

いよいよ最終章、「スカパ・フロー」です。
1939年10月、Uボート艦隊司令官(FdU)に呼び出されたプリーン大尉。
前大戦で侵入した2隻のUボートが失敗したスカパ・フローの海図を広げ、
「英国艦隊慣用の停泊地じゃ」と、おじいちゃんの如く切り出すデーニッツ。。

Karl_Dönitz.jpg

「此処じゃ、此処から入るのじゃ。勿論簡単ではない。
此の島々の間の潮流は非常に荒いからな。
だが、わしは突破出来ん筈はないと信じとる。
どうじゃな、プリーン大尉の意見は・・」。

もう今にも死にそうなヨボヨボのデーニッツですが、これでも一応、48歳。。

まさに命がけの任務。決めるのはプリーン本人です。
家に帰り、妻と子供の顔を見て考え、それでも答えは「やれます!」

Günther Prien family.jpg

こうしてU-47は見事、スカパ・フローへの潜入を果たし、
停泊中の戦艦ロイヤルオークを撃沈して、脱出にも成功します。
30ページほどで書かれたこの一部始終ですが、
最初に紹介した「Uボート、出撃せよ」の元ネタにもなっていますね。
この顛末だけを詳しく知りたいなら、293ページのあちらをお勧めします。
ちなみに旧題は「U47、スカパ・フローに潜入せよ! 」です。

HMS Royal Oak in Scapa Flow.jpg

エピローグとして「総統の前に立つ」。
意気揚々と本国へ向けて南下するU-47は放送を受信します。
「スカパ・フローにおいて英国戦艦ロイヤルオークはドイツUボートの魚雷を受けて
沈没した。英国側の報道によれば、該ドイツUボートは時を移さず撃沈された・・」。
これには全員が吹き出します。
「すると我々は沈没しちゃったわけですな!」

U-47-Retour de ScapaFlowle 17oct1939.jpg

英国にしてみれば、戦艦一隻を失ったところで物的損害は大したことはなく、
それよりもスカパ・フローに潜入、撃沈、脱出を許したことが大問題であって、
第1次大戦以来、安全とされていたこの基地がもはや過去のものとなり、
また、その面子を完全に潰されたというショックが大きいわけです。
なんとなく、真珠湾攻撃に近い気も・・。

そういえば、チャーチルも回想録でこの件に触れていました。
「U-47の艦長、プリーン大尉の武勲と見なさなければならない」。

scapa_flow.jpg

デーニッツだけではなく、レーダー海軍総司令官直々の出迎えを受け、
そのまま乗員全員が飛行機でベルリンへ・・。
テンペルホーフ空港から歓喜する市民の中をパレードして総統官邸に到着すると、
遂にヒトラーから「騎士十字章」を授かるプリーン艦長。

「少年の夢が現実になったのだ。そして此の世に於ける最大最善のものだったろう。
だが僕の生涯に較べて総統のそれは何という素晴らしいものであったろうか。
祖国の屈辱と困窮を、自らのものと感じて、より幸福で自由な祖国の建設を希望した
一個の男子だった総統は、信じかつ行動し、
その夢は現実となり、その信念は生命を得たのだ」と、本書を締めくくります。

Gunther Prien receives a medal from Adolf Hitler.jpg

1940年8月付のあとがきでは、第11章と第12章の順序の入れ替え理由について述べ、
簡単に言えば、「スカパ・フローをクライマックスにしても悪くあるまい・・」ということでした。

ギュンター・プリーンといえば、スカパ・フローだけでなく、「騎士十字章」のイメージもあります。
これはヒトラーによって1939年9月1日に制定された「騎士十字章」を
それからわずかに1か月半後の、10月18日にヒトラー自らが贈呈したことも大きいでしょう。

ただ、プリーンが最初の受章者かというと、そうではなく、
鉄十字の騎士 -騎士十字章の栄誉を担った勇者たち-」をチラ見してみると、
ポーランド戦が片付いた9月30日に第1弾として10名が受章しています。
しかしその顔触れは、ゲーリングを筆頭に、ブラウヒッチュ、ルントシュテット、
ライヒェナウ、ブラスコヴィッツ、リスト、ケッセルリンク、そしてレーダー提督といった、
大将および軍司令官以上の高級将校が対象なのです。

Gunther_Prien.jpg

ですから、大尉という階級で、騎士十字章の規定でもある「個人的武勲を讃え」た
最初の騎士十字章受章者は、プリーンということになるんですね。
ちなみにwikiには、「彼はドイツ海軍軍人の中で初めて騎士鉄十字章を授与された。」
と、書かれていますが、前途のように海軍総司令官のレーダーが先ですね。

プリーンの後、10月27日にはポーランド戦の戦功第2弾グループとして11名が受章。
ここには陸軍参謀総長ハルダーに、グデーリアン、ヘプナー、ホトといった錚々たる将軍が
名を連ねていますから、それだけでもプリーンの偉業が目立ちます。
30歳の好青年、まさに第2大戦におけるドイツ軍最初のスーパースターですね。
W杯で優勝したドイツ代表の凱旋に勝るとも劣らない、その当時のフィーバーぶりを
「ドイツ週間ニュース」からど~ぞ。



読み終えて、「ゴーストライターによるプロパガンダ本」という定評もあった本書ですが、
それほど違和感は感じませんでした。
実際のところ、9割がたは事実なんじゃないでしょうか。
前半の「ユダヤ人め・・」やら、「ナチス運動の一員・・・」というのは、オマケ程度でしたし、
最後の「総統・・」のくだりだけは如何にもヤラセ臭が。。
確かに、貧しい少年が海に憧れて船乗りとなり、化け物みたいな船員と戦ったり、
不景気による夢の挫折があって、RADで個人よりも組織の大事さを学び、
新生Uボート部隊の艦長になって、大戦果をあげる・・というストーリーは、
当時のドイツ少年の心を鷲掴みにしたでしょう。
翌年に翻訳されたということは、日本の少年も熱中したのかもしれません。

Mein Weg nach Scapa Flow.jpg

本書の前に読んだ、「ガガーリン 世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で」も、
直前まで中産階級の教師の息子、チトフとのライバル争いがあり、
最終的にガガーリンが選ばれたのは、スモレンスクのコルホーズの息子であったことも
推測されているなど、やっぱり国家のスーパースターには、
最下級からトップへ・・という成り上がりっぷりが重要かと思いました。
ただ、個人的にはユーリイ・ガガーリンという、"THE ソヴィエト人民"的な名前に対して、
「ゲルマン・チトフ」ではマズイんじゃないの??・・と思った次第です。

gagarin.jpg

ワールドツアーでエリザベス女王と会食したり、日本にやって来た際のエピソードも書かれ、
またソ連側だけでなく、米国のマーキュリー計画も並行して語られているので、
映画「ライトスタッフ」が好きな方なら更に楽しめる良本でした。
ちなみに、この本を読んで1967年という年がソ連にとって重要な年だったというのを知りました。
すなわち、ボルシェヴィキの十月革命が1917年であり、1967年は記念すべき「50周年」・・。
どうして1967年に拘るのかというと、ヴィトゲンシュタインは1967年生まれなんですね。
ついでにスターリングラード包囲の「天王星作戦」が発動された11月19日生まれですから、
もう、真っ赤っ赤です。。



また「ゴーストライター」については、100%の事実だと思いますけれども、
今年、あの佐村河内 守氏の「ゴーストライター問題」が大きく取り上げられた際、
芸能人やスポーツ選手が「書いた」とされる本に至るまで、
マスコミの追及があるのかな?? と思っていましたが、案の定でしたね。。
まぁ、世界中の常識ある人なら、わかっている話ですし、
それらの本、全てがゴーストライターによる「創作」とは言わないまでも、
本人が口述したことを作家さんが巧くまとめているということでしょう。

その意味ではヒトラーの「わが闘争」にしても、口述ですから、
ルドルフ・ヘスがゴーストライターとして、どれだけ活躍したのか判ったもんじゃありません。
それを追及するのは野暮ってなモンです。

Royal Oak durch U-47 bei Scapa-Flow.jpg

と、ここまで書いて、わざと読まずに残しておいた巻末の昭和16年「初版の序」と、
2001年の「解題」を読んでみました。
「初版の序」を書くのは海軍中将 和波豊一と、駐日独逸大使館海軍武官 ヴェネカア少将で、
「解題」ではプリーンの生涯、3大エースとその最期についても触れられていますが、
本書が戦意昂揚を狙って刊行されたものであるから、そのあたりを考慮しつつも、
記述が具体的で、Uボート艦長の伝記としてはなかなか面白い・・と、
3人の感想とヴィトゲンシュタインの感想は、ほぼ一致していました。

いずれにしても、Uボート好き、またはナチスのプロパガンダに興味があるならば、
本書は読んで損はないでしょう。
戦前のドイツと、見習い水兵の生活、Uボート部隊のドコが事実で、ドコがそうでないのか、
そして戦時中の本を読んでいるかのような文章も含め、
楽しめる観点は思っていたよりたくさんありました。
「U47出撃せよ」という映画もありますよ。












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ゴールデンボーイ -恐怖の四季 春夏編- [戦争映画の本]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

スティーヴン・キング著の「ゴールデンボーイ」を再度、読破しました。

なんやらネットでフラフラしていたら、キング原作の映画「ゴールデンボーイ」がヒット。
元ナチの老人と子供の話と書いてあって、そういえば・・と本棚を物色。
キングは若い頃から大好きで、良く読んだもんです。
長編だと4巻ものなんて当たり前ですから、50冊も出てきました。
本書は1988(昭和63)年の発刊で、中編の2作が収められています。
副題の「恐怖の四季 春夏編」からもわかるとおり、 秋冬編もあって、
あの「スタンド・バイ・ミー」が入っており、実はソチラが1年前に出ています。
それは映画の「スタンド・バイ・ミー」に合わせて原作が出たからなんですね。

ゴールデンボーイ.jpg

初めのお話は「刑務所のリタ・ヘイワース」です。
これも1994年に「ショーシャンクの空に」というタイトルで映画化されています。
日本では結構、人気のある映画ですね。
当時、ロードショーで観ましたが、個人的には「ぼちぼち」という印象が残っています。
子供の頃から「刑務所脱獄映画」なら、イーストウッドの「アルカトラズからの脱出」や、
「ミッドナイト・エクスプレス」なんかを観てきましたので、ちょっと物足りなかったかな??
本書に収められた原作は160ページほどで、
キングの基準でいえば短編・・、いや、ショートショートでしょうか・・。
ということで、この「刑務所のリタ・ヘイワース」はスルーしましょう。



そしてメインの「ゴールデンボーイ」は330ページの中編。
舞台は1974年夏のアメリカ北東部で、キングお得意の場所です。
13歳の少年トッドは、近くに住むアーサー・デンカーという老人の家に押しかけます。
友達の父親が沢山持っていた古い戦争雑誌を見た彼は、
そこに載っていたドイツ兵が女たちを虐待している写真や、強制収容所の記事に興味を引かれ、
ダッハウという場所での死体の山の写真に、嫌悪と同時に興奮を覚えたのです。
そして図書館でホロコースト関連本100冊を読破して徹底的に学んだ時、
偶然、この老人の姿を見かけたのでした。

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トッドは老人に詰問します。
本名はドゥサンダーであり、ベルゲン・ベルゼン、続いてアウシュヴィッツの副所長を経て、
70万人が死んだ「パティン強制収容所」の所長、その後、アルゼンチンへ逃亡・・。
成績優秀で私立探偵を目指しているトッドは、老人に過去の話を語るよう強制します。
話さなければ戦犯が隠れていると通報するぞ。
アイヒマンがどうなったか知っているだろう?? というわけです。

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「人間の皮膚でスタンドの笠を作ったのは、イルゼ・コッホじゃなかった?
彼女は細い曲がったガラス管を使って、すごい拷問をやったんだよね。
あんたはあいつらのお尻をぶったの?
女たちの? まず服を脱がせて、それから・・」。

当初はしらばっくれていた老人も、少年のしつこさに口を割り始めます。
それでもトッドがまず聞きたいことは、「イルゼ・コッホに会ったことある? 美人だった?
写真は見たけどほら、白黒で、ぼやけてて・・、彼女、ほんとにボインだった?」

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昼間からバーボンを呑みつつ、「この国では無辜の市民を殺したり、子供を銃剣で刺したり、
病院を焼き払ったりしたGIたちはご褒美に勲章を貰い、故郷の街では歓迎される。
戦争に負けた連中だけが、命令に従ったばっかりに、
戦争犯罪人として裁判を受ける・・」と嘆くドゥサンダー。
しかしトッド少年には、そんな政治的な話はまったく興味がありません。
彼が聞きたいのは、メンゲレのようなドイツの医者が女と犬をつがわせようとしたとか、
一卵性双生児を冷蔵庫に入れて、同時に死ぬか確かめようとしたとか、
電気ショック療法とか、麻酔なしの手術とか、
ドイツ兵が片っ端から女をレイプしたとか、そんな話なのです。

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それから毎日、学校が終わると老人宅を訪問するトッド。
「今日は『ガスかまど』の話を聞きたいな。
囚人が死んだ後、どんな風に焼いたかもね」。

実際、独破戦線へアクセスしてくる検索ワードには、
「ユダヤ人少女レイプ無料動画」なんてのが、ほぼ毎日あります。
そんな"無料動画"なんて無いと思いますが、興味のある人は多いんですね。

今の世の中、ネットの世界が広まっていますから、情報収集も楽ですけれど、
個人的には"ヒトラーが絶賛したwiki"にしろ、参考程度にしか見ていません。
何かを知りたければ、お金を使って本を買って、時間をかけて読む・・。
無料の情報なんて、信憑性もないし、間違ったことも多く、安かろう悪かろう・・です。

Die SS-Männer kamen und suchten sich die schönen Frauen aus. Sie sagten – für die Front, die Soldaten zu versorgen.jpg

本書のドゥサンダーも架空の人物、パティンも架空の強制収容所なわけですが、
ヒムラーやら、強制収容所総監であったグリュックスがNo.2として、
また「ベルゼンの野獣」ヨーゼフ・クラーマーの名も、2人の会話に上がります。
忘れたい過去を思い出させようとする、この生意気な少年は決して好きになれないものの、
話すことに不思議な満足感を覚えるドゥサンダー。

そんな関係が続いた12月にはクリスマス・プレゼントを持参するトッド。
中身は「仮装・舞台用衣装ピータース衣裳店」で買ったSS中尉の制服一式・・。
「いや、私は着ない。坊や、お楽しみはここまでだ。死んでも着ない」と拒絶しますが、
またもやアイヒマンのようになりたいのか・・と脅すトッド。。
やがてドゥサンダーはこの安物の制服を着た自分の姿に魅せられていくのでした。

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トップクラスの優等生だったトッドの学校での成績は落ちる一方。
家で勉強しようにも、教科書を開けば強制収容所の光景が頭に浮かんでくるのです。
そして初めての夢精を体験・・。
その夢は強制収容所の実験室の台の上に固定された、豊満で美しい若い娘との異常な行為。

apt-pupil2.jpg

イメージ的には以前紹介した、こんなイケないことをしている夢を見たんでしょうか・・。
子どもが見る夢じゃないですね。実にイケません。。
ちなみに中学の同級生で、一晩で2回夢精した・・というツワモノがいますが、
ヴィトゲンシュタインは経験したことが1度もありません。その理由はナイショ。。

Gestapo behaviour towards women and young girls.jpg

一方で所長時代の尋問の様子を一人思い出すドゥサンダー。
その尋問部屋には電熱器が置いてあり、ラム・シチューがぐつぐつと音を立てて・・。
彼は優しい口調で尋ねます。「誰だね? 誰が宝石を隠しているのかね?」
吐けばシチューを食べさせるという約束は一度もしたことがないにもかかわらず、
その香りは例外なく、相手の固い口を緩めてしまうのです。
"棍棒"でも吐かせることはできますが、シチューは、そう、実にエレガントなのです。

こうして少年と老人、2人の精神バランスは徐々に崩れていきます。
お互いに殺人の夢を見始めると、それを実行に移し始めるのです。
トッドは高校3年生になり、ドゥサンダーにはイスラエルの追手が・・。

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映画「ゴールデンボーイ」は1998年に製作され、翌年に日本公開されています。
ほとんど覚えてないなぁ・・。ひょっとしたら観てない可能性大です。
映画でクルト・ドゥサンダーを演じたのはイアン・マッケランですが、
有名なところでは「ロード・オブ・ザ・リング」のガンダルフ役でしょうか??
なお、トッドは最初から16歳の高校生という設定のようですね。

Gandalf.jpg

今回発掘してしまった50冊のキングの本、いくつか再読したくなりました。
特に好きだったのは「デッド・ゾーン」と、「IT(イット)」ですか・・。
それから「ダーク・タワー」シリーズも面白かったですね。
映画なら「ミザリー」と、「ペット・セメタリー」が原作と同じくらい良かったです。

とにかく今回再読して、さすがに25年ぶりですから再読と言えるかわかりませんが、
強制収容所で行われたことについて、「私はガス室の「特殊任務」をしていた」のような 
エゲツない話はほとんどないものの、当時よりも、ゾっとしたのは間違いありません。
ヴィトゲンシュタインがナチス・ドイツの勉強を始めたのは、人生としては最近・・、
いい大人になってからですが、もし、主人公のような夢精もしていない中学生じぶんに
アウシュヴィッツだとか、ブッヘンヴァルトに興味を持ってしまい、
その虐殺方法やらにドップリとのめり込んでしまっていたら、
殺人者にならないまでも、今とは別の人格になっていたかも知れません。
ホロコーストを勉強している方なら、本書を読むと思い当たるフシがあるんじゃ・・[がく~(落胆した顔)]

















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フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」 [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

志水 速雄 全訳解説の「フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」」を読破しました。

これまでソ連ものや、スターリンものを読んでいると、必ずと言っていいほど出てくるのが、
戦後のフルシチョフの発言でした。
回想録も知られていますが、有名なのがこのスターリンが死んだ3年後の1956年、
第20回党大会で突如スターリンに対する批判を行った「秘密報告」です。
最近も「共産主婦」、「誰がキーロフを殺したのか」にも出てきましたし、
1977年という古い文庫ですが、218ページとお手頃なボリュームなので、
ちょっくらお勉強してみます。

フルシチョフ秘密報告.jpg

「はしがき」では本書はロシア語テキストからの本邦初訳かつ、全文翻訳であることなどが
簡潔に書かれていますが、フルシチョフについての細かい説明はありません。
昭和52年当時、すでにフルシチョフは死去し、ブレジネフの時代です。
ですから、個人的にもフルシチョフについての印象はまるでありませんが、
ジュード・ロウ主演の映画「スターリングラード」に出てきた"ハゲのおっさん"といえば、
思い出される方も多いのではないでしょうか。

Enemy at the Gates_Bob Hoskins_Jude Law.jpg

「同志の皆さん!」で始まる秘密報告。
続けて、フルシチョフは冒頭でこう語ります。
「ある特定の人物を殊更に持ち上げ、その人物を神にも似た超自然的能力を持つ
超人に仕立て上げることは、マルクス=レーニン主義にとって許しがたいことであり、
また無縁のものであります」。

そして革命以前からレーニンが「党の中央委員会を集団的指導者であると呼んでいた」と述べ、
まずはスターリン批判の目的が、その独裁的指導であることが理解できます。
1922年、レーニンが党大会に宛てた手紙には、
「スターリンはあまりに粗暴である。この欠陥は仲間内の付き合いではまだ我慢できるものの、
書記長という役職にあっては許しがたいものとなる。
そこで私は、スターリンをこの地位から降ろし、他の人物に替えるよう提案する」。
コレは有名な「政治的遺書」と呼ばれるもので、何度か読んだことがあるものです。

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スターリンが作り出した「人民の敵」という概念。
どんな問題であれ、スターリンと意見が合わなかったり、敵対的行動を起こすと疑われたり、
悪評の立っている人物は「人民の敵」とされて告訴・・。
犯罪を犯したという被告自身の「自白」のみが唯一の証拠とされ、
その「自白」は肉体的拷問によって得られたものであったことも語ります。
こうして1937年~38年の「大粛清」へと進むフルシチョフ。
「第17回党大会で選ばれた中央委員会の委員と候補139名のうち98名、
すなわち70%が逮捕され、銃殺されたということであります(場内、憤激の叫び)」。

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1934年のキーロフ暗殺の謎についても触れながら、トロツキスト、ジノヴィエフ派、
ブハーリン派が一掃され、党内で完全な統一が達成されると、
スターリンは中央委員や政治局員の意見さえ軽視し、
今や自分は一人ですべてのことを決定できると考えるようになったとします。

また、「大粛清」の中心人物であるNKVD長官だったエジョフの責任について・・。
「エジョフを告発するのは確かに正しいでしょう。しかし、エジョフがスターリンの承諾なしに
優れた党員を逮捕できたり、党員の運命を自分で決定できたでありましょうか。
いいえ、こういう問題を決定したのはスターリンであり、彼の命令と同意がなければ、
成し得なかったということはきわめて明瞭であります」。

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いよいよフルシチョフは「大祖国戦争」について言及を始めます。
戦争初期の痛ましい結果は、1937年~41年までの「赤軍大粛清」によるものだとして、
「軍隊の規律も緩んだ」と語ります。
「数年間に渡って、党およびコムソモールに属している将校はもとより兵士でさえ、
自分の上官を隠れた敵として、その正体を"暴露"しなければならないと
吹き込まれていたからです(場内騒ぐ)」。

監獄での野蛮な拷問を生き延びた英雄的な愛国者として、ロコソフスキーの名を挙げますが、
「多くの指揮官は収容所や牢獄で死に、軍は再び迎えることができなかったのであります」。

K.K.Рокоссовский перед подъемом в воздух в корзине воздушного шара. 1944.jpg

途中まで読んで、イメージしていた「ソ連の報告書」といった堅苦しいものではなく、
荒っぽそうなフルシチョフのキャラクターが良く出た演説速記録といった趣で、
カッコ書きで「場内憤激」など、その現場に居合わせているかのような雰囲気すらあります。
通常、共産党の党大会の演説といえば、「赤軍ゲリラ・マニュアル」のスターリン演説のように 
「割れるような拍手喝采」というのが定番ですから、
このような党員のリアルなリアクションも楽しめるポイントのひとつです。

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「軍事的天才」スターリンが、1942年のハリコフ攻防戦の時、"地球儀"で作戦を練っていた・・
というエピソードや、戦闘指導の基礎知識を欠いていたにもかかわらず、
絶えざる正面攻撃という自分の戦術実施をすることに固執したことの代償として、
多くの血を流さなければならなかったと熱く語ります。

stalin poster.jpg

大勝利の後、多くの司令官の格下げを始めたスターリンは、
功績を独り占めにしようとしたとして、特にジューコフ元帥の評価を気にします。
あるときフルシチョフに話かけたスターリン。
「君はジューコフを褒めたが、彼はそれに値しない男だ。
ジューコフは作戦を始める前にいつも土を手に取って臭いを嗅ぎ、
『攻撃を開始しようじゃないか』とか、反対に『この作戦は遂行できない』とか言うそうだ」。

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そんな大祖国戦争中には少数民族に対する弾圧が起こり、
チェチェン人やイングーシ人が根こそぎ追放になったことをフルシチョフは語ります。
「ウクライナ人がこのような運命を逃れたのは、ただ彼らの人口が多すぎて、
ウクライナ人を追放しようにも、その場所が無かったからに過ぎません。
そうでなければスターリンはきっとウクライナ人を追放していたでしょう(場内、笑いとざわめき)」。

いや~、(場内、笑い・・)というのが、ウクライナ嫌いを物語っている気がしますね。。

戦後のスターリンは以前よりも気まぐれで怒りっぽくなり、残忍に・・。
猜疑心は一層深く、その被害妄想は信じられないくらいに広がって、
彼の目に多くが敵に映ったところに登場してきたのは、
「低劣な挑発者であり、正真正銘の敵であったベリヤなのです。
彼は何千人というソヴィエト人を殺しました。
様々な噂や会話の形で証拠材料を捏造しましょう、とスターリンに申し出たのが、
このベリヤだったのです」。

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1948年に出版された「スターリン小伝」。
スターリン自身によって承認された「スターリン崇拝」本のようですが、
スターリン本人によって加筆されたとして、その部分をお披露目するフルシチョフ。

「『レーニンが戦列を離れた後、レーニンの遺訓の元に党を団結させ、
人民を工業化と農業の集団化の大道へと導いたのである。
この中核の指導者であり、党と国家の指導力こそ、同志スターリンであった。』
このように書いているのはスターリンその人なのであります!
続いて彼は次のように付け加えております。
『スターリンは、党と人民の統領としての課題を立派に果たし、
全ソヴィエト人民の支持を完全に獲得していたが、反面、自分の活動の中に、
自慢、高慢、自惚れなどの影が少しでも見えるのを許さなかった』」。

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この「スターリン小伝」、日本でも1953年に出版されているようです。
「天才的な洞察力をもって敵の計画を見抜き・・」と、軍事面の天才ぶりも書かれた
かなり楽しそうな自画自賛本ですが、古書価格5000円といい値段ですね。

スターリン小伝.jpg

1951年にスターリンが巨大な「スターリン像」を建てるという決議に署名し、
33トンの銅を鋳造するよう指示したことを挙げます。
その場所は戦争以来、住民が土小屋に住んでいたというスターリングラード
「レーニンを記念した「ソヴィエト宮殿」の建設はいつも後回しになって、
その案もだんだん忘れ去られてしまいました」。

starlin 24 meters.jpg

このスターリングラードの24mのスターリン像は、この後、レーニン像になったようですね。

largest monument in the world who have actually lived the man Lenin located in Krasnoarmeysk district of Volgograd..jpg

困難な農業の現状についてもスターリンはどこにも出かけず、農民とも会わず、
ただ映画を観て知っていたに過ぎなかったと説明します。
「ところが、その映画たるや、まるで食卓が七面鳥や鵞鳥の重みで壊れてしまいそうな調子で、
コルホーズの生活を美化するという代物だったのです」。
あ~、「スターリンの歌」でも、『コルホーズの野は満たされる』って歌詞が。。

晩年になると、異常な猜疑心のために古い政治局員も取り除こうとするスターリン。
「スターリンは、わが党の最長老のひとり、ヴォロシーロフが英国のスパイではないかという、
馬鹿馬鹿しい笑うべき考えに取りつかれることさえあったのです(場内笑い)。
まったくそうなんです。英国のスパイだと言うんです。
ヴォロシーロフの家には盗聴器さえ仕掛けられていたのであります(場内憤激)」。

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最後に「レーニン主義万歳!」と叫んで、フルシチョフの秘密報告は終了します。
フルシチョフ自身が「スターリン派」ではなかったか。
フルシチョフも「大粛清」に関与していたのではなかったのか。
フルシチョフ以降の最高指導者も、独裁的指導ではなかったか。
といった疑念を読んでいて持ちましたが、
146ページから50ページほど書かれた「解説」がこれらの疑問を解決してくれます。

フルシチョフの簡単な生い立ちと経歴では、彼がスターリンの右腕だった
カガノーヴィチに見込まれ、彼の指揮下で粛清を実行し、
1938年にはウクライナ共和国党第一書記に任命。
戦後は1953年にスターリンが死ぬまでモスクワ州党第一書記の地位にあったなど・・。

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この「秘密報告」は党大会中に行うべきだと、舞台裏の幹部会で議論され、
11人中、ブルガーニンら4人の支持を得、ミコヤン、マレンコフら3人が中立的態度、
ヴォロシーロフ、モロトフ、カガノーヴィチが強硬に反対したと推察しています。

そして1436人の代議員ら聴衆の前で、また、ノートを取ることも禁じられた
秘密報告会にもかかわらず、いずれ、世界中に知れ渡るだろうと読んだスターリン批判を
なぜフルシチョフが行ったのか・・?? については、
「告発者は告発されない」という論理に基づいたものとしています。
スターリンを弾劾することによって、自分は無実であることを証明したかった・・。
このとき、フルシチョフは党のトップですから、誰かに「フルシチョフ批判」をやられる前に、
先手を打ったという感じでしょうか。

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フルシチョフの「秘密報告」演説自体は130ページ。
その後、著者による詳細な解説が50ページという構成ですが、良いバランスですね。

フルシチョフについての本もいくつか出ているようですが、
一番気になった「回想録」がamazonだとプレミア価格で9000円・・。
1972年、 617ページの函入りだそうで、ちょっと悔しいですね。
神保町の古書店で3800円くらいで探してみたいと思います。









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世界戦争犯罪事典 <第2部> [世界の・・]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

常石 敬一 監修の「世界戦争犯罪事典」を読破しました。

文藝春秋80周年記念出版の一冊である2002年発刊の本書。
704ページで定価19440円という犯罪的な一冊だということは前回も書きましたが、
前半の「第1部 アジア・太平洋・米大陸」を読んで、妥当かも知れない・・と思い始めました。
その前半の記事が長くなりすぎましたので、本書に限っては2回に分けてお送りします。
いよいよ、ナチス・ドイツの登場する後半戦です。

世界戦争犯罪辞典.jpg

ちょうど真ん中あたり、361ページから第2部の「ヨーロッパ・中近東・アフリカ」。
第1章は「1899-1939年期」です。
今年、100周年を迎えた第1次大戦の「ベルギー市民軍とドイツ占領軍」は勉強になりました。
交戦国のなかではベルギーにだけ、内務省管轄下の「市民軍」が存在し、
平服でドイツ兵を相手に戦闘行為を繰り広げたそうですが、
このような行為はれっきとした国際法違反なのです。まぁ、パルチザンですね。
そしてそんな「市民」を銃撃すれば、多くの市民を虐殺したと言われてしまうドイツ軍。

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英国の調査ではドイツ軍による掠奪、乳房の切り取り、子供の手の切り落とし・・といった
非道の数々が証言として集められ、なかには「妊婦の腹を切り裂いて、胎児を取り出し、
代わりに切断された夫の首を血だらけの腹部に詰めん込んだ」というものも。。
しかし、1930年になってベルギー政府もそのような事例はまったくなかったと認めますが、
1964年に発表され、ピュリッツァー賞を受賞した「八月の砲声」でさえ、
このような英国のずさんで意図的な報告に基づいているのでした。



なるほど。。1940年の電撃戦で、フランス市民が「子供の手を切り落とされる」と
ドイツ兵士を恐れおののいていたという理由が良くわかりました。

german 1916.jpg

そんな英国の「対ドイツ海上封鎖」も、そのやり方はドイツ国民の飢餓が狙い。
少なくとも70万人が、この飢餓封鎖の影響で死亡したそうです。
また、第1次大戦ではヒトラーが一時的に失明したと言われているように
毒ガス」が大量に使用された戦争であるわけですが、これも当時からNGです。
塩素ガスなどさまざまな種類のガスが交戦国同士で使われますが、
よくTVでも特殊部隊が使っている「催涙ガス」も戦争犯罪なのです。
敵国に使用するのは国際法違反であって、国内のテロ鎮圧に使用するのはOKなんですね。

ww1 german gas mask.jpg

偽装商船(Qシップ)対Uボート」もお互い戦争犯罪を行ったり来たりといくつか事例を挙げます。
ゲルニカ爆撃の悲劇」は意図的なテロ攻撃ではないという解釈。
ナチスの『安楽死』計画」でカール・ブラントが処刑されて、この章は終了します。

第2章は「1939-1945年(第二次大戦期)」ですが、まずは「一般項目」となっています。
簡単に言うと特定の事件ではなく、各国の戦略そのものが犯罪的であるとして、
最初に英国、ドイツ、米国の「空軍戦略理論」、すなわち「戦略爆撃思想」について分析。

Boeing B-17s, the Flying Fortresses of the U.S. Eighth Air Force, bombed Berlin.jpg

次に「ナチスによる文化財収奪」として、ローゼンベルク率いるチームがユダヤ人が所有していた
膨大な美術品を押収すると、ヒトラーは新設のリンツ美術館のコレクションのため、
ゲーリングは個人的趣味による押収済みの退廃芸術品との交換に勤しみます。
1941年以降、ソ連の文化財は東方相に任命されたローゼンベルクが全権を握りますが、
こちらにはヒムラーの「先祖遺産(アーネンエルベ)」が乗り込んで
ウクライナとクリミアで掠奪を続ける・・といった、てんやわんやが4ページに・・。

慰安婦とドイツ軍の慰安所」も性病対策における、徹底した慰安婦管理の実態、
毎週の検診、客となった将校全員を慰安所カルテに記入することとされ、
国防軍は無認可の売春宿への出入りは禁止、1942年には慰安所は500に上ります。
この件は「ナチズムと強制売春 強制収容所特別棟の女性たち」にもありましたね。 

German military brothels _brest_1940.jpg

アウシュヴィッツ」と絶滅収容所についてもかなりページを割いています。
ガス室で殺害された人数は「少なくとも110万」という数字を推奨していますね。
その90%がユダヤ人であり、ホロコースト犠牲者の総数は390万~580万の範囲とします。

Children leave Birkenau barracks after being liberated.jpg

コマンド作戦の違法行動」では、ドイツのブランデンブルク部隊や、
英国のコマンドによるサン・ナゼール奇襲などが紹介されます。
正規軍人による行動であっても、コマンド行動はゲリラ戦の形態のひとつであり、
ハーグ条約で許されている「奇計」には入らない戦争犯罪です。
よって、ヒトラーは「最後の一兵まで殲滅せよ」という、「コマンド命令」を発するのです。

基本的には敵国の軍服を着て潜入するのはOKですが、
戦闘時にはそれを脱ぎ捨てないと、戦争犯罪になるそうなので、
ポーランド空挺部隊の軍服から、ドイツ降下猟兵に変身して死んでいった
鷲は舞い降りた」は正しい行動になるんですね。

The_Eagles_Has_Landed.jpg

ヒトラーの命令といえば、「コミッサール命令」も有名です。
ソ連の人民委員は捕虜にせずに射殺しろ・・というこの命令ですが、
兵士ではない人民委員は、国際法が兵士に与えている保護の対象外という認識。
赤軍の人民委員の見分け方は「槌と鎌が縫い込まれた赤星」の徽章ですが、
ほとんどは捕えられる前に自身の徽章を捨ててしまい、ドイツ軍も識別は困難です。

commissar_nkvd_unif.jpg

アインザッツグルッペン」の項目も出てきました。
ハイドリヒを中心に6ページ、しっかりと書かれていますね。
パルチザン戦争の諸相」もなかなか勉強になります。
ソ連やポーランドのパルチザン、フランスのレジスタンスは国民的英雄になる一方、
占領軍からみれば、「不正規兵」であり、テロリストとして射殺して良いのです。
そして占領地の住民は、立法権の移行した占領軍に服従する義務を負っているのです。

Traqués, les résistants.jpg

ドイツが行った「強制労働のための民間人連行」の次には、「ソ連によるドイツ人の抑留」。
数字だけを見れば前者が760万人、後者は280万人・・。
女子の割合は前者が190万人で、後者は5%・・、14万人ですね。。
ソ連に抑留された女性は逃げ遅れた軍の衛生要員やドイツ赤十字の看護婦などですが、
その1/3が抑留中に死んだと見られているそうです。

Two women of the German anti-aircraft gun auxiliary operating field telephones during World War II.jpg

ちなみにドイツの強制労働については「ナチス・ドイツの外国人―強制労働の社会史」
という本が以前から気になっています。




ノルマンディ上陸後の米兵による緒犯罪」は、ほとんどが武装SS隊員に対するもの。
従軍記者だったヘミングウェイは「SS野郎」を殺したことを自慢し、
モントゴメリーは捕虜となったマックス・ヴュンシェに言い放ちます。
「SS兵士にはジュネーヴ条約は適用されない。なぜならば、
彼らは政治の害虫であり、政治の汚物であるからだ」。
う~ん、まるでソ連の政治委員と同じような扱いですね。
そして米軍に投降した「トーテンコップ」は行進がソ連軍に向かっていることに気づき、
次々に逃亡を始めると、大量虐殺が始まります。
米軍第11戦車隊の指揮官は3万4千人をソ連軍に引き渡したと報告していますが、
ソ連の収容所に到着したのは2千人のみ・・。
この件はいまだにハッキリしていないそうです。へ~、知らなかったなぁ。

MaxWunsch3-1.jpg

515ページからは第3章として「個別事件」を取り扱います。
最初は1939年のレンプ艦長(U-30)による、「アセニア号(英客船)の沈没」事件です。
続く「ワルシャワ爆撃」は、完全包囲されているにもかかわらず、明け渡しを拒否した
12万のワルシャワ守備隊に対する地上支援のための戦略爆撃であり、
防守された都市への攻撃は合法だという見解です。

Warsaw bombing, September 1939.jpg

カティンの森」、「ロッテルダム空爆」、そして「英軍捕虜の銃殺」は、あのクネヒラインの件。
コヴェントリーの大爆撃」は一般市民の568人が死亡したものの、
英国の歴史家たちは「ドイツ空軍は実際に工場を狙った」と認めており、
結果的にコヴェントリー大聖堂が焼け落ちても、合法的な戦争行為という認識のようです。

the Coventry Blitz.jpg

クレタ島」を制圧したドイツ空挺部隊と山岳部隊。
しかしギリシャ人である島民はパルチザン戦争を実行します。
発見されたドイツ兵の遺体は性器切除、両手切断と非人道的虐殺行為の跡が・・。
耳が切断されているケースも多く、鼻が切り取られていたり、両目がえぐりとられていたり。。
シュトゥーデント将軍も報復措置を命令しなければなりません。
重傷を負った降下猟兵が目を覚ますと、公開リンチをしようとする島民に向けて、
英軍兵士2人が銃を向けて守っている・・という状況です。

General Kurt Student at Crete, May 1941.jpg

バービ・ヤールにおけるユダヤ人虐殺」もタップリと書かれ、
クラグエヴァツ(ユーゴ)における人質処刑」は、パルチザンとの戦闘で、
ドイツ国防軍兵士10名が死亡、26名の負傷者が出てしまいます。
ヒトラーはセルビア方面軍司令官フランツ・ベーメに「人質命令」を発します。
それは死者1名に対して人質100人、1名の負傷者なら50人を射殺せよというもの。
この命令に従い、2300人を駆り集めて、12歳の少年まで射殺するのでした。

Franz_Böhme.jpg

クロアチアのヤセノヴァツの集団虐殺」になると、更に刺激は強くなります。
ドイツに占領されたユーゴスラヴィアは、クロアチアがナチス傀儡政権として独立。
パヴェリッチを首班とするファシスト組織「ウスタシャ」は、純粋なクロアチア国家を目指します。
そして全人口の1/3に当たる200万人のセルビア人が殺害、追放されていく、
「ユーゴスラヴィアのホロコースト」へと発展していくのです。

ante pavelic and adolf hitler.jpg

この虐殺の中心地となったのがヤセノヴァツの絶滅収容所であり、
数十万のセルビア人を筆頭に、ユダヤ人やロマなど、30万~70万人が殺されます。
その殺害方法は特殊な形状をしたナイフ、そして斧などです。

Jasenovac Serb-cutter - Ustasa's invention for slaughtering Serbs.jpg

もちろん1945年にナチス・ドイツの降伏と同時に崩壊したクロアチア独立国。
復讐に燃えるパルチザンの手によって、今度は数万人のウスタシャが処刑されるのです。
それにしてもウスタシャ関連本ってホント無いんですよ。勉強になりました。

まぁ、このように「刃物」を好むバルカンの処刑方法。
西欧と比べて残酷なように感じますが、単なる文化の違いのようにも思います。
西欧でも中世からエゲツナイ処刑方法がたくさんあり、ギロチンも流行、
銃殺は近代になって軍人にとっての名誉とされる処刑方法であり、
犯罪者に対してはニュルンベルクでもそうだったように「絞首刑」が一般的です。
日本軍でも「軍刀」で一刀両断や「銃剣」による刺殺をよく聞くのは、刀文化に由来し、
同様にバルカンでも高価な銃より、慣れ親しんだ刃物を使った・・ということでは??

ustaše-testerom-seku-glavu-Srbinu.jpg

まだまだ「ハイドリヒ暗殺に対するリディツェ村の報復破壊」に、
U-156のハルテンシュタイン艦長の「ラコニア号事件」、
U-852のエック艦長の「ペリュース号事件」と、このBlogで紹介した戦争犯罪が目白押し。

西暦529年に建てられた「モンテ・カッシーノ僧院を破壊した米空軍機」では、
膨大な美術品がヘルマン・ゲーリング戦車師団によってヴァチカンへと搬送され、
ケッセルリンクも修道院周辺を中立区域としてドイツ兵の立ち入りを禁止。
連合軍側も空爆の対象から外すと約束します。
しかし、ドイツ軍に手を焼く連合軍は約束を反故にして大爆撃を実施。
朝の礼拝の時間帯であり、修道僧と難民ら400人が死亡します。
「国家記念建造物」を目標としたこの爆撃。ニュージーランド軍団を率いる、
フライバーグ中将の進言で行われた愚行として断罪しています。

freyberg.jpg

今年の5月に行われたジロ・デ・イタリア第6ステージのゴールがこのモンテ・カッシーノで、
戦後に再建された僧院の空撮シーンでは、こんな風に紹介。
「1944年2月に『枢軸側』によって破壊されました」。
用意された紹介文を読んだだけでしょうけど、ありゃないぜ、Sascha。。ドイツ人だろ・・。

British and South African soldiers hold up a Nazi trophy flag.jpg

カプラー司令官による大量人質処刑」は、ローマの事件。
チュル(テュール)におけるドイツ軍の報復行動」はフランスでの事件です。
前者はドイツ側の死者33名と負傷者67名が出たことで、イタリア人人質を
1対10で射殺せよとのヒトラー命令によって、330人を射殺することに・・。
後者は64名のドイツ兵が「マキ」に殺されたことで、報復として92人が街頭に吊るされます。
しかしパルチザンの攻撃自体が違法であり、占領軍には当時の戦時国際法で
報復する権利・・人質を1対10で処刑すると威嚇する権利があったそうです。
ですから、ローマのカプラーの場合、330人を処刑したことでなく、
数え間違いにより5人多く殺してしまったことで戦後、終身刑を受けてしまうのです。

Civili arrestati subito dopo l'attacco di via Rasella_1944.jpg

武装SSのオラドゥール村における虐殺」は、完全にダス・ライヒの戦争犯罪。
1名の将校が「マキ」の捕虜となり、その後、処刑されたにしても、
197人の男子を銃殺し、445人の婦女子を教会に閉じ込めて焼き殺す・・というのは、
報復の度を越え過ぎているというわけです。

アルデンヌ戦で殺害された米兵捕虜」はいわゆる「マルメディの虐殺」です。
ダッハウ強制収容所で開かれた戦後の裁判では、ドイツ兵75人が起訴され、
フライムート軍曹は、拷問を受けてニセの自白を強要されたと何度も叫び、
挙句の果てに、首を吊って死んでしまいます。
そんな署名もない彼の自白を有益な証拠と認めた法廷は、全員有罪で
ヨーヘン・パイパーゼップ・ディートリッヒら43名に死刑判決を下します。

しかし拷問による自白が問題となり、米占領当局が調査を実施すると、
骨を砕き、睾丸を潰すといった悪質な手口が明らかとなって大騒ぎに・・。
アイゼンハワーの後任であるクレイ将軍の即刻死刑の意図は失敗に終わるのです。

Sepp_Dietrich_Willis_Everett_Malmedy_trial.jpg

東部戦線では「東プロイセンにおけるソ連軍の住民虐殺」に始まり、
難民輸送船グストロフ号の悲劇」へと進みます。
このソ連潜水艦によるグストロフ号の撃沈が戦争犯罪なのかというと、
5000人の難民の他、負傷者を含む1100人の兵員が乗船しており、
航海灯を消していただけではなく、赤十字の標識も付けていなかったことから、
戦争犯罪とは認められないとしています。う~ん。難しいなぁ。

ドレスデン壊滅の日」もガッチリ書かれていますね。
1945年2月という時期になって、ドイツの芸術文化都市を無差別に爆撃した英空軍。
ハンブルク爆撃と並ぶ、第2次大戦における最大級の「戦争犯罪」と表現。
行政機関や交通施設、兵舎は合法的な爆撃目標であるものの、
病院や文化財建造物は爆撃してはいけません。
当日、英爆撃機隊員に発せられた指示では、
「ソ連のコーネフ元帥はその前線突破に全力を傾けているので、
ドレスデンに到達するソ連軍に、英爆撃機集団の実力の程を見せつけねばならぬ」。

dresden-bombing.jpg

日本でも一歩間違えれば京都や奈良が、東京のようになったのかも知れません。

やっと第4章、「1945年-2002年期」に辿り着きました。
まずは「ダッハウ解放後の米兵による収容所員処刑」。
医学的人体実験など「人道に対する罪」が行われたダッハウ強制収容所ですが、
パットンの米第7軍によって解放された当初、この収容所の警備兵だけでなく、
衛生部員、炊事要員らが銃殺されています。
520人の人員が武装解除され、壁に向かって立たされて射殺。

Dachau, Germany, 1945, American soldiers standing near the corpses of SS guards..jpg

しかも彼らは、元の多くの看守が前線行きとなったため、
急遽、駆り集められた傷病兵たちで、数日しか経っていない新米看守だったのです。
また、SS隊員の多くが元の収容者によって撲殺されるのです。
生き残った人員は戦争犯罪人として取り扱われることに・・。

freed prisoner fights a German soldier who was recently captured by the U.S soldiers at the Dachau concentration camp.jpg

フランス軍のルクレール将軍は、ベルヒテスガーデン攻撃準備の最中、
米軍から捕虜を引き渡されます。
それは武装SSシャルルマーニュの12名。すなわち、同じフランス人の同胞なのです。
そしてドイツ降伏の数時間前、12名は銃殺されてしまうのでした。

これと同じようなパターンが「ソ連へ引き渡された非ドイツ人捕虜の運命」です。
ドイツ軍に協力したコサックやウクライナ人、タタール人やカフカス人、
「幻影」でも有名なウラソフの「ロシア解放軍(ROA)」などの運命です。
捕虜となったソ連軍兵士は、スターリンによって「卑怯者と脱走兵」と定義されており、
祖国への帰還は、そのまま処刑ないしは、収容所送りなのです。

POA.jpg

ユーゴにチェコ、ポーランドなどの「ソ連占領軍による住民追放」では、
ソ連軍将兵による大量婦女暴行を取り上げ、
強姦された婦女子の総数は200万人と推定され、18万人がその際に死亡と・・。

Rape- a weapon of Russian Army during World War II.jpg

ソ連によるドイツ兵捕虜の抑留と強制労働」は、その過酷な労働の実態を・・。
スターリンの威信かけた巨大建築物に世界最大の水力発電所、鉄道道路に
モスクワの地下鉄など大型の建築計画にはドイツ人捕虜が多数参加。
モスクワのディナモ・スタジアムの建築(増築??)にも彼らが関わっているそうです。

西側のドイツ人捕虜も運命は悲惨です。
消えた百万人」でも詳しく書かれていた野外の収容所で泥の中、餓死していきます。
さらにデンマークとフランスでは、「大西洋の壁」の建築時に埋設された
地雷の除去」を命ずるのです。
このような作業はジュネーヴ捕虜条約で禁止されている「危険な労働」に該当。
フランスでは4万人の捕虜が従事し、毎月、2000件の死亡事故が起こるのです。
パウル・カレルの「捕虜」を再読したくなりますが、精神的にキツイからやっぱりやめた。。

A German prisoner engaged in mine clearance duties near Stavanger unearths an anti-personnel mine.jpg

後半は「イスラエルvsパレスチナ」、「アルジェリアにおけるフランス軍の暴行」、
これは昔、「アルジェの戦い」という映画を観て知りましたねぇ。

1979年にウラル地方の「ソ連生物兵器施設で起こった炭疽菌事故」。
66人~105人が死亡したこの事故が西側に漏れ伝わると、
ソ連は自国民に対してもこの事故を隠すため、汚染肉が原因だとして、
肉の闇商人まで逮捕してしまいます。
そしてこの隠蔽工作を指揮したのは、当時、この地区の共産党書記だったエリツィン・・。

Yeltsin_1979.jpg

湾岸戦争」は主に空爆が米軍の戦争犯罪であり、
ルワンダ共和国の大虐殺」、「ユーゴの内戦」で終了します。
そういえば「最愛の大地」という映画、観てみたいんですよねぇ。
あのアンジェリーナ・ジョリーの初監督作品で、ストーリーは
「ボスニア女性アイラはセルビア軍に捕えられ収容所に収監される。
収容所では日々レイプや拷問が行われていた・・。」という恐ろしいもの。
しかし彼女は<第1部>で紹介した最新作「アンブロークン」といい、
なかなか意欲的な作品に挑戦していますね。



実は40ページほどの第3部があり、「参考項目」と題して、各国の戦後補償や、
戦争犯罪関係の国際条約等一覧が掲載されています。
このように本書は、特にナチス・ドイツに関わる戦争犯罪は知っていたものも多いですが
単なる犯罪行為の紹介ではなく、当時の国際法と照らし合わせて、
どこがどのように犯罪行為なのか、あるいは犯罪とは認められないのか・・
に言及しているものです。

SSやゲシュタポがロシアのパルチザンや、フランスのレジスタンスの親玉を捕え、
冷酷に処刑してしまうなんて、犯罪行為のように思えますが、
国際法上は愛国者のパルチザン、レジスタンスはテロリストなのであり、犯罪人なのです。
近年で言えば、ビン・ラディンを殺した米軍とCIAが正義なのと一緒なんですね。

Murdered Camp Guards.jpg

本書は素晴らしいと思います。
2回に分けてお送りしましたが、とても全項目は紹介できませんので、
その他、どんな項目があるのか興味のある方は、コチラをど~ぞ。

ただし、定価19440円では一般人は購入できません。モッタイナイ話ですね。
「日本の古本屋」で検索しても、最安値で5000円。
少なくともアジアの第1部、ヨーロッパの第2部に分けて、分冊にするとか、
もっと細かく、国ごと、あるいは第2次大戦と、それ以外など4分冊くらいになれば、
1巻あたりが安くなって、興味のある巻から購入してみることもできるでしょう。
文春文庫で全8巻ででも出れば、迷わずまとめ買いします。









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