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第2次大戦 ドイツ武装親衛隊Ⅱ [武装SS]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

グランドパワー別冊の「ドイツ武装親衛隊Ⅱ」を読破しました。

3月の「ドイツ武装親衛隊Ⅰ 」の内容を自分でも驚くほど覚えておらず、
逆に「これはラッキー・・」ということで、1999年に出た続編も読んでみました。
<Ⅰ>と同じく160ページ、定価2350円のデルタ出版です。早速、行きましょう!

ドイツ武装親衛隊Ⅱ.jpg

まず4ページは「武装親衛隊カラー・アルバム」です。
不発のカチューシャ・ロケット弾を眺めるSS兵たちの写真に、
第二次世界大戦ブックス「ナチ武装親衛隊」の表紙となっている写真、
それからヨーヘン・パイパーの柏葉章ポートレートなどです。

続いて白黒の「武装親衛隊写真集」で、ヒトラーの写真が8枚ほど。
ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944〈上〉」で紹介した個人的に好きな1枚、
1932年の遊説中、ボディガードを務めるシャウプゼップダリューゲの錚々たる面々も。
ヒムラーは17枚で、1939年1月28日の「ドイツ警察の日」の祝辞を述べる1枚が好きですね。
ややニヤケ顔で、キャプションも「エー、全国警察の皆様」。

Himmler making a radio address on German Police Day.jpg

「将官と指揮官たち」では、ギレフェルプスクリューガーといった武装SS師団長の他、
あんまり関係のない、ハイドリヒオットー・ディートリッヒ、ガウライターのフォルスター
リッベントロップまでが登場します。SSの制服を着ているのが理由のようですね。
1923年のSA隊長といわれる鈎十字鉄帽姿のゲーリングは、
まだ戦後5年ですから「デブ」とは言わせません。あくまで「ムッチリ」としてるだけ。。

Goering 1923.jpg

そして「ライプシュタンダルテ」、「ダス・ライヒ」、「トーテンコップ」の各装甲師団の戦場写真。
まぁ、わり合い有名な写真が中心です。
そのなかでは不鮮明ながらも、1940年7月29日にシャンゼンゼ通りをパレードする
ライプシュタンダルテの車両と、それを眺めるゼップとハウサー、そしてルントシュテット

Hausser Sepp Rundstedt _paris.jpg

外国人部隊では「ヴィーキング師団写真集」のハック少佐の爽やかな笑顔が・・。
「ノルトラント」の鹵獲SU-76っていうのは面白いですね。

Su-76M probably belonged XI SS Frw Pz.Gren. Div. NORDLAND.jpg

50ページからは各武装SS師団の「プロフィール」です。
SS第1装甲師団である「ライプシュタンダルテ」が1938年に連隊としてベルリンで編成され、
ポーランドからアルデンヌ、最後はオーストリアで戦い、騎士十字章者は58名排出・・、
といったことを簡潔に紹介しています。
写真も1ページに2枚ほど掲載され、ここではベルリンのリヒターフェルデ・ヴェストにあった
連隊の正面入り口や、衛兵の交代式の様子。

Lichterfelde Leibstandarte ss.jpg

「ダス・ライヒ」ではノルマンディにおけるフォン・シュヴァッペンブルク
ラマーディング師団長の2ショット写真がレアですね。
そのままSS第38擲弾兵師団「ニーベルンゲン」まで一気に取り上げています。
ややこしいんですが、次には7個の装甲師団をもっと詳しく紹介。
ホーエンシュタウフェン」では、鹵獲ジープで負傷した英国兵を乗せている写真が・・!

waffen ss Ⅱ.jpg

コレは、あの「マーケット・ガーデン作戦」ですね。「遠すぎた橋」でいう一時休戦シーンかな??

ちなみに今の気分で戦争映画Best.3を選ぶとすれば、
1位、「大脱走」、2位、「Uボート」、3位がこの「遠すぎた橋」ですね。
共通点としてはストーリーと関係のない女が出てこない(恋愛ドラマの要素ゼロ)、
名作映画には名テーマ曲が存在するということです。

movie poster.jpg

第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」なら本部前の集合写真。
フリッツ・ヴィット師団長誕生日の際の1枚だそうで、
中央でヴィットと会話しているSS大佐がパンツァー・マイヤーで、
後ろの戦車服はヴュンシェ、あと2人くらいはわかりますが、いかがでしょう。

officers of hitler youth division.jpg

本書の中央には帽章、肩章、カフタイトルなどが4ページ、カラーで出てきました。
そして「武装親衛隊とユニフォーム」へと続いていきます。
ゼップの実物の革コートに、「ナチス親衛隊装備大図鑑」に出ていた「特技章(職掌徽章)」、
SS2等兵~SS大将までの襟章のイラストや、義勇兵部隊の個性的な襟章も・・。

Collar tabs Waffen-SS.jpg

各師団の戦術記号に外国人部隊の袖章。
一番、惹かれたのは、1931年までSSも使用していたという、初期の「SAバックル」です。
「ハーケンクロイツ」の形が特徴です。

Early SA Belt Buckle.jpg

ヘルメットも10数枚の写真で細かく分析した後、1939年~1945年の西部戦線へ。
ドイツ武装親衛隊」ではカラーで「1940年4月の射撃訓練中のポリツァイ師団」と
書かれていたのと同じ写真が、本書では「1940年5月、西方戦役で戦闘中」となっていました。
ホント、写真のキャプションっていうのは難しいですね。

An MG34 of the Waffen SS Polizei Division in France.jpg

東部戦線の写真も20ページほど。
SS重戦車大隊のティーガーや、パンターの写真が多くなってきます。

pz5.jpg

「武装SSの小火器」は最近、勉強中なので興味深かったですね。
特に制式ライフルの「Kar98k」が陸軍からキチンと回ってこないために、
業を煮やしたヒムラーが「ダッハウ強制収容所」に小火器工場を造って、
警察と武装SSへの部品供給を開始した・・と写真付きです。

kz Dachau Factory.jpg

照明弾や小銃榴弾も囚人に作らせ、雇い上げた人間が品質を検査。。
この手の本では、「髑髏部隊」以外に強制収容所にはあまり触れないものですが、
良い視点だと思います。

kz Dachau Bullet.jpg

本書のメインは138ページからでしょうか。
「空飛ぶ親衛隊 降下猟兵500大隊」の特集です。
クルト・リブカSS大尉のもと、パルチザンの首領チトー抹殺のための
「ロッセルスプリュング(騎士の跳躍)作戦」を決行。
しかし、チトーを取り逃がし、1個小隊がユーゴ・パルチザンに包囲されてなぶり殺し・・。
墓地で包囲された部隊も夜を徹しての白兵戦を耐え凌ぐと、
遂にプリンツ・オイゲン師団が救援に現れ、降下猟兵たちの勝どきがあがるのでした・・。
以前に、「WW2ドイツの特殊作戦」でも紹介したこの作戦ですが、
9枚ほどの大きな写真で、8ページ、キッチリとした戦記として良い出来です。

SS-Fallschirmjägerbataillon 500 during Operation Rösselsprung.jpg

最後は「SS装甲軍団 プロホロフカの激闘」と、「ヨーロッパSSの戦い」で、
前者はもう有名なクルスク南部の大戦車戦
本書ではこのプロホロフカだけを取り上げて、「SSの勝ち」と分析。
神妙に会話するハウサー軍団長と、「ダス・ライヒ」の連隊長シュタドラーの2ショット・・
なんて激レアな写真がありますが、キャプションでは「LAH」連隊長となっており、
テンションを上げておいて、一気に落とすというイヤラシイ作りです。。

battle_kursk-tigers.jpg

後者はオランダ人、デンマーク人らから成る「ノルトラント師団」を中心とした
ナルヴァの戦い」を解説したものですが、「泥まみれの虎」は出てきませんよ。

「ドイツ武装親衛隊」でも書きましたが、本書はレア本のようでなかなか売っていません。
突っ込みどころが所々あるのは否めませんが、
まぁ、ソコはあくまで「雑誌」ですから、気楽に楽しむべきでしょう。
「武装SS戦場写真集」と、「第5SS装甲師団「ヴィーキング」写真集 大平原の海賊たちII 」も
ぼちぼちかな・・。











9

誰がキーロフを殺したのか [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロバート・コンクエスト著の「誰がキーロフを殺したのか」を読破しました。

誰がムッソリーニを処刑したか」に続く、「誰が・・」シリーズの第2弾です。
まぁ、そんなシリーズはやっていませんが、レニングラード共産党のボスであり、
スターリンのライバルだったキーロフの暗殺事件を知ったのは、
スターリン -赤い皇帝と廷臣たち-〈上〉」を読んだときです。 
1992年、288ページの著者は、あの恐ろしかった「悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉」の方で、
原著の出版は1988年のソ連崩壊前、原題は「スターリンとキーロフ暗殺事件」です。

誰がキーロフを殺したのか.jpg

最初はまるで小説のような「主な登場人物」です。
ブハーリン、カガノーヴィチ、フルシチョフ、トロツキーといった党の有力政治局員たちに、
ヤーゴダ、エジョフなどのNKVDのトップの名前などが全部で44名。
NKVD内務人民委員代理や、党レニングラード州委員会第一書記といった役職の他に、
1988年時点で存命または死亡年が書かれていますが、
この44名中、30人が1934年~40年の間に銃殺、謀殺、暗殺で死亡・・。
小説だって、登場人物がこんなには死なないですね。。

第1章は「キーロフが暗殺された日」。
1934年12月1日の夕方、レニングラード党本部で銃撃されたキーロフ。
この党本部は、かつて貴族子女の学校だった建物をレーニンが奪取したという壮麗な建物で、
本書にはこの建物も含め、ところどころで写真が掲載されています。
ボリソフというベテラン・ボディガードは建物の中まではついて行かず、
3階の執務室に至るまでに配置されているはずの警備員もいない、怪しいシチュエーション。。

smolny institute.jpg

暗殺者はナガン・リボルバーを手に身を潜め、キーロフの首を背後から撃ち、
自身も気を失って倒れて、駆け付けた係官に逮捕された・・というのがこの暗殺事件です。

犯人はニコラーエフという名の30歳の男で、子供は2人、共産党員ながらも仕事は降格されたり、
党から除名されたりと、大いなる不満を持つ落ちこぼれであったとされています。
そしてこの事件の前、2度も拳銃を持ってキーロフの周辺をうろついてるところを逮捕され、
2度とも上層部の命令によって釈放されているという謎の人物なのです。

Leonid Nikolaev.jpg

1886年生まれのキーロフの生い立ちにも1章割いた後、「キーロフ対スターリン」の章へ。
1933年の中央委員会総会。あのウクライナを中心とした「飢餓テロ」が最高潮に達し、
ロシア共和国内の諸都市でも国民の栄養失調が問題視され、
スターリンの指導体制に危機感を持つ委員が増えてくると、
農民に対し、ずっと融和的な「キーロフ路線」が脚光を浴びてきます。
そして1934年の党大会では、スターリンに反対票が投じられる一方、
キーロフは300票近くスターリンを上回る票を集め、書記長の座も打診されるのです。
結局はキーロフがコレを辞退するものの、モスクワvsレニングラードの構図が・・。

Sergej Kirov_1934.jpg

こうして9月、NKVDレニングラード支局長のメドベドは、キーロフに問題を報告します。
支局長代理のザポロジェッツがNKVD長官であるヤーゴダのモスクワ本部から、
5人のスタッフを連れてきて、勝手に秘密警察部の要職に就けてしまった・・というもの。
キーロフはスターリンに苦情を述べますが、言いくるめられてしまうのでした。
いわゆる内堀が埋められた・・ってところでしょうか。。

ここまで、キーロフが暗殺され、また暗殺されるまでの政治状況が語られてきましたが、
ここからは暗殺後です。
キーロフ暗殺の報を受けたスターリンは直々に調査を行うべく、レニングラードに乗り込みます。
スターリン派であるヴォロシーロフモロトフジダーノフが調査団の構成メンバー。。
さらにはヤーゴダに、その代理であり国家保安局を担当するアグラーノフ、
後にヤーゴダに変わって「大粛清」を手掛けることになるエジョフ・・といった恐ろしい面々も・・。

jagoda_1930.jpg

ナチスに例えれば、ヒトラーを筆頭に、ゲッベルス、ボルマン、ヒムラー、ハイドリヒ、
ハインリヒ・ミュラーがひとつの殺人事件の調査に乗り出したようなものですね。
そういえば、1933年の「国会議事堂放火事件」に似てなくもない気が・・。

キーロフのボディガード、ボリソフは、事件の翌日、護送車の追突事故によってただ一人死亡。
実際には3人の係官たちに鉄の棒で殴り殺されていたのです。
スターリンは事件の捜査をアグラーノフ、政治面での責任者にエジョフを据え、
キーロフの柩を佇立して守護するのです。

Funeral of Kirov 1934.jpg

事件から3週間が過ぎ、犯人ニコラーエフの共犯者が発表されます。
それは古参ボルシェヴィキで前のレニングラードのボス、ジノヴィエフ派のメンバーたち。
ニコラーエフは単独犯ではなく、巨大な黒幕が存在したというシナリオ・・。
もちろん、ジノヴィエフはスターリンの政敵です。

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NKVDレニングラード支局長のメドベドと支局長代理のザポロジェッツでさえ、
「職務上の刑事過失」を問われて3年の刑を宣告されます。
それでもNKVDの要人警護の過失ということは、スターリン自身も暗殺の標的になりうるわけで、
本来の基準なら「関係者全員、即決処刑」になってもおかしくありません。
この2人の流刑地は、シベリア北東部の酷寒の地、コルイマです。
しかし「白い地獄」と呼ばれるコルイマも、この金鉱地帯が国家にとって重要であったため、
1937年までは食料や衣服を充分に与えられた、非常にな健康的な風土だったそうです。
そして2人は丁寧な扱いを受け、責任あるポストまで与えられるというお客さん扱い。

この死の収容所は「極北 コルィマ物語」という本があるので、読んでみたいところです。



スターリンの「シナリオ」はさらに広がりをみせます。
ジノヴィエフと同じく古参ボルシェヴィキのカーメネフらが、トロツキーと共にテロ活動を計画し、
スターリン、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、オルジョニキーゼ、ジダーノフ、そしてキーロフら
党幹部を殺害するためのグループを組織し、実際にキーロフを殺害したというもの。
裁判では自白が重要ですが、その裏には拷問と、家族の命といった脅しが行われ、
公開裁判を受ければ命は助けてやる・・という約束も反故にされて全員銃殺・・。

Kamenev_lenin.jpg

こうして、あの「大粛清」が始まっていくわけですが、
あまりにも対象者が多いため、本書ではキーロフ派とレニングラードに限定して紹介しています。
例を挙げると、「1937年にレニングラードの各地区で選出された新しい65名の委員ですら、
翌年には、わずか2名しか残っていなかった」。

ブハーリン、ルイコフに続いて、NKVD長官だったヤーゴダまでも逮捕されてしまいます。
これまでNKVDに対しては「キーロフ暗殺の過失」を問われていたわけですが、
単なる過失から積極的な共謀の罪・・、ヤーゴダが暗殺の手引きをしていたとされたのです。
もちろん、NKVDのトップに罪があれば、コルイマの2人の命も風前の灯・・。

誰がキーロフを殺したのか_1.jpg

当時、キーロフ暗殺事件から始まった粛清について、ソ連国外で情報が出ています。
亡命していたトロツキーは1935年、「ジノヴィエフ首謀説は、スターリン=ヤーゴダ共謀説の
大掛かりなカモフラージュである」と書き、NKVDといえどもスターリンの示唆なしに、
このような危険な企てを決意するはずもないことは明白であると断言。

Trotsky_1932.jpg

そしてもうひとつ、重要な証言がもたらされたのは日本です。
1938年に日本へ亡命したNKVD極東部門の責任者、リュシコフは、
1939年4月に、日本の総合雑誌「改造」にキーロフ暗殺事件に関する情報を発表します。
彼は1934年~36年にはモスクワのNKVD秘密政治局長代理として捜査を指揮していたそうで、
レニングラード関係者への告発が濡れ衣だったことも明らかにします。

この人が独破戦線で出てくるのは「ゾルゲ」の時以来、2回目だけに、なかなか気になりますねぇ。
「謎の亡命者リュシコフ」と、「粛清―リシュコフ大将亡命記」という2冊を見つけました。

Genrikh Lyushkov.jpg

大粛清が完了すると、キーロフ事件の関係者、および、スターリンの政敵が一掃されて、
この事件は再び闇の中に消えますが、1956年になるとフルシチョフが「秘密報告」を行います。
「キーロフを警護していた男が殺され、次いで彼を殺した者たちも銃殺された。
これは単なる事故ではなく、明らかに計画的な犯罪だろう。
誰がこのような犯罪を行うことができたろうか」。

1956, 70th birth anniversary of Sergei Kirov.jpg

「証言」という問題についての考察は、かなり興味深かったですね。
ちょっと長くなりますが抜粋してみましょう。

刑事裁判では関係者による直接証言といえども、常に真実であるとは限らない。
証人が自らの責任を覆い隠すために、まったくの嘘をつくこともあり得る。
或いは、ちょっとした過失を隠したり、自分をよりよく見せようして、
部分的に嘘をつくこともあるかもしれない。
多かれ少なかれ、無意識に歪曲を行ったり、勝手な想像を述べるケースもある。

多くの歴史研究においては、伝聞の証言だけしか入手できないこともしばしばある。
そのような証言は、これらの様々な虚偽や歪曲を免れない。
おまけに伝聞証言者が、もともとの情報提供者の言葉を誤解することもありうる。
それでも、意図的な場合を除けば、これらの欠点があるからといって、
必ずしも特定の証言が無価値になってしまうわけではない。

人が何かを打ち明ける場合、完全に真実であることは、極々稀であり、
少しの偽りや誤りもないなどということは、滅多にあり得ないのである。
従って様々な欠陥のつきまとう証言から真実を引き出すことは、
法廷としては当たり前の仕事であり、歴史家もまた、同じような義務を負っている。
しかし、歴史家というより、門外漢の学者たちの間で、ある種の情報源を
ただ「信頼できない」と決めつけて、それらをあっさり切り捨ててしまう傾向が見られる。

mikoyan kirov stalin.jpg

いかがでしょうか。
ヴィトゲンシュタインは歴史家でもなければ、研究者でもない、単なるノンフィクション好きですが、
複数ある説のナニを信用するか・・?? というジレンマにはしょっちゅう陥ります。
いままでどんな本を読んでも、その内容のすべてを100%信じたことはありませんし、
明らかな間違いや誤字が多い本は、確かに、読んでいてすべてを信用できなくもなります。

特にナチス・ドイツ関連の本の場合、訳者さんを否定するわけではありませんが、
ドイツ語から英語に、または仏語に翻訳されたものが、さらに日本語になったりしているのです。
その過程で、本来の意味(ジョークや嫌味を含め)が変わることもありうるでしょう。

「証言」ということでは、まさしく「回想録」も特定の人物による「証言」だということができますが、
人間は自身に起こった過去の記憶も、自分の都合の良いように解釈してしまいますから、
歴史的視点から見た場合と乖離するのは当然だと思っています。

最近、パウル・カレルが信用できないとして、参考文献から外される本などというのは、
個人的には安直な回避策だと思いますね。
では、ノンフィクション好きとして、どんな本が面白い本なのか・・というと、
新説がある研究書や、日本で紹介されたことのない部隊、あるいは戦役や作戦、
これまで語られたことのなかった体験談が述べられた本です。
そして、それらの内容が完全な真実であるかどうかは、また別問題なのです。

kaizo.jpg

巻末の「解説」によると本書のタイトルは本文中の一節から取ったそうで、
これは著者コンクエストが世界有数のソ連史研究家というより、
「安楽椅子探偵」として登場しているという、謎解きスタイルを意識したようです。
ただし、本書を好んで読むような人間からしてみれば、
結論を知る前から、「そりゃ犯人はスターリンだろ・・」と思っている訳であり、
ドラマチックな大どんでん返しに驚きを隠せない・・なんてことにはなりません。
それでも一介の暗殺者ニコラーエフが弾いたナガン・リボルバーのトリガーが、
「大粛清」のトリガーでもあったということを教えてくれた一冊でした。

Nagant revolver.jpg

また、コンクエストの著作紹介では、「悲しみの収穫」のほか、
「スターリンの恐怖政治」がありますが、これは原題が「大粛清」なんですね。
上下巻の大作で、amazonでも2冊揃いで7000円・・とレア本のようです。
ソレと本書を経て結実したのが、「スターリン―ユーラシアの亡霊」であり、
見事に描かれた伝記として、ニューヨーク・タイムズが1991年の推薦図書に挙げたそうな・・。
でも一番読んでみたいのは、「コルイマ -北極の死の強制収容所-」ですが、
残念ながら未翻訳。。得てして無いものネダリなんですよね。













ナチスと動物 -ペット・スケープゴート・ホロコースト- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ボリア・サックス著の「ナチスと動物」を読破しました。

2002年に出た310ページの本書の存在に気が付いたのは、
健康帝国ナチス」を読んだ時だったでしょうか。
ただ、どこにも書評が書かれていなく、面白いのかどうなのか・・??
とりあえず、以下のamazonの情報だけを頼りに。
「生き物を偏愛し、ペット愛玩から屠殺法まで、詳細を極めたナチスの動物愛護の仕方。
その生命観が、なぜ極端な人種差別と死の強制収容所へと走らせたのか。
『血と大地』というヒトラーの純血主義の陥穽を、動物という身近な視点から大胆に解明―。 」
これだけ読んでもいまいち内容が伝わってきませんが、はたしてどんなもんでしょう。

ナチスと動物.jpg

冒頭で著者は、「動物に対するナチスの複雑かつ時には辻褄の合わない態度に焦点を当て、
ナチスが従来概念の「人間」と「動物」の区別ではなく、「主人」と「奴隷」の区別を持っていたとし、
アウシュヴィッツ所長のルドルフ・ヘースがロシア人戦争捕虜について語った言葉、
「やつらはもう人間ではない。食うことしか頭にない獣になり果てやがった」や、
トレブリンカのクルト・フランツが囚人に犬をけしかける際に怒鳴った言葉、
「おい、人間ども、犬に噛みつけ!」を紹介します。

「人間と類人猿の間の過渡的存在」とする見識まであったというユダヤ人については、
機関誌「デア・シュテュルマー」の風刺漫画を掲載して、その猿顔に描かれたユダヤ人の姿や、
編集者のナチズムの狂犬、シュトライヒャーのユダヤ人を「人殺し民族」とみなす奇怪な妄想と、
その飼い主である「菜食主義者」ヒトラーにとって、手に負えなくなっていたことにも言及します。
フランケンの大管区指導者でもあった彼は、ユダヤ商人250人に対し、
「牛として自分の歯で草を噛み取る作業」を命じたり、悪名高い好色家の本領を発揮して、
「アーリア人の処女を奪う架空のユダヤ人を妄想」して、身代わりの悦楽に耽るのです。
ついに「指導者として不適」との烙印を押されて、権力を奪われ、田舎に引っ込むことに・・。

streicher_julius.jpg

絶対に近い純潔の理想を掲げながらも、そんな退廃の汚辱にまみれていたとして、
マチアス・パドゥアの「レダと白鳥」がポルノまがいの獣姦の描写で評判になると、
ヒトラーは直ちにコレを購入したとか、蛇との抱擁に耽る女を描いたお気に入りの画家、
フォン・シュトレックの作品を眺めては悦に入った・・と書かれていますが、
古典的な裸体の絵画をヒトラーは好んでいただけで、エロい悪趣味と考えるのはどうかなぁ・・?

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第6章は「生贄の豚」です。
ヒムラーにも大きな影響を与えたヴァルター・ダレを取り上げて、
単純で誠実で大地と深く結びついた農民たちの世界を夢見た彼の「血と土」に言及。
そしてダレはドイツ人にとって豚が最良の動物と推奨します。
「豚は北方の森林のドングリなどを食べて大いに繁殖する。
生贄の豚は古代アーリア人の女神に最も好まれた動物だった」。

SS-Totenkopf-Pig.jpg

次の章は「アーリア人の狼」で、これにピンと来た方は第三帝国マニアですね。
それはヒトラーが好んで使ったニックネームが「狼」であり、「ヴォルフおじさん」とか、
独ソ戦の大本営が「ヴォルフスシャンツェ」などが有名です。
第三帝国を象徴する動物である「アドラー(鷲)」を含めて、イメージは捕食動物であり、
いくらダレが推奨したからといって、「豚」ではよろしくありません。

The-Wehrmacht-Pig.jpg

そして「犬」。
20世紀の初頭、「原始のゲルマン犬」と称する品種が交配によって再現され、
今日「ジャーマンシェパード」と呼ばれることとなります。
競走馬のサラブレットのように純血な交配は各国でも行われてきており、
ナチスも切手にするなど、力を入れていますが、
「馬やロバの品種改良に熱心な人々が、人間のそれにまったく無頓着なのは、
悲劇的としか言いようがない」と語るのは、ローゼンベルクです。
現代社会でもサラブレットがレースを制し、雑種はしばしば捨てられるか「安楽死」処分。
ナチスもこれと同様に、人種的に純粋でない人間は安楽死処分して当然と考えたとしています。

nazi-dog-officer.jpg

第1次大戦の塹壕の中、迷い込んできた犬を溺愛したヒトラーは、
ブロンディと名付けたジャーマンシェパードを自殺の間際まで可愛がり、
寂しさを訴えるエヴァには2匹のテリアをプレゼントします。
ココではそんな犬好きヒトラーのエピソードもいくつか紹介。

hitler-with-dog-on-lead.jpg

前線の兵士たちも常時、犬を同行しています。
勇敢さや攻撃性向などの資質は兵士の模範とされ、犬の飼育、訓練、品種改良には、
SSが当たり、強制収容所の囚人監視にも犬は駆り出されます。

Waffen-SS and his German shepherd.jpg

しかし兵士たちの戦友といえば、やはり「馬」です。
強いが野蛮でも獰猛でもない馬は、規律正しいプロの軍人のシンボルでもあり、
「物言わぬ戦友、忠実な手助け、あらゆる義務を果たす馬こそ我らの武装した戦友である」。
第2次大戦では騎兵だけでなく、輸送用として兵4人に対し、1頭が与えられます。
占領したソ連からは100万頭を奪い、ポーランドやその他の占領地からも徴用。

Horse drawn wagon of Wehrmacht Crossing the bridge.jpg

またナチスとしては馬を記念牌的な彫像の対象にも採用し、アルノ・ブレーカーの他、
ヨゼフ・トーラックの手による巨大な彫像がニュルンベルクのマース広場に姿を現します。
本書では所々で写真や新聞の挿絵が掲載されていて、
1938年に掲載されたトーラックの「世界最大のアトリエ」の絵入り新聞も載っていました。

Josef Thorak_Hitler .jpg

このような犬や馬といった軍務についた動物たち。
あの「図説 死刑全書」のシリーズに、「図説 動物兵士全書」がありました。
ソ連の「地雷犬」とか出てくるんでしょうか?? ちょっと気になります。



健康帝国ナチス」の最後でも触れられていた「ペルンコップ解剖学」問題も紹介した後、
「動物の扱いに関するナチスの法律」へと進みます。
1933年4月には、早くも動物の屠殺に関する法律を議決し、
屠殺に先立っては動物に麻酔をかけるか、特殊なハンマーなどによる頭部への一撃で
気絶させることを定めます。
ユダヤ人の伝統的な喉を切り裂いて放血させるという「コーシャ屠殺」はこれによって禁止。

Giftpilz, herausgegeben von Julius Streicher.jpg

動物好きでライオンまで飼っていたゲーリングは、次々と法律を改定し、
動物保護法の禁止事項は詳細を極め、慣れた動物を野生に放つこと、
動物を公共の娯楽で使うことなどが禁止となっていきます。

hermann goering tiger lion cub baby child children luftwaffe 5 April 1936.jpg

1936年には「魚類」も哺乳類と同様に、殺す前に麻酔をかけるよう定められます。
やり方は目の上に強い打撃を与えるか、電流を用いること・・。
ウナギ目は皮に切れ目を入れて心臓を摘出して殺しても良いとされ、
生きている甲殻類を水から沸騰させて、その内臓を抜くことは禁止。

Fishing stories from Ostfront! Soldiers from Germania regiment have had good fishing luck.jpg

ただし、ロブスターなどの甲殻類は沸騰状態の湯銭に入れて、
絶命を瞬時にかつ確実に行うことはよいとされます。
最近、「魚に怖くて触れな~い」とか、「こっち見てる気がしてさばけな~い」なんて言う、
女の子が(日本男子も!)たまにいるようですが、まったく困ったもんですね。。

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著名な動物学者が実験で麻酔をかけたミミズを切ったところ、わずかに動いたミミズが一匹。
それを目撃した学生のひとりが密告し、内務省(ゲシュタポ?)から叱責される学者・・。

もちろん列車や自動車による馬、牛、豚、鶏の輸送方法もこと細かく定められ、
求められる空間の容量に、適切な清掃、充分な食料を与えることに加え、
動物虐待行為があった場合には、徹底的な責任追及が行われます。
そして、コレと真逆な輸送方法が、人間の強制収容所への輸送方法なのです。

Cracow Jews boarding a boxcar for deportation.jpg

狩猟大好きゲーリングは、「自然保護法」を定めて、帝国狩猟長官と帝国森林長官を兼任。
罠を仕掛けることや、非人道的とみなされた弾薬類は使用禁止。
17世紀初頭に絶滅したヨーロッパ野牛、オーロックを復活させることを目指し、
米国のバッファローを含む、各種ウシ属を交配して、オーロックの再現に成功したと主張するも、
一頭も生き長らえることはなかったそうな・・。

この狩猟についてはヒトラーのナチス政策というより、完全なゲーリングの趣味だと思いますね。
ヒトラーは「猟銃でウサギを殺すのは男らしくない」という考え方ですし、
ヒムラーも「罪のない動物を欲望のために殺するのは可哀そう・・」という立場です。

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戦時体制に入った食肉産業。
ドレスデンの巨大な食肉処理場は空前の活況を呈し、前線の兵士に向けて
24時間体制での操業を続けます。
動物の大半が占領地域から運び込まれただけではなく、労働者も占領地域から強制的に・・。
あのクルスクからだけでも28万頭の牛、25万匹の豚、42万匹の羊を強奪したそうです。
屠殺は閉め切った空間のみで肉職人が行うこととされ、麻酔を使用しなくても良いケースは、
ナイフの一振りで首を切り落とすことができる「鶏」のみです。

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この意図的に一般大衆の目から遮断された食肉処理場。
従業員の行動様式は、殺しを楽しむように動物をじっくりといたぶる者、
しかし大多数はこの仕事を心理的に切り離し、機械的に屠殺を行い、
また、儀式などの助けを得て、動物の苦痛を進んで軽減しようとする者に分かれ、
このような行動は「普通の人びと -ホロコーストと第101警察予備大隊-」に書かれていた
「ユダヤ人狩り」に進んで参加する者、これを避けようとする者とずばり一致するとしています。

アル・カポネが牛耳っていたシカゴでも食肉処理場は特に暗黒の部分であり、
殺し屋は牛と豚の屠殺から闇の人生をスタートさせる、非公式の訓練場だったいう話まで・・。
そういえば、最近観た「ゴッド・オブ・バイオレンス/シベリアの狼たち」という映画で、
吊るされた精肉相手にジョン・マルコヴィッチがナイフの使い方教えるシーンがありました。

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この「屠殺」の章では、子供の頃に聞いた千住にあったという屠殺場のことを思い出しました。
「あそこで働いている人は○○だから、行っちゃいかん・・」みたいな怖い話だったですが、
○○が何だったのか覚えていなくて、ちょっと調べてみると、
「賤民」や「部落」などという差別問題なんですね。

本書は章ごとにナチスに触れる前に、古代ローマ時代から中世の動物にまつわる話が多く、
それはそれで勉強にはなりますが、興味がなければ、結構、読み飛ばしてしまうでしょう。

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それはともかく本書では、ナチスが定めた人道的な法律の多くについて、
「正しかったと私たちは認める必要があり、動物には優しく、人間には時に残酷という、
ナチスの心理構造は、西欧文化に広く見られる傾向であった」としています。
最終的に本書が「ガス室はナチスの言う『安楽死』を目的としていた」と言いたかったのであれば、
その動物愛護と慈悲深い屠殺方法が「ホロコーストの手順」にも影響していたと納得できます。
ただ、ハッキリとそうだと宣言しているわけではないのがスッキリしませんね。

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またガス室での大量殺害方法に至った経緯は、
「静かに、素早く、大量に、確実に」を突き詰めたものであり、
①被処刑者をパニックに陥れることなく、
②処刑者が面と向かって手を下す精神的負担を減らす・・、
ということが、まず大きな理由だと、個人的には思っています。
ですから、慈悲深い措置という思いがいくらかはあったにせよ、順番としては3番目以降でしょう。

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ニューヨーク出身の著者による西洋の肉食文化が基準になっているとはいえ、
スーパーで売っている肉片しか見たことのない日本人も、
まるでタブー視されているかのような屠殺現場を知ったうえで、
改めて料理する、そして動物を食するという意味を考える必要があるとも感じた一冊でした。







総員起シ [日本]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

吉村 昭 著の「総員起シ」を読破しました。

先日の「深海の使者」から、スッカリ著者に興味を抱くようになって、数冊まとめ買いしました。
本書は「深海の使者」、「関東大震災」の2年前、1971年に書かれたもので、
何度か文庫化され、今年の1月に「新装版」として発刊された一冊です。
317ページに5つのお話が収められた短編集であり、いずれも太平洋戦争を題材としています。
最初に書いておきますが、今回は「完全ネタバレ」ですので、ご注意を・・。
しかも、可憐な女性の方が深夜に読むには、ちょっと怖いかも知れません。

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最初は「海の柩」というお話。
北海道の小漁村に多数の兵士の死体が流れ着きます。
1日目には182体・・。将校の遺体はなく、ほとんどの襟章は一つ星。
村人は総出で遺体を収容しますが、腕のない死体が半数を占めていることを不審に思います。
手首が無い者、上腕から切断されている者・・。

生きて村落に辿り着いた陸軍将校は、沖合で輸送船が潜水艦の雷撃を受けて沈没、
2,3隻の漁船を出して生存者を救助して欲しい・・と語ります。
しかし、沖合は人の群れでとても収容しきれません。
3隻の上陸用舟艇で救助にも行こうとしない将校たちに対し、不満が爆発します。
「この船を出してください」と組合長。
大尉は言います。「すまんが、お前らだけでやってくれ」

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300人をなんとか救助しますが、600体近い遺体が漂着。
生き残り将校たちの不信な態度、トラックでやって来た中尉と憲兵は、
多くの兵の死体を目にしたことを決して他言してはならぬ・・と村長らを脅すのでした。

戦後、当事者の将校にインタビューする著者。
すでに沖縄に米軍が上陸し、占守島で編成された補充部隊が
逆上陸するための移動中に米潜水艦に撃沈された状況を語ります。

「舟艇に乗ったのは将校のみですね」
「主にそうです」
「兵士の腕を切りましたか」
「私は切りませんよ。暗号文を抱いてましたから・・」
「切った将校もいたのですね」
「船べりに手が重なってきました。海面は兵の体でうずまり、
乗ってくれば沈むということよりも、船べりを覆った手が恐ろしくてたまりませんでした。
将校が一斉に軍刀を抜きました。手に対する恐怖が軍刀をふるわせたのです。
切っても、切っても、また新たな手がつかまってきました」
「腕を切られた兵士は沈んでいきましたか」
「そうです。しかし、そのまま泳いでいる者もいました」
「兵士たちは何か言いましたか」
「天皇陛下万歳、と叫んでいました」。

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この50ページ弱の話の次は、「手首の記憶」です。
去年、「樺太」で起こった「真岡郵便電信局事件」、
九人の乙女 一瞬の夏―「終戦悲話」樺太・真岡郵便局電話交換手の自決」を紹介しましたが、
本書の話は同時期に同じ「樺太」で起こった、看護婦集団自決です。
太平炭鉱病院に勤務していた23名の看護婦たち。
33歳の看護長が最年長でほとんどが10代と20代、最年少は16歳です。

8月15日の終戦を告げる放送の翌日、上陸してきたソ連軍。
ソ連機が避難民に銃撃を浴びせかけていることから考えても、
ソ連兵たちが自分たちを凌辱し、殺害する可能性が高い・・。
3㌔先までソ連軍が迫っていたことを知ると、重傷患者らは口々に叫びます。
「早く逃げてください。
若い女たちであるあなたたちを犠牲には出来ない。
早く逃げろ、逃げるんだ」。

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暗闇のなか、一団となって退避する看護婦たち。
しかし、すでにソ連兵に退路を断たれていることを悟ると、婦長がみんなに告げます。
「これから歩いて行っても、無事に逃げられるかどうかわからない。
むしろ敵につかまって惨めなことになる公算の方が大きい。
私にも、あなた方若い人たちを守っていける自信がなくなった。
あなたたちを綺麗な身体で親御さんにお返しすることは出来そうもない。
日本婦人らしく潔く死のうと決めたが、あなたたちもついてきてくれる?」

一人ひとりに注射器で多量の睡眠薬が注射され、
婦長が手にしたメスで彼女たちの手首の血管を切っていきます。
それでも生き返ってしまった看護婦が数名。
自分でメスを突き立てたり、包帯で首を自分で絞めてみるものの、
絶命したのは婦長と、24歳の副婦長ら6名で、17名が奇跡的にも生存していたのです。

戦火もやみ、同僚の遺体を荼毘に付して、再び、病院で勤務する彼女たち。
彼女たちの自殺事件はソ連軍の知るところにもなりますが、
ソ連兵は手首に白い包帯を巻いた彼女たちに畏怖を感じるらしく、
近づくことも声をかけることもないのでした。

平成4年になって、札幌護国神社内に慰霊碑が建てられたようです。

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「烏の浜」は、同じく「九人の乙女」でも触れた、避難民を満載した「小笠原丸」が
国籍不明の潜水艦の雷撃を受けて沈没した話。

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4話目の「剃刀」は沖縄戦が舞台です。
沖縄防衛軍司令官の牛島中将と、長参謀長の割腹自決でこの戦いは終了しますが、
米軍司令官バックナー中将も戦死しています。おっと、全然、知らなかった。。
司令部と戦闘の終焉の地である摩文仁を訪れた著者は、
「洞窟壕を出て、近くの巌頭に座り古式に則った切腹をして、部下が首をはねた」
というガイドの説明に疑問を持ちます。
他の書物でも「白衣をつけて月光の下で割腹した」と書かれているなど、
米軍の激しい攻撃のなか、そんな芝居がかったものであるとは考えられないのです。

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最終的には、壕の奥でまず参謀長が割腹し、坂口大尉が介錯、
続いて牛島司令官が・・。その他の上官たちはピストル自殺をし、
軍司令官と参謀長の首は、吉野中尉がどこかに埋めたらしい・・という証言を得ます。
そして米軍の資料である、両将軍の遺体が写った写真を思い浮かべる著者。

気になって調べてみましたが、確かにこの写真がありました。
手前が長参謀長で、奥が牛島司令官と云われているそうですが、証拠はありません。
それどころか、この2人ではなく、別の将校の可能性もあるようです。
また頭部も写っており、首を埋めた・・という件でも何も見つかっていないそうな。。
米軍によると青酸カリ自殺ともされており、それはなくても切腹ではなく、
ピストル自殺だった可能性もあるでしょう。

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最後は本書のタイトルでもある「総員起シ」。
海軍で言うところの「起床!」っていう意味だそうですね。
昭和17年に竣工された一等潜水艦「伊33」。
完成後、トラック島泊地に入港するも、修理中に沈没・・。
艦名と同じ、33名が殉職します。
沈没位置は水深36mで、なんとか引き上げに成功しますが、
この水深も「33m」とした、恐怖のサンサンの呪いとしている場合があるようです。

その後の昭和19年、急速潜航訓練中に浸水してまたもや沈没。
乗員104名が閉じ込められてしまうのです。
和田艦長が命じる「メインタンク、ブロー」で20mまで浮上しますが、万策尽き、
艦橋へ通じるハッチからの脱出を試みて、遂に2名が成功。
しかし60mの海底に沈んだ「伊33」を引き上げることは技術的に可能でも、
敵機の空襲も激化し、戦局の急迫した今、海軍にその余力はないのでした。

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戦後となった昭和28年、戦時中に沈没した艦船を引き上げてスクラップにすることで
かなりの利益を上げられるサルベージ会社が活発となり、「伊33」もその対象に・・。
数ヵ月に及ぶ引き揚げ作業の過程が詳細に書かれ、
潜望鏡が海面まで上がってくると、100名の遺体が残されたままの「伊33」を
多くの新聞社が連日のように報道します。

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7月、遂に浮上した「伊33」にカメラを持って乗り込む中国新聞社の白石記者。
作業員がハッチを開けると、噴出した得体の知れぬ強烈な臭気に短い叫び声が。。
「中にはガスが充満しているんだ。危ないから換気するまで待て」という声も聞かず、
懐中電灯とカメラの閃光電球を手に、息を止めて前部兵員室に飛び込んだ白石記者は、
シャッターボタンと同時に光る電球の一瞬の明るさのなかに、多くの男を目撃します。

事故から9年・・、兵員室には遺骨が散乱しているはずなのに、
黒々とした髪に皮膚も筋肉もついた男たちがベッドに横たわっているのです。
まるで「総員起シ」の命令がかかれば、今にも飛び起きそうなその姿。
恐怖と息苦しさから何度も外に出ては再びハッチに潜り込み、写真を撮り続ける白石記者。

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そして、直立した男の姿が・・。
白い臀部が見え、引き締まった腿から足首にかけて逞しい線が描かれた、
立ったままの遺体。
上方から鉄鎖が垂れ、それが男の首に深く食い込んだままの首つり遺体なのです。
ずれた褌から隆々と勃起した男根がそのままに。。

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その区画の酸素はすべて男たちによって吸い尽くされ、酸素が絶えたことは、
区画内の雑菌の活動も停止させ、さらに海底の低い温度が腐敗作用を妨げていたのです。
そして立っている男は頑強な身体ゆえ、容易に死が訪れず、
その孤独さに耐えかねて、自ら鎖を首に絡ませたと想像されます。
彼らの13名の遺体は棺に納められると、時間と共に急速に腐敗が進んでいくのでした。

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いや~、面白かったです。
特に第1話と第5話は、読んでいてゾッとしました。
ちなみに首つり遺体が勃起していた件は、本書でも「生理現象」と推測されていますが、
確かにHの最中に首を絞めると勃起が持続する・・とか、
ドアノブに引っ掛けた紐で首を絞めながらセンズリしてて、死んじゃった・・
なんて話を何度か聞いたことがありますね。

著者について調べてみると、「ノンフィクション小説」という表現が出てきます。
個人的には「小説 = フィクション」と考えていましたので、
「ノンフィクション・フィクション」という意味不明なジャンルになってしまいました。
戦時の出来事を語れる関係者がいなくなってきたことから、
1980年以降は「歴史小説」を書かれたようで、
そういうことでは1970年代の作品は、「ノンフィクション」、または「戦記」で良い気もします。
内容は「ノンフィクション」なのに、「小説風」という意味なんでしょうか??
同じく短編集の「帰艦セズ」、それと「羆嵐」も買いましたので、読んでみます。





 



消えた将校たち -カチンの森虐殺事件- [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

J.K.ザヴォドニー著の「消えた将校たち」を読破しました。

2009年に公開されたアンジェイ・ワイダ監督の映画「カティンの森」。
当時、その映画の原作本を先に読んで、映画も鑑賞しましたがインパクトありましたねぇ。
それ以降、何度かこのBlogでも取り上げたことのある事件ですが、
2010年に出た最新の研究書「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」をチェックしつつも、
2012年に同じみすず書房から出た280ページの本書を選んだ理由は、
「カティンの森の夜と霧」という1963年の古い本を大幅に改訂した新版であり、
1944年のワルシャワ蜂起にも参加した著者による、冷戦時代の謎解きのような内容・・
という紹介に惹かれたことです。

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1939年8月31日、ハイドリヒの命を受けたナウヨックスによってグライヴィッツ事件が起こり、
翌日、ドイツ軍によるポーランド侵攻が始まります。
ポーランド政府はルーマニアへと逃れ、東から侵攻してきたソ連軍とに分割されるポーランド。
ドイツ占領下はハンス・フランクが「ポーランドのドイツ人国王」を自認し、
一方のソ連占領下では、すぐさまソ連北部への大量国外追放が始まって、
一家全員が無理やり列車に積み込まれ、その人数は120万と推測されます。

それとは別にソ連軍に捕虜として捕えられたポーランド軍将兵は25万人。
その内、将校は1万人です。
そして8000人以上の将校を含む、15000人の捕虜が完全に地上から姿を消えうせ、
この行方不明者の運命を辿るのが本書の目的としています。

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独ソの侵攻から2年後の1941年7月、ロンドンのポーランド亡命政府とソ連の間で、
正式に外交協定が交わされます。
ソ連がドイツに襲われた結果、英ポとソ連は手を組むことになったのです。
議定書には「ソ連で自由を剥奪されているポーランド人捕虜と市民に対する大赦」が明記。
元捕虜による在ソ連ポーランド軍が編成され、釈放されたアンデルス将軍が指揮を執ることに・・。

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しかし毎日、数千人単位でやってくる釈放された捕虜たちですが、将校は滅多に現れません。
14人いるはずの将軍も、現れたのはわずかに2人だけ。。
高級参謀将校300名もやってきたのはたった6人。大多数が行方不明なのです。
労働収容所中央管理局(グラーグ)に問い合わせても埒が明かず、
逆に勝手に動き回っていることをNKVDから抗議される始末・・。
遂に外交レベルの捜索へと発展し、ロンドンのシコルスキ将軍はモスクワへと飛び立ちます。
「彼らはどこにいるのか?」という執拗な問いに、スターリンは答えます。
「彼らは満州へ逃亡した」。

あらゆる努力にもかかわらず、たった一つの手がかりすら掴めずに1年8ヶ月が過ぎると、
1943年2月、スモレンスクの西方数㌔に駐屯していたドイツ軍部隊が
「革長靴を履き、胸には勲章を付けたままのポーランド軍将校の死体」を多数発見するのでした。

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4月9日の「ゲッベルスの日記」には、この事件について記載されています。
「ボルシェヴィキはポーランド人捕虜1万人をあっさりと撃ち殺し、
穴に放り込んで埋めてしまった・・」。
そして宣伝大臣の本領を発揮して、ドイツのラジオ放送は全世界に発表。
連合国の一政府が同盟国の将校団の半分近くを殺してしまったことを暴露することで、
その連合国の結束に亀裂を入れることを狙ったものです。
1943年4月、すなわちスターリングラード戦と、クルスク戦の間・・という時期がミソですね。

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2日後にはソ連が声明を発表します。
「1941年に建設工事に従事していたポーランド軍捕虜は、
ドイツ・ファシストの死刑執行人の手に落ち・・」。
ナチス占領下の人々や連合国は、ドイツの言うことなど信用しません。
そこでゲッベルスとヒムラーは12か国から成る国際調査団を要請。
ベルギー、ブルガリア、デンマーク、フィンランド、オランダ、チェコ、ルーマニア、スイスといった
国々の著名な法医学の学者や専門家が、完全な行動の自由のもとに解剖を行います。
さらにはポーランド赤十字の医学チームもやって来ますが、このチームには
地下組織の秘密メンバーも含まれていて、ロンドンの亡命政府へ情報を伝えるのです。

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犠牲者は冬外装を着て、白い縄で両手を後ろ手に縛られ、その縄はソ連製であることが判明。
おがくずを口いっぱいに詰め込まれた遺体もあれば、腕や腿に銃剣の傷がある遺体も・・。
必死に抵抗した彼らの傷は、ソ連軍が使用していた銃剣によるものということもわかります。

ポケットの中は個人情報の宝庫であり、身分証明書に日記や手紙、写真の数々。
立ち合ったポーランド人もこれらが本物であることを確認します。

Katyn, Öffnung der Massengräber, polnische Rot-Kreuz-Mitarbeiter.jpg

予備役将校の遺体が多いのも特徴です。
数百人の法律家と小中高校員、21名の大学教授、300名の医者やジャーナリスト・・。
また、女性もひとり含まれます。
彼女はソ連の捕虜となっていたポーランド空軍の中尉で、
調べたところ、Janina Lewandowskaという名だと思いますね。

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4000体を超す遺体がこのカチンの森から発見され、埋められたのは1940年の春と特定。
独ソ戦の始まる1年以上前であり、当時、ここはNKVDの保養所だったのです。
あ~、映画「カティンの森」のシーンを思い出しますねぇ。観てて怖かったです。

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この当時、ワルシャワにいた著者。この事件は大ニュースとして伝わりますが、
ドイツの宣伝にも関わらず、下手人が誰かは確信が持てません。
なぜなら、あのシュトロープ将軍による「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の大鎮圧作戦
ポーランド側から言えば「集団殺戮」が同じ時期、1943年4月には始まっていたからです。

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ソ連はポーランド政府に対し、「カチンの虐殺がドイツの犯行である」という
声明を出すように求め、それを拒否するポーランド政府。
腹を立てたスターリンはルーズヴェルトとチャーチルへ書簡を送ります。
「現在のポーランド政府がヒトラー政府と共謀するまで堕落し、事実上ソ連との同盟関係を断ち、
敵対的態度を取るようになったと見なさざるを得ない。
この理由により、ソ連政府はポーランド政府との断交を決定した」。

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チャーチルはシコルスキ将軍にお灸をすえ、忠告します。
「もし死んでいるのなら、何をしようと彼らを生き返らせることは出来ない」。
また、ルーズヴェルトの反応も同様です。
そんなシコルスキ将軍の乗った搭乗機が7月4日に墜落・・。
一応は事故ですが、タイミング的に「謀殺」説が強いそうな。。

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ドイツ軍が埋め直した遺体が再び、掘り返されます。
このカチンの森まで進撃してきたソ連軍が改めて調査を行おうとしているのです。
結局、ドイツの報告書の1/15ほど、ポーランド調査団の1/20の報告書を作成。
もちろん都合の悪いことには一切、触れられません。

こうして終戦を迎え、始まったニュルンベルク裁判では、米英の反対を押し切り、
「ドイツによるカチンの森虐殺」を告発するソ連。
ソ連側の証人には1943年にドイツが組織した国際調査団のひとりである
ブルガリア人のマルコフ博士が含まれ、
博士はかつての自説を完全に覆し、全員がドイツに強制されて署名したと証言します。
実は「ドイツがやった」と主張したマルコフは、ブルガリアへ進軍してきたソ連軍によって逮捕、
数ヵ月の投獄の後、国際調査団に参加したことで「人民の敵」の罪を認めていたのです。。
ソ連側検察は奮戦するも、関与したとされるドイツ人の反論の前に告発はウヤムヤに・・。
英空軍将校の捕虜50名が殺害された「ザガン事件(『大脱走』)」については徹底的に究明され、
関係者が裁かれたものの、ポーランド人捕虜4000人の死は無視されるのでした。

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実はここまでの経緯は本書の前半部分で書かれ、中盤からは虐殺の再現へ・・。
1939年に捕らわれたポーランド兵25万人は138か所の収容所に集められ、
そのうちソ連領内の3ヵ所の収容所の捕虜が虐殺の対象となります。
半年間、NKVDから徹底的に尋問され、思想教化が図られ、448人が合格。
大多数が「ポーランドに送還される!」という噂が意図的に流され、出発する捕虜の名簿が発表。
先陣を切るのは将軍たちで、盛大な喝采を浴びながら収容所を出発します。
残された448名は希望を失いつつありますが、実は彼等こそが生き残れるのです。

比較するのは不謹慎ながらも、映画「コーラスライン」の最終選考シーン・・、
名前を呼ばれて一歩出て、合格と信じて笑みを浮かべたのも束の間、「お疲れさん・・」、
を思い出してしまいました。

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ベルリング大佐は思想教化された生残りとして、NKVD長官のベリヤに食事に招かれます。
ポーランド軍装甲師団をつくりたいと述べるベリヤに、部下の将校を呼びたいと語るベルリング。
ベリヤは答えます。「我々は大変な失敗をした。大変な誤りを犯した・・」。

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独ソ戦が始まるとベルリングは、アンデルス将軍の新ポーランド軍に入隊しますが、
一年後には脱走。
アンデルス部隊は英第8軍と合流するために中東方面に向けて出発し、
英国構成部隊として、モンテ・カッシーノで甚大な死傷者を出しながらも勝利。

1943年にポーランド共産主義者が組織したポーランド部隊を率いることになったベルリング。
こちらの部隊は赤軍に加わり、ベルリン攻略に挑むのです。
ふ~ん。「スターリンの外人部隊」を再読したくなってきましたねぇ。

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なぜ、ソ連がポーランド将校を大量虐殺したのか・・?
本書では様々な角度からその理由を探りますが、こんなエピソードも。
1943年にカチンの森が発見されたというニュースがドイツの捕虜収容所にも伝わります。
ここにはベルギー、ポーランド、ロシアの捕虜が収容されていますが、
超有名な捕虜、ヤコフ・ジュガシヴィリ、すなわちスターリンの息子の姿もあります。

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「1万のポーランド人が殺されたくらいでこんなに騒ぎ立てるとは何事かね?
ウクライナの集団農場化のときには300万人くらいが死んだぞ!
ポーランド軍将校・・あの連中は知識人で、我々にとって最大の危険分子だ。
絶滅しなければならなかった」。
ついでに、ドイツの残忍な方法と違って、人道的な方法で絶滅されたから安心しろ・・と語ります。

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戦後、共産主義政権となった著者の母国ポーランドではカチン事件に触れられることも少なく、
相変わらず、ドイツ軍によるもの・・と結論付けた研究書が出版されます。
また、著者はルーズヴェルトもチャーチルも、ソ連政府を犯人とするより、
ソ連を反ドイツ陣営に引き留めておくことが大事であり、なにより勝利が優先し、真実を封印する。
そして戦後も、国連組織にソ連の協力を確保する方が大事だった・・と理解しています。
最後には戦勝国の犯罪、敗戦国の犯罪にかかわりなく、審理する法廷の必要性を訴えます。

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本書の発刊当時は冷戦時代であり、未解決であったこの事件は、
単なるポーランド軍将兵の虐殺という問題だけでなく、
後の独ソ戦によるドイツ軍捕虜に対する「思想教化」、朝鮮戦争の捕虜に至るまで裏で指揮し、
国際的な大きな懸念であったことが伝わってきました。

末尾の「解説」で2012年現在の最新の情報が書かれていました。
この「カチンの森事件」の被害者は最大2万5千人であり、その現場は複数に及びます。
2001年になってもキエフ郊外の森で2000人の遺体が発見されており、
ゴルバチョフが明らかにした後も、封印されていたすべての資料が公開されておらず、
全ての発掘も終わっていない・・、この事件はまだ進行形なんですね。
ロシア人学者の書いた「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」も読み比べしたくなりました。








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