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ヤークトパンター戦車隊戦闘記録集 -第654重戦車駆逐大隊- [パンツァー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

カールハインツ・ミュンヒ著の「ヤークトパンター戦車隊戦闘記録集」を読破しました。

2010年に登場した大判の627ページ、8925円の本書。
ようやく古書価格が6000円を切ったところで購入しました。
こんなところが妥当でしょう。。
姉妹大隊の「第653重戦車駆逐大隊戦闘記録集」をやっつけたのが2年前ですから、
予想以上に時間が経ってしまいましたね。

ヤークトパンター戦車隊.jpg

1ページ目からはいつものように「装備車両の塗装とマーキング」がカラーで・・。
ツィタデレ作戦のフェルディナンドを中心に、もちろんヤークトパンター、
それから大隊本部中隊のパンター指揮戦車、回収小隊のベルゲパンターに、
Ⅳ号対空戦車のヴィルベルヴィントなどがカラーイラストで紹介されます。
カラー写真も3枚。そのうちヴィンターベルクで乗り捨てられたヤークトパンターは
有名なヤツですね。
この写真 ↓ 死んだ巨大未確認動物に一瞬見えるんです。

Knocked Out Jagdpanther.jpg

大隊の歴史が簡単に語られた後、本文が始まります。
「第654戦車駆逐大隊の創設と作戦行動」で、1939年8月-1940年7月まで。
この創設当時は「ただの戦車駆逐大隊」で、「重」は付いていません。
最新兵器である3.7㎝対戦車砲(PaK35/36)を36門、
弾薬輸送用トラックで牽引するという、
タイトルのヤークトパンター戦車隊とは似ても似つかぬ独立大隊です。

西方電撃戦ではヘプナーの第16軍団として第3装甲師団に隷属し、オランダへ侵攻。
ベルギー領内に入ると第4装甲師団に配属され、フランスへ・・。
歩哨が深夜、テロリスト(レジスタンス)に背後から撃たれたり、
避難民にはパンやチョコレートを与えたり、フィールドキッチンの食糧を提供したりと、
興味深い話も多くて楽しめます。

A 3.7cm Pak 36 covering a intersection somewhere in France, May 1940.jpg

2級鉄十字章を受章したマイヤー少尉の後に、マイヤー伍長も同章を授かりますが、
彼は「マイヤーⅡ号伍長」と呼ばれています。
これはマイヤー姓が多く、ファーストネームもあまり使われなかったためだそうで、
ドイツ軍では「ドライ」と紛らわしい「ツヴァイ」を使わないから、
「ゲフライター・マイヤー・ツヴォーであろう」と親切な注釈付きです。
写真はフランス軍のオチキスH35や、ソミュアS35、
撃破したルノーB1bisの前での記念撮影・・など。
あ~、「西方電撃戦: フランス侵攻1940」、モ~レツに欲しくなってきた!

German soldiers and a knocked out french heavy tank Char B1 bis, France 1940.jpg

続く「東部戦線における第654戦車駆逐大隊」は1940年7月-1943年3月まで。
ポーランドへ移動後、第12軍団に配属されて、1941年6月のバルバロッサ作戦に参加。
T-26BT-7、、T-35多砲塔戦車にといったソ連戦車の撃破された写真が続きますが、
T-34相手には大隊の3.7㎝砲ではまったく歯が立たないことが判明します。
そして第512戦車駆逐大隊の10.5㎝自走対戦車砲
「ディッカー・マックス(ふとっちょマックス)」が突然、出てきました。
本書によるとわずか2両しか生産されなかった貴重な車両で、
Ⅳ号戦車の車体に10.5㎝ 18式カノン砲を搭載したものだそうです。

Dicker Max.jpg

1942年12月になって、第654戦車駆逐大隊にも待望の自走砲が到着。
Ⅱ号戦車の車体に40式7.5㎝対戦車砲を搭載した「マーダーⅡ」です。
装甲が薄いことが欠点ではあるものの、優れた砲、機動性に富んだ素晴らしい車両に
誇らしい気持ちになったのも束の間、「ロシア戦車!」と叫んでは
失禁するほど怯え、武器を捨てて逃げ出すイタリア兵の姿。。
いや~、このあたり「雪の中の軍曹」を思い出しました。。
このマーダーⅡ戦記も楽しめますが、残念ながら肝心の写真は一枚も無し・・。

MarderII.jpg

2年目のロシアの冬で消耗した大隊はハンブルクへと戻って再編成です。
ここから「第654重戦車駆逐大隊の創設と作戦行動」で、1943年4月-1944年1月まで。
当初大隊は「ホルニッセ(ナースホルン)」自走砲を装備するはずが、土壇場で覆され、
フェルディナンド重駆逐戦車が支給されることとなり、
部隊名にも遂に「重」の文字が付与されます。

6月初頭には装甲兵総監であるグデーリアンを迎えての大規模演習。
「フェルディナンドの主な役割は、巧みに要塞化され、確立した戦線を打ちのめし、
後続の戦車部隊のために敵後方へと進路を啓開することである」。
といった言葉を述べるものの、グデーリアン本人の写真はありません。
過去の本の印象ではフェルディナンドに懐疑的だったグデーリアンですから、
この怪物との2ショットもほとんど見たことがないですね。
本書では代わりに、ポルシェ博士らを乗せて運転する、シュペーア軍需相の写真が・・。

The Ferdinand with Ferdinand Porsche on its left front corner and Albert Speer.jpg

これと同時に柏葉章拝領者のカール・ハインツ・ノアク大尉が大隊長となり、
第653重戦車駆逐大隊とともに「第656重戦車駆逐連隊」が編成されて、
クルスクの戦いへと向かいます。
しかし第2中隊は地図上に記載のなかった自軍が敷設した地雷原にはまり込み、
ほとんどのフェルディナンドが戦闘不能に・・。

Panzerjäger Ferdinand.jpg

写真はフェルディナンド中心ですが、ブルムベアパンターⅢ号突撃砲
ボルクヴァルトⅣを無線でコントロールする「Ⅲ号親戦車」など、初見のものが多いですね。
読み応えのある戦記部分では、「マイヤーⅣ号2等兵」も出てきます。
またフェルディナンドの車長は、車長と言わずに「砲班長」と言うんですね。
まぁ、兵科的にも戦車ではなく、砲兵が装甲車に乗っているということなんでしょう。

Brummbär of a Sturmpanzer.jpg

機銃がないので手榴弾や地雷の肉薄攻撃にやられたという話もよくありますが、
大隊長の戦闘報告書では、次の一文が印象的です。
「フェルディナンドが敵歩兵の攻撃に極めて脆弱なのではという懸念は
まったくの杞憂であった。発砲時の凄まじい爆音や、敵歩兵に与える心理的影響により、
戦闘中に近づいてきた者は唯一人としていなかった。
よって歩兵の前にフェルディナンドを投入してはならないという原則に根拠はないようである」。

ちなみにドラゴンアーマーの1/72のエレファントが我が家に飾ってあります。
ジオラマになってるんですが、ソ連兵が1人いるのが絶妙な雰囲気で。。

Dragon_Armor_Elefant1.jpg

247ページからの章は、1944年1月から6月22日まで。
再度、東部戦線で消耗した大隊は、フランスで休養、訓練、再編成を行います。
軍事法廷で郵便物の小包1個を盗んだ第3中隊のリンド伍長が禁固9か月、
上官を侮辱したライトナー先任曹長は禁固3ヵ月の刑を言い渡されながらも大隊は、
本書の主役、ヤークトパンターを受領します。

sPz Abt 654_Jagdpanther.jpg

しかし6月6日、連合軍がノルマンディに上陸
大隊の保有するヤークトパンターは6月22日になっても規定数の45両よりも遥かに少ない25両。
3両のパンター指揮戦車、2両のベルゲパンターも受領できません。。
それでも翌日から移動を開始しますが、配属先が目まぐるしく変わります。
当初は第10戦車旅団だったのが第7軍団へ、SS第Ⅱ装甲軍団に配属されたかと思えば、
西部装甲集団のエーベルバッハからは第47装甲軍団の作戦指揮下にあると言われ、
第276歩兵師団の支援に差し向けられることを知らされます。

Jagdpanzer V Jagdpanther.jpg

戦闘の推移は日々の報告書そのものの細かさです。
敵のシャーマン戦車1両、チャーチル戦車10両を破壊。
大隊のヤークトパンターも「311号」が爆破処分、戦死5名、負傷者27名・・など。
そして劣勢のドイツ軍は撤退を開始し出すと、セーヌ河の渡河点を探すのに四苦八苦。。
橋はすでに爆破されており、ヤークトパンターを乗せて渡れる60㌧フェリーが必要なのです。
第503重戦車大隊のティーガーと一緒に渡河したり、
隊員たちの手記のなかにも、「どうせまた爆撃されるだけだ」と言って、
壊れた橋を一向に修理しようとしなかったルーアン港湾司令官が
介入してきた武装SSによって射殺され、橋がたちどころに修繕された・・など、
こういうドタバタ感は好きなんですね。

Schwere Panzerjager Abteilung 654_Jagdpanther.jpg

整備班が西部戦線用の迷彩塗装を施している写真も良いですが、
一息ついた10月には新しい大隊章のデザイン・コンテストも。
巻頭に優勝を含む上位3作品がカラーで紹介されていましたが、
退廃芸術」風の下品な作品もあったそうで、
どれくらいの退廃っぷりか見てみたかったですね。
採用された大隊章 ↓ 「N」はノアク大隊長の「N」です。

Unit Insignia sPzJgAbt 654.jpg

ヴィルベルヴィントとメーベルヴァーゲン各4両から成る装甲対空小隊が本部中隊に組み込まれ、
ヤークトパンター5両と対空戦車1両の「戦闘団」単位に編成されます。
いかにも敵に制空権を握られた西部戦線という感じですね。
ヴィルベルヴィントの写真も出てきましたが、
土砂降りの中、コウモリ傘をさしてのヤークトパンター路上行軍の写真が一番のお気に入りです。
シュールですよねぇ。。

sPz Abt 654_Jagdpanther-Crew-With-Umbrellas.jpg

ノアク大隊長の「実戦投入に関する報告」もとても興味深い内容です。
「果樹に覆われ、低木の生垣に隔てられ、一段低くなった狭い道路の一帯では
200mを超える射程をほとんど確保できない上に、至る所に潜む敵戦車猟兵に
その身を晒すことになる。
車内からの視界は限定的であり、加えて、ヤークトパンターは旋回式砲塔を持たず、
道路上では照準ため車体の方向転換も出来ないことも多い。
この地形において、歩兵支援なしの戦闘は、ほとんど絶望的な任務と言えよう」。
すなわち「ボカージュの戦い」はヴィットマンたちに任せましょうということですか。

Jagdpanther_sPz Abt 654.jpg

いよいよ1945年1月から4月までの戦闘日誌です。
1月20日にはあのカール・デッカーの第39軍団と連絡。
ナースホルンを装備した第525重戦車駆逐大隊第1中隊を第4中隊として編合し、
3月、マントイフェルの第5装甲軍に隷属すると、作戦指揮機能のみを有する
バイエルライン軍団司令部に配属されます。
しかし翌日にはマントイフェルがハルペ上級大将と交代し、
バイエルライン軍団司令部も第81軍団司令部と交代したので今度はそっちへ・・。
再び、バイエルライン軍団の予備となりますが、第53軍団と改称・・。
もう、なにがなんだかわかりません。ヤークトパンターの戦闘状況よりも、
この日誌を書いている大隊長の心労の方が気になります。

Karl-Heinz Noak.jpg

3.7㎝対戦車砲の大隊として始まり、フェルディナンド大隊と進んでいった時には、
ひょっとしてヤークトパンターはオマケ程度か?? と焦りましたが、
半分以上はヤークトパンター戦車隊でホッとしました。
そもそもヤークトパンターの写真がこれほど掲載されているとは想像していませんでしたから、
嬉しい誤算ですね。

これで大日本絵画の大型写真集は「西方電撃戦」を残してやっつけたつもりでしたが、
まだ、「武装SS戦場写真集」が残っていました。
さらに出版社は違うものの、同じ武装SSの写真集では
「第5SS装甲師団「ヴィーキング」写真集 大平原の海賊たち」が出てしまいましたので、
これまた買わざるを得ないです。。ひぇ~・・。











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独裁者の妻たち [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アンティエ・ヴィントガッセン著の「独裁者の妻たち」を読破しました。

先週、チトー関連の本を探していた際に見つけた2003年発刊の本書。
スターリン、ムッソリーニ、フランコ、毛沢東、チャウシェスク、ペロン、ホーネッカー、
チトー、ミロシェヴィッチという20世紀の独裁者の妻たちを描いたものだということですが、
チトーも含め、詳しく知らない面々にも惹かれて、早速、読んでみましたが、
読破後に驚くようなことが起こりました。

独裁者の妻たち.jpg

著者はドイツ人女性のようですが、「はじめに」では本書に欠けている名前として
最期にヒトラーの妻となった、エヴァ・ブラウンを挙げています。
しかし、近年の数多くの出版物を勘案して、彼女については断念したそうで、
このBlogでも、ヒトラー/ナチスの女性モノでは「エヴァ・ブラウン -ヒトラーの愛人-」筆頭に、
ナチスの女たち -第三帝国への飛翔-」、「ナチスの女たち -秘められた愛-」、
ヒトラーをめぐる女性たち」とかなり紹介していますから、
実はヒトラー関連が外されているのが本書を選んだ理由でもあります。

まずは「スターリンの妻たち」からです。
34ページに3人の女性が登場し、最初の妻、エカテリーナ・スワニーゼの生い立ちに、
スターリンがまだ小物の革命家「コーバ」として収容所からの脱走を繰り返し、
1907年、病によって25歳にして最期を迎えようとするエカテリーナに、
死んだら正教会の儀式に則って埋葬する・・という約束を残して去っていくコーバ・・。
奥さんの話だけでなく、旦那の政治的活動もシッカリと書かれているのがわかりやすいですね。
例えば、息子のヤーシャ(ヤーコフ)が1941年にドイツ軍の捕虜になるも、
スターリンは捕虜交換の提案に無関心。
自分を育ててくれた養父母が、自分の父親によって逮捕、処刑されたことを知ったヤーシャは
深い絶望に陥って、捕虜収容所の鉄条網に突進。
銃弾が雨あられと撃ち込まれて、彼の希望は叶えられるのでした。

The body of Yakov Dzhugashvili on barbwire in Sachsenhausen concentration camp.jpg

次の奥さんはナジェージダ・アリルーエワです。
まぁ、彼女については「スターリン -赤い皇帝と廷臣たち-」や、「対比列伝 ヒトラーとスターリン
とたいして変わらないですかね。問題は本当に自殺なのか・・?? ということです。

そして3番目の妻として、ローザ・カガノヴィチを紹介します。
1933年、54歳のスターリンは、側近のラーザリ・カガノヴィチの妹であり、野心家ながらも
栗色の髪、緑の目、鼻筋の通った魅力的な27歳のローザと知り合います。
数ヵ月後には結婚を申し込むスターリンに、チャンスを逃さないローザ。
ベッドでの愛人かつ、前妻の子供ワシーリーとスヴェトラーナに加え、
秘書ヨルカ・アンドレエブナの間にできた5歳のボリスの継母になることも心得ています。
しかし2年後の1935年には結婚生活に終止符が打たれ、
ローザは忽然と姿を消し、後にはこの結婚自体が否定されたということです。

rosa_kaganovich.jpg

次の独裁者はムッソリーニ
「賢明なる正妻」として紹介されるのはラケーレ・ムッソリーニです。
1890年生まれで、両親は貧しい小作農。
ムッソリーニと出会って、1910年に長女エッダを出産。
後に、外相チアーノの奥さんになる人ですね。
その後も子宝に恵まれ、旦那も「全国ファシスト党」を率いて1922年に首相に・・。
衝動的で無邪気なムッソリーニが浮気を繰り返していることは知りつつも、
愛する妻と子どもたちを捨てることは決してない・・と確信しています。
彼女が共著で書いた「素顔の独裁者―わが夫ムッソリーニ」という本があるんですね。

mussolini_e_rachele.jpg

1932年、国民の人気者「ドゥーチェ」の大ファンだった19歳のクララ(クラレッタ)・ペタッチが
ヴェネツィア宮殿の執務室に招かれ、愛人になることを承諾します。
それから2年間、ほぼ毎日のように逢引きを重ねますが、
ムッソリーニの助言もあって空軍少尉のリカルド・フェデリーチと結婚するものの、
1年後には母の手助けで愛するムッソリーニのもとへ現れ、
邪魔な空軍少尉は直ちに東京のイタリア大使館付き武官として旅立つことに・・。

clara-petacci-1912-1945.jpg

ムッソリーニが失脚して監禁されると、ペタッチ一家も逮捕されてしまいます。
しかしスコルツェニーの救出作戦と同時に、ラケーレと子どもたちもドイツ軍特殊部隊が解放し、
ペタッチ一家も数日後、刑務所から釈放されるのでした。
ここからはラケーレとクラレッタの直接対決など、以前に読んだ話となり、
誰がムッソリーニを処刑したか」のような展開で逃亡したムッソリーニとクラレッタは 
銃殺されてミラノで晒し者に・・。
本書ではクラレッタ本人というよりも、ペタッチ一家の野心について厳しめで、
1984年の映画、「クラレッタ・ペタッチの伝説」によって、
偉大な愛人という神話になったとしています。

petacci-y-mussolini.jpg

フランコの奥さん、カルメン・ポロは資産家で土地の有力者の両親の子どもとして生まれます。
17歳の時、慈善パーティで23歳のフランシスコ・フランコに出会い、
厳しい父親の反対もなんのその、北アフリカのスペイン外人部隊司令官となったフランコと結婚。
1936年に始まったスペイン内戦、1939年にフランコが勝利すると、
夫妻は住居をマドリード近郊のエル・パルド宮殿に決め、スッカリ改装させて優雅な暮らしを・・。

carmen polo 17.jpg

「国家元首継承法」によってフランコが終身国家元帥としてスペインを統治した後は、
ブルボン家が国王として自分の後継者になることを定めたことで、
妻のカルメンは、国王の存在しない君主制下の統治者とは国王に等しい・・と考えます。
そして自らを王妃と見なして、宮殿にはスペイン中の宝物が運び込まれ、
催しの際にカルメンが登場する際には「王妃のマーチ」が演奏されます。
まぁ、貴族の娘ですから、こんなもんでしょうねぇ。。

Francisco Franco_carmen polo_1923.jpg

毛沢東の奥さん、江青は一筋縄ではいきません。
偉大な女優になるという野心溢れた16歳の少女は、演劇学校の校長と関係を持とうと決心。
その後、上海では著名な映画評論家に喰いついたかと思えば、次は映画監督。
しかし女優として華々しくデビューすることは叶わず、放り出され、
1937年に日中戦争が始まると共産党に入党し、演劇部門で働きます。

江青 藍蘋.jpg

そして出会った20歳年上の45歳の毛沢東。
政治局からは禁欲令が発せられて、快楽は悪徳とされていたこの時期に、
愛の経験豊かな江青の手にかかり、道徳観念はさっさと捨てて欲望に屈します。
1939年に結婚し、夫の個人秘書から、最終的には党のNo.4まで上り詰めた江青。
毛沢東の死後、死刑判決を受け、その後に無期懲役に減刑されるものの、
1991年に首つり自殺。
1958年には「大躍進」と呼ばれたキャンペーンは破局し、大飢饉が・・、
といった話も多く、なかなか勉強になりますね。
今度、「毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災1958-1962」を読んでみようか。。

毛沢東 江青_1946.jpg

「ルーマニアのドラキュラ伯爵夫人」として登場するのは、エレナ・チャウシェスクです。
1989年当時、TVで見たベルリンの壁崩壊のニュースも印象的でしたが、
ルーマニアの大統領夫妻が銃殺されるシーンも、繰り返し流れましたね。
1916年、貧しい農家の生まれで、14歳で紡績工場の女工として働きますが、
ほどなく売春婦として副収入を得ることに・・。
1937年に共産党に入党してニコラエ・チャウシェスクと出会いますが、
戦争が始まるとニコラエは逮捕され、エレナは再び、昔の副業に手を染めます。
しかしドイツと共に戦ったルーマニアは1944年、ソ連に蹂躙され、
赤軍をバックに共産主義者のチャウシェスクは右肩上がりで出世を掴むのでした。

1960年代に子どもたちも大きくなると、博士号の肩書に執着するエレナ。
小学校すら満足に出ていないにもかかわらず、「イソプレンの特殊重合」といった
博士論文でチャウシェスク工学博士と呼ばれるように・・。
もちろん書いたのは、とある大学教授です。
その後も100以上の学術論文を発表し、1974年に夫が大統領に就任すると
外国旅行の際にはどこの大学が名誉博士号を授与してくれるのかが関心事。
学術教育制度国家評議会の総裁に加え、首相代理にも任命されて大満足です。

Elena Ceaușescu.jpg

1984年、多くの外国の首都を見てきた大統領夫妻は、首都ブカレストを
その名声にふさわしいものにしようと、巨大な政府宮殿「人民の家」の建築に着手。
7000もの部屋がある大プロジェクトに、2万人の労働者が3交替制で働きますが、
経済は衰弱の一途を辿り、全土が飢餓に苦しみます。

Casa Poporului.jpg

そして1989年12月、現実を無視した政府に対して抗議の声が市民から上がると、
デモは膨れ上がり、大統領によるデモ隊への発砲命令も国防大臣と将軍らが拒否。
クリスマス、遂に夫妻は捕えられ、即決裁判で銃殺刑になるのでした。

ceausescu-executie.jpg

「エビータ」として知られるエバ・ペロンは、「貧者の聖母を演じきった女」として紹介。
やっぱり貧困の出で、ブレノスアイレスで女優を目指し、
1944年に24歳年上のファン・ドミンゴ・ペロンと知り合い、愛人に・・。
その後、大統領夫人となって、社会福祉制度の一環として「エバ・ペロン財団」を設立。
多くの病院や老人ホーム、孤児院などを建設しますが、
子宮ガンにより、33歳の若さで死去。

本書のまとめとしては慈悲を施す天使という表向きの顔とは裏腹に、
陰謀を巡らし、欲しいものはなりふりかまわず手に入れる女が隠れていた・・、
としていますが、それほど非難されるようには感じなかったですけどね。。

eva-peron-white-pants.jpg

東ドイツのボスということではウルブリヒトよりもホーネッカー議長の名を覚えています。
その奥さん、マーゴットは1927年生まれで、共産党員の父親は1933年に逮捕されて、
その後、ブッヘンヴァルト強制収容所送り、釈放後、第999懲罰大隊で西部戦線へ・・、
とマーゴットは語っているそうですが、著者はその信憑性を疑っています。
戦後、若くて綺麗な娘マーゴットはドイツ共産党へ入党し、
下心の見える視線を浴びつつ、幹部候補生のキャリアを歩み始めるのです。

Margot Honecker.jpg

1953年にエーリヒ・ホーネッカーと結婚すると、旦那は政治局委員、
彼女には人民教育大臣というポストが与えられます。
そして1976年にエーリヒ・ホーネッカーが国家元首となり、
教育制度の全権を握るマーゴットは、東ドイツの子どもたちに
マルクス=レーニン主義に基づいた統制と二枚舌教育を実施するのでした。

Margot Honecker1981.jpg

1924年、ボスニアとの境界に近いクロアチアの山村に生まれたヨヴァンカ。
16歳の時にドイツ/イタリア枢軸国が祖国を占領し、
ウスタシャの指導者アンテ・パヴェリッチが「独立国クロアチア」を創立し、
セルビア人やユダヤ人数十万人が民族浄化によって追放、殺害されると、
チトーをリーダーとした共産主義者はパルチザンとして立ち上がります。
1942年、そんなパルチザンに女性闘士として身を投じたヨヴァンカ。

Jovanka_Broz_Tito.jpg

1945年、新たにユーゴスラヴィア連邦人民共和国が誕生し、
チトーはドナウ流域などの18世紀に入植したドイツ人の粛清に乗り出します。
ドイツ人の居住する何百という村々の一軒一軒にパルチザンが回り、
拷問の末、森へ連れて行って射殺。
両親を奪われた数千人のドイツ人の子どもたちは、収容施設で強制的に「スラヴ化」。
「チトーは君たちの父であり、国家は君たちの母である!」

1948年、チトーの愛する奥さんが27歳の若さで急死すると、
ベオグラードの白亜の宮殿で少尉として働いていたヨヴァンカに声がかかります。
それは偉大な元帥との一晩のお相手・・。
それ以降、必要な時に傍らに控え、スターリンと西側諸国を相手に激務に明け暮れるチトーに
安らぎを与える存在であり続けるヨヴァンカ。
1952年、ついに敬愛するチトーは彼女に求婚するのでした。

Jovanka Broz_Tito.jpg

ファーストレディとしてチトーの外国訪問にも付き添い、夫の良き助言者にまでなります。
本書に登場する妻たちのなかで、唯一、非の打ちどころのない女性ですね。
しかし1980年にチトーが死去すると、この多民族国家は瓦解を始め、
ヨヴァンカは自宅軟禁に・・。
25年間の華やかなファーストレディの生活の後、25年間も続く自宅軟禁です。
「私の治める国には、二種類の文字、三つの言語、四つの宗教があり、
六つの共和国の中に五つの国籍と八つの少数民族が存在する。
そしてわが国は七つの国々と国境を接している」というチトーの言葉。
映画「アンダーグラウンド」のラストシーンでもこのような言葉が語られましたね。

jovanka-broz1.jpg

と、ここまで書いて、本書のレビューの仕上げに入っていた昨日、
ヨヴァンカが88歳で亡くなったというニュースが。。
7月の「津山三十人殺し」の時にも読んでる最中に、
山口県周南市「5人連続殺人事件」が起こりましたし、今回もゾクっとしました。。
そもそも先週、突然チトーを調べたくなって、本書を知って、ヨヴァンカが一番印象的で、
そして彼女が亡くなってしまうというのは、どういうことなんでしょう。
もちろん単なる偶然だと思いますが、ご冥福をお祈りいたします。



最後はミロシェヴィッチ大統領の奥さん、ミリャナ・マルコヴィッチです。
チトーに続いてユーゴの独裁者ですが、1990年代のユーゴ内戦の時期ですね。
1942年にミリャナを出産し、2年後に裏切り者として殺されたパルチザンの母親。
黒い髪のぽっちゃりした少女に育ったミリャナですが、目立たず、友人もいません。
そんな学生時代、同じく友人もおらず、おそろしく退屈な奴と旧友から言われていた
スロボダン・ミロシェヴィッチと出会い、切っても切れない仲に・・。

Mira Marković _ Slobodan Milošević.jpg

1965年に大学を卒業し、結婚。もちろん揃ってチトーの共産党員です。
ミリャナが舵を取り、スロボダンが汗を流す・・という完璧なタンデムで、
ベオグラードの党書記からセルビア共産党の議長に上り詰めた旦那に
ベオグラード大学でマルクス主義の講座を獲るほどのミリャナ教授。
1989年に大統領になるとコソヴォでのセルビア人とアルバニア人の紛争に介入し、
その後、全土で内戦へと発展。NATOによる空爆も・・。
国連の制裁下、彼らの周辺では闇取引で大金を儲け、汚職と賄賂が横行します。

ミリャナ自身も「ユーゴスラヴィア左翼連合」を結成して政治に介入し、
大統領の旦那は完全にチトーの後継者を自負する彼女の言いなりです。
1日に9回も奥さんに電話をかけ、しかも会話が政治問題になると
「可愛い子ちゃん」とか、「ミーちゃん」などと幼児語で。。

Milošević_Mira Marković.jpg

この内戦の結果、大統領を退陣し、2001年に逮捕されたスロボダン。
オランダはハーグの戦犯法廷に引き渡されますが、
非難はされたものの、ミリャナは自由の身です。
原著は2002年ですから、スロボダンが2006年に独房で死亡したところまでは
当然ながら書かれていません。

原著のタイトルは「権力と契りを結んで」というものですから、
「妻」ではないクラレッタ・ペタッチが登場するのはOKですね。
285ページというソコソコのボリュームですが、非常に充実した一冊でした。
1900年代初頭のスターリンから、2000年のミロシェヴィッチまで、ほぼ時系列ですし、
なにより旦那である独裁者も生い立ちから、その独裁政治の様子まで
書かれているのが良かったですね。
同時代に生きた妻たち、例えばエレナ・チャウシェスクが江青と会ったり、
エバ・ペロンがカルメン・ポロと会ったり、妻たちの外交もリンクしてて楽しめました。

似たような本として、去年に出た「女と独裁者―愛欲と権力の世界史」があります。
こちらはムッソリーニ、レーニン、ヒトラー、スターリン、毛沢東、チャウシェスク。
読み比べてみるのも一興かも知れません。

女と独裁者.jpg

それにしても、おかげでまたいろんな本を読んでみたくなりました。
特に旧ユーゴはナチス・ドイツに興味が出る前から勉強しようと思っていて、
"ピクシー"・ストイコヴィッチの「誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡」と、
「悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記」は何度読んで、その都度、涙したことか・・。

誇り_悪者見参.jpg

改めて、「図説 バルカンの歴史」を読んで勉強してみます。
それともう一冊、名著「ニセドイツ」の共産趣味インターナショナル VOL1である
「アルバニアインターナショナル」も読んでみようかな。。



















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ソビエト航空戦 -知られざる航空大国の全貌- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

飯山 幸伸 著の「ソビエト航空戦」を読破しました。

ドイツ空軍モノはそれなりに読んできて、ドイツ軍機についてもそれなりに知識がつきました。
ただ我ながら不思議に思うのは、巨大な敵であるソ連空軍はからきしわからない・・。
陸戦ならソ連の戦車や自走砲が詳しく紹介されることが多いのに、
ソ連軍機のこの扱いは一体なんなんでしょう?
そんなことから今回は一度、キッチリ勉強してみようと
無敵!T34戦車―ソ連軍大反攻に転ず」のようなイメージで
2003年発刊、399ページの本書に挑んでみました。

ソビエト航空戦.jpg

まずはロシア/ソ連の航空機の歴史から勉強です。
スターリンの独裁時代には「様々な大発明がソ連人によってなされてきた」と主張され、
それは航空機の発明にも当てはまり、ソ連ではライト兄弟ではなく、
19世紀末、モジャイスキーの「空中飛行機械」が世界初の動力飛行とされたそうです。
本書ではこのような重要な飛行機が登場する度に図解とスペックを紹介。
う~ん。しかし、モジャイスキー・・、見たことも聞いたこともありませんでした・・。

Mozhaysky's airplane.jpg

続いて第一次大戦でのロシアの空軍力です。
ここでは「イリヤ・ムロメッツIM -V」という世界初の四発爆撃機が登場。
コレは正真正銘の「世界初」のようですが、いや~、知らないことばかりで勉強になります。。
また、飛行機の性能ばかりでなく、450回出撃し、64㌧の爆弾を投下した・・など、
軍用機としての働きについてもシッカリと言及しています。

Sikorsky Ilya Muromets.jpg

そして内戦が終わり、1922年には同じ敗戦国ドイツとの「ラパロ条約」を締結。
ドイツがソ連国内に資本を投下して軍需工場が設置され、軍用機や戦車といった
ヴェルサイユ条約で認められていない兵器の開発とその訓練を実施する話です。
モスクワから400㌔南のリペツク飛行場で航空士官養成に励むドイツと、
その見返りに訓練や演習にソ連人パイロットの参加を要求するソ連。

初期の複葉戦闘機としてポリカルポフやコチュリギンといった機種が紹介され、
機載式ロケット弾の早期開発では、後の大戦争でロケット兵器重要な働きをすると考えた
トハチェフスキー元帥により、1934年にロケット科学研究所が創設され、
それによってRS-132、RS-82といった空対空ロケット弾が開発されます。
そして陸戦兵器としてはあの「カチューシャ・ロケット」に・・。
う~む。。興味深い話ですねぇ。

polikarpov-I-15bis.jpg

ドイツとの蜜月も1933年にヒトラーが登場すると、昨日の友は今日の敵状態に・・。
スペイン内戦では武器の実験場として独ソがしのぎを削ります。
複葉機ではドイツのHe-51に対して、ポリカルポフI-15の性能の方が上ですが、
単葉機が登場するとI-16は、名機Bf-109の前に立場は逆転。
こうしてヤコブレフYak-1、ラボーチキンLaGG-3、ミコヤン・グレヴィッチMiG-1の
開発が大急ぎで進められることになるのでした。

ちなみにスペイン内戦も詳しく知りたいとずっと思っていましたが、
朝日ソノラマの「スペイン戦争」を買いました。楽しみですね。

Polikarpov I-16.jpg

さすが日本人の著者だけあって「ノモンハン」での日ソ戦闘の様子も詳しく語ります。
特に航空戦では7.7㎜機銃しか搭載していなかった九七式戦闘機に対して、
例のRS-82ロケット弾を装備したI-16が巻き返しを図ります。
そしてフィンランドとの「冬戦争」へ・・。

rs-82.jpg

このちょうど真ん中あたりで20ページほどソ連軍機の写真集ですが
せめて1/3は即答できるようになりたいところです。。悲しすぎるぜ・・。

さて、いよいよ来たるべく「大祖国戦争」に向けての軍用機開発。
戦闘機については先に挙げた3機種が中心ですが、
ここでドイツ軍ファンでも知ってる有名なヤツが登場してきました。
その名は「イリューシンIl-2」、通称「空飛ぶ戦車」です。
重装甲なうえに、20㎜機関砲と7.62㎜機銃、爆弾400㌔も搭載し、
RS-82ロケット弾を4発づつ装着できるロケットランチャーまで追加装備。
複座の「Il-2M」になると後部席に12.7㎜機銃がセットされたこのタフな相手に
ドイツ空軍も装甲部隊も手を焼く・・という戦記は何度か読みました。

Ilyushin Il-2.jpg

重爆撃機の主翼に戦闘機をドッキングさせて長距離飛行の末に分離するという
特殊な親子飛行機、ヴァクミストロフというのも面白いですね。
大戦末期のドイツ空軍がヤケクソ気味で開発した「ミステル」を連想しますが、
この実験を1931年からやっていたというのが何とも言えません。。

Vakhmistrov.jpg

バルバロッサ作戦が始まると、この「青天の霹靂」の緒戦1日だけで
3000機以上が無抵抗に近い状態で破壊されてしまいます。
その後、制空権を握って装甲部隊とともに進撃するドイツ軍。
モスクワを目指すタイフーン作戦を発動しますが、ソ連側も徹底的に防戦。
首都を守る決死の防空戦では「タラーン」と呼ばれる体当り攻撃も繰り出します。
敵機や敵戦車に突撃する自殺攻撃ですが、神風特攻の3年前の作戦です。
「モスクワ上空の戦い―知られざる首都航空戦1941~1942年--防衛編」
という本にはこのあたりが詳しく書かれているのかなぁ??

Unternehmen Taifun.jpg

ウラル山脈の向こうへと疎開した工場群は航空機も決死の増産体制です。
1942年の1年間だけで2万機を超える軍用機を生産。
例の「労働者ノルマ競争」については触れられていませんが、
先日、クイズ番組で「ノルマ」が問題に出ました。
コレ、ロシア語だったんですねぇ。。
また、米国からはP-39が5,000機、A-20が3000機、
英国からもハリケーン3000機、スピットファイア1300機がレンドリースで届けられます。

そして激しい航空戦が繰り広げられるスターリングラードへ・・。
ドイツ軍はシュトゥーカ急降下爆撃機を繰り出して、この工業都市を徹底破壊。

JU-87 Stuka over Stalingrad.jpg

耐えるソ連はヤコブレフYak-7にラボーチキンLa-5といったドイツ戦闘機と同レベルの
新型機を着々と配備し、11月、「ウラヌス(天王星)作戦」を発動してドイツ第6軍を包囲します。
女性エース、1号、2号となったリディア・リトヴァク
エカテリーナ・ブダノヴァといった女性飛行士にも言及。
そういえば棒高跳びのエレーナ・イシンバエワもスターリングラード出身なんですよねぇ。

Yekaterina Budanova.jpg

また、珍しいところでは「自由フランス軍」もなかなか詳しく書かれていました。
1942年11月25日に協定が結ばれたという14名のパイロットと58名の整備員から成る
「ノルマンディ部隊」。リトヴァクちゃんと同じYak-1を受領して翌年3月に初出撃。
しかし損害は大きく、初代隊長のジャン・テュラーヌも7月に戦死しますが、
部隊を立て直した4個飛行隊は、ルーアン、ル・アーブル、シェルブール、カーンと称されます。
最終的には5000回以上出撃して、撃墜273機を記録したそうです。

jean-tulasne.jpg

クルスクの航空戦が出てきた後、ソ連のエースたちを紹介します。
最も有名なコジェドブは62機を撃墜。そこにはMe-262の1機も含まれます。
クルスク戦にLa-5で出撃したアレクセンドル・ゴロヴェツは、
Ju-87の20機編隊の一団を発見するものの、無線機が故障していたために単独で急襲。
9機を撃墜しますが、間もなくBf-109に囲まれて戦死・・。

kursk.jpg

そんな彼らの強敵だったのが、「地球人類の撃墜機数1,2,3位であり続けるとみられる」
352機のハルトマン、301機のバルクホルン、275機のラルです。
このクルスク戦と以降の撤退戦において、スコアを上げ続けたのは
撃墜しても次から現れるソ連軍機と、1000回、2000回と一ケタ違う出撃回数によるようです。
1944年になるとドイツ軍機は1800機体制となりますが、
ソ連軍機はやっぱり一ケタ違いの1万機超・・。

Soviet MiG-3 and Yak-9, downed German bomber Junkers Ju-88.jpg

ドイツ領内に侵攻したソ連軍はV兵器を開発していたペーネミュンデ
ジェット戦闘機を開発していたユンカース社のデッサウに米軍に先駆けて迫ります。
最後はベルリン航空戦。
1130機ものドイツ軍機を撃墜したものの、ソ連側も527機を失うという激しい戦い・・。

Soviet Il-2s in the skies above Berlin.jpg

いま気が付きましたが、著者は以前に紹介した
ドイツ戦闘機開発者の戦い―メッサーシュミットとハインケル、タンクの航跡」の方でした。
なるほど、ドイツ空軍についても詳しい訳ですね。
バルバロッサ作戦が1942年6月22日とか、パウルスの第8軍、モーデルの第6軍など、
??っとなるところもありましたが、まぁ、誤字ということでOKでしょう。

自分にとって未知の航空機が次から次へと登場する一冊でしたが、
少なくとも「Yak-9」が完成された名機であることは理解しました。
また、Yak-1、Yak-3などと、奇数が振られたのが戦闘機であり、
偶数(Yak-2、Yak-4)は爆撃機なんてこともちょっとした豆知識ですね。







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そこに僕らは居合わせた -語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

グードルン・パウゼヴァング著の「そこに僕らは居合わせた」を読破しました。

4月の「ナチズム下の女たち -第三帝国の日常生活-」を読んで以降、
昨年に発刊された本書が気になっていました。
1945年のナチス・ドイツ敗北の時に17歳のナチ少女だった著者による20篇の物語。
自身の体験から見聞きしたエピソードが綴られた短編集です。

そこに僕らは居合わせた.jpg

最初は「スープはまだ温かかった」というタイトルのお話から・・。
独ソ戦も始まった1941年秋、14歳の少女は3人の妹弟のお守をしています。
食糧は配給制となり、母親はお店の行列に並んだまま、お昼の支度も出来ていません。
そんなとき近所のビルンバウム家に窓のない黒いトラックが止まり、制服の男が2人・・。
「急いで! ビルンバウムさんが連れて行かれるわ!」と母が息を切らせて帰ってきます。
そして出てきたのはユダヤ人の御主人、ビルンバウムさん。
続いて親友だったエルスベートと姉のノラ、お爺さんも奥さんに手を引かれて出てきます。
パニックになったお爺さんを乱暴にトラックに乗せる様を見て、野次馬みんなで大笑い。

Judenfeindlichkeit.jpg

開け放たれたドアからはすでに野次馬の一部が空になった家の中に雪崩れ込んでいます。
「こっちよ!急いで!」と家の中から彼女を呼ぶ母の声が・・。
ビルンバウム家の台所ではパンとスープを用意され、ちょうど昼食をとろうとしていたよう。
母は子供たち全員をテーブルに着かせると、コンロの鍋の蓋を取り、
「煮込みスープね。いい匂い」。まるでビルンバウム一家がもう存在しないかのような母。
そしていつものように「いただきましょう!」と声をかけ、家族の昼食が始まります。
母はスープを口に運び、ウットリしたように言います。
「ああ、まだ温かいわ」。

たった9ページのお話ですが、ガツン! ときました。
小さい町での普通のドイツ人とユダヤ人の関係をシンプルかつ残酷に描いています。
これ以降はネタバレしないように、いくつかのお話を紹介してみましょう。

Bund Deutscher Mädel_3.jpg

「九月の晴れた日」。
戦争末期に12歳だった少女。大好きな音楽の先生がいます。
若い教師は兵士として戦地に送られていたため、教師不足となり、
画家は美術の先生に、音楽家は音楽の先生として授業を受け持っているのです。
そんな芸術家肌の繊細な先生はテストや点数を付けるのが苦痛で、全員が「良」。
しかしある日、先生はかつて共産主義者だったことを理由にゲシュタポに連行されてしまいます。
ゲシュタポの逮捕者には容赦しないという恐ろしさは子供でも知っています。
なんとかして先生を助けなくては!
そこで笑顔が魅力的で「ふつうの人」でもわかる演説をする大ドイツ帝国No.2、
ゲーリングに宛てて、先生を釈放してくれるよう彼女たちは手紙を書くのでした。。

1939, Hitler and Goering visiting an airforce test range..jpg

「賢母十字勲章」。
当時、10歳~14歳までのドイツ人少女の入団が義務付けられていた「少女団」。
週に2回、集会があり、歌やゲームの他、総統ヒトラーの素晴らしさについても学びます。
「ヒトラーは犬と子供を愛し、農民と兵士と労働者を重んじ、
国民のために昼夜を問わず働いている。
そして祖国のためにたくさんの子供を産んだ女性を称える」。

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毎年「母の日」に4人以上子供を産んだ母親に賢母十字勲章(母親十字章)の授与が行われ、
その勲章を授与するのは「少女団」の役目です。
白いブラウスに紺のスカート、お揃いのネクタイという制服姿で全員集合し、
村を北から南に行進。最初は3人の男との間に4人の子供を儲けていたベッカーさんの所。
歌を唄って、首に勲章をかけ、花冠を頭に乗せ、握手をして終了。
11番めの受章者は年老いたアンナお婆さんです。
しかし4人の息子は全員が第1次大戦で戦死・・。
アンナお婆さんは「ばかばかしい!」と首から勲章を外すと、そばの肥溜めに・・。

mutterkreuz.jpg

「追い込み猟」。
15歳の少年ハラルドは地区指導者のおじさんと狩りに出かけます。
一人前の大人として銃を扱える年齢となり、銃を担いで大喜び。
そして保護林から雪原へ追い込み猟でやってきた獲物。
それは捕虜収容所から脱走したロシア人・・。
おじさんは言います。「撃ち殺すのは自由だ。公認の射撃標的というわけさ」。
ハラルドは「殺人だよ!」と抵抗しますが、おじさんは諭すような声で続けます。
「ドイツは戦争をしているんだ。ロシア人は我々の敵だ。君もあと2年もすれば兵士になる」。

Schießausbildung von HJ-Angehörigen.jpg

「おとぎ話の時間」。
この話は著者が10歳の時の体験談で、1938年9月の出来事であり、
その2ヵ月後には、あの「水晶の夜」事件が発生したというユダヤ人迫害の時期です。

1938-kristallnacht.jpg

毎週土曜日に学校では先生が本を読んだり、お話をする「おとぎ話の時間」が・・。
その日のお話は、みんなと同じ10歳くらいのロゼマリーがひどい歯痛に苦しんでいるものの、
あいにく週末で、掛かりつけの歯医者さんがお休み。
そこで一軒だけ診察をしている医院に行くことに・・。
待合室には金髪の女の子が一人。名前はイルゼです。
診察室のドアが開き、鉤鼻黒い巻き毛、肉厚の下唇、大きく出っ張った耳をした先生が現れ、
イルゼに中に入るよう合図します。

しばらくすると、「先生、やめてください。お願いです。先生!」というイルゼのすすり泣く声が・・。
やがて先生が再び姿を現します。そしてにっこり笑ってロゼマリーを手招き。。
しかしイルゼの姿はどこにも見えません。どんなひどいことをされたのでしょう?

Der Stürmer_October 1936.jpg

「ランマー」。
1944年秋、16歳になったばかり少年。父は1年前に戦死。母と59歳の祖父との生活です。
そんな時に16歳から60歳までの男子が招集される「国民突撃隊」のニュースが。。
第1次大戦で鉄十字章を貰っていた祖父と共に12人横隊で町中を行進し、
ついに一人前の兵士として戦闘に加わることができると大興奮です。

Volkssturm.jpg

そしてドレスデン空爆の翌日、ついに召集令状が届きますが、
「いまいましい。今から東部戦線で戦うなんて自殺しに行くようなものだ」と語る祖父。
「何を言うんだよ!犬死になんてしないぞ!僕は敵をズタズタにするまで戦う!」

出発の前日、母のために納屋の修理をする2人。
その時、祖父に土間を突き固める重いランマーを足に落とされ、指3本が骨折。
「かわいい孫の足が治るのはどれくらいかかるだろう?」
医者は「複雑骨折してるから、4、5週間というところだ」と言って、祖父と目配せをしています。
大好きな祖父がひとり出発したあとも3週間は包帯でぐるぐる巻き。
悔しさでベッドで泣くだけです。そして祖父は・・。

hj-soldiers.jpg

と、まぁ、こんなところにしておきましょう。
239ページですから、1日で一気読みしてしまいましたが、
いまから思うと、もっと一話ごとにじっくり考えてみてもよかったなぁ・・とも。

ハンス・ペーター・リヒターの「あのころはフリードリヒがいた」が好きな方にはオススメです。
続編の「ぼくたちもそこにいた」 も同様ですが、タイトルそっくりですね。。
しかし「みすず書房」だけに、決して児童書ではありません。
大人でも充分インパクトありますし、10代の少年少女にも読んで欲しい・・、
そんな不思議な味わいのある一冊でした。







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関東大震災 [番外編]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

吉村 昭 著の「関東大震災」を読破しました。

先日の「写真集 関東大震災」を図書館で借りてみて、読了後すぐ、本書を買いました。
2004年に新装版として出た347ページの文庫ですが、もとは1977年発刊と古いもので、
帯でも「犠牲者20万人」と一般的な倍の数字で謳っていますが、
個人的には数字にこだわりのないタイプですからそれほど気になりません。
写真集での解説文でだいたいの概要は掴んだだけに、何とも言えない緊張感があります。

関東大震災.jpg

まずは大正4年、大正天皇の即位の大礼が行われた日、東京で35回もの地震が起こります。
これを憂慮するのは東大助教授で地震学者の今村明恒。
今後、大地震が起こることは充分に予想されると記者に語る今村に、
上司の大森教授は「軽率な方言だ」と反対の態度を取ります。
あ~、これは1か月前にNHKで見た、関東大震災の再現ドラマと一緒ですね。

関東大震災を予知した二人の男.jpg

こうして42ページからその時・・大正12年9月1日、関東大震災の発生です。
震源地は相模湾。小田原や箱根、横須賀は上下動の烈震に見舞われ、
崖は崩れ、橋は落ち、家屋は倒壊します。
横浜のレンガ造りの洋館も耐久性がないために崩壊し、
グランドホテルやオリエンタルホテルは轟音と共に崩れ、多くの外国人が即死・・。
横浜裁判所では末永所長以下100名以上が圧死します。

横濱オリエンタルホテル.jpg

また鎌倉でも被害は甚大で、700年前に造られた大仏が40㎝近くも前にせり出します。
上野の大仏は頭が落っこちてしまいましたが、鎌倉のは大きさが違いますからねぇ。
ついモアイ像が歩いた・・って話を思い出しました。

鎌倉大仏前進(一尺一寸八分)ノ跡.jpg

メインとなるのは東京の状況です。
本書では被災にあった人々の回想を抜粋しながら進みますので、臨場感がありますね。
ここでは浅草の映画館で西部劇を観ていた14歳の少年の回想があり、
東京名物である十二階建ての「凌雲閣」が左右に揺れながら倒壊する姿を目撃し、
象などもいたことで知られる花屋敷からは、さまざまな鳥類が飛び交い、
獣類を射殺するらしき銃撃音も聞こえてきます。

全焼したる花屋敷、呑気な象くんの避難.jpg

11時58分という時間だけあって、竈や七輪に火をおこしてお昼の支度の真っ最中。
倒壊した木造家屋のあちこちから火の手が上がります。
今のように、ガスを止めて・・って簡単にはいかないんでしょう。
本所菊川、日本橋に京橋、入谷に蔵前といった場所から起こった火災は
火の勢いを強めながら東京市を焦土に変えていきます。

京橋区銀座街.jpg

消防隊も奮戦しますが、水道が至る所で破壊されており、
避難民の群衆にも妨げられて苦戦・・。
猛火に包まれて22名の殉職者を出し、124名の重軽症者を出すのでした。
ここで東京市の死者、行方不明者68660人という「写真集」と同じ数字を挙げてますが、
そうなると「20万」というのは辻褄が合わなくなりますね。

人形町.jpg

「旧陸軍被服廠跡地」に避難してきた人々。
町々が徐々に焼き払われて火が迫ってきます。
そして火の粉が降りかかり始めると、大八車などで持ち込んでいた家具や荷物が
激しく燃え上がります。やがて烈風が起こり、それは大旋風へと変化。
トタンや布団だけではなく、家財や人も巻き上げられます。
この地獄を生き残った18歳の少女は、老婆を背負った男がそのまま空中に・・、
また荷を積んだ馬車が馬と共に回転しながら舞い上がるのを見たと証言します。

陸軍被服廠跡地9.1.jpg

被服廠跡ではこのような炎の大旋風が度々発生し、その都度、人々は逃げまどいます。
死体を踏み潰しながら右往左往し、倒れれば後ろの群衆に踏み潰される・・。
また酸素が奪われて窒息・・、まるでドレスデン空襲の状況そっくりですね。
このようにして38000人が死亡するのでした。

徳永柳洲_被服廠跡の火災旋風.jpg

同様な惨事が起こった場所として詳しく紹介されるのは、「吉原公園」です。
前夜は新吉原に遊客が驚くほど多く、ここで働く遊女たちの眠りも深い正午の大地震。
倒壊する娼家が続出し、生きて這い出してきた彼女たちも火災から逃れようと、
唯一の避難地である吉原公園に寝間着一枚で走ります。

新吉原大門.jpg

しかし周囲の家も焼け始め、電信柱も炎を上げるようになると
「熱いよう」、「助けてえ」と泣くような叫び声が・・。
熱さに耐えきれなくなって弁天池に飛び込み出しますが、
200坪ほどの池は泥深く、中央部は4m近い深さがあります。
園内に持ち込まれた家具にに火がつくと、娼婦たちの髪油の塗られた頭髪にも火がつき、
池に飛び込む者の数を増し、岸辺にいた娼婦たちは段々と中央へ押し出され・・。
溺れかけた娼婦は別の娼婦の方につかまり、また他の娼婦がしがみつき、
数珠つなぎのようにして必死に争いながら490名が命を落としたのです。

弁天池の死体.jpg

東京の16の新聞社も13社が焼失してしまい、9月5日まで一切の新聞は発行されません。
電話局も大きな被害を受け、ラジオもTVもインターネットもないこの時代、
被災者は現状を理解する術がまったくないのです。
「津波が来る」などといった流言が人々の口に伝わると、
地方新聞もそのまま引用し、「上野の山に大津波が襲来した」や、
遠方から東京、横浜の空に渦巻く煙と炎を眺めて、「富士山大爆発」の記事も。。

惨害常夜天空に漲る火煙.jpg

巣鴨や市ヶ谷、横浜といった場所には刑務所もあり、それらも倒壊して囚人は脱獄も可能。
「囚人が集団脱走し、婦女強姦と略奪を繰り返してる」との噂も流れ、
近隣住民も脅えます。
他にも「社会主義者が朝鮮人と協力して放火している」との流言に触れられると、
ここから「朝鮮人襲来説」について詳しく書かれます。
つまり1918年に第1次世界大戦が終わり、ロシアではレーニンのボルシェヴィキが台頭。
日本にもコミンテルンに承認された共産党が誕生しますが、政府は苛酷な弾圧を試みて
大震災の3ヵ月前には共産党員の検挙を実施。

また大陸に対する軍事基地的意味合いから統監府を設置して朝鮮を支配下に。
特に朝鮮農民たちの不満は強く、初代統監、伊藤博文が安重根に暗殺されます。

安重根_伊藤博文.jpg

そんな状況下で憎悪を持って日本内地に流れ込んできた朝鮮人労働者たち。
そういえば7月に行われたサッカーの日韓戦でも安重根の巨大肖像画が話題になりましたね。
まぁ、「世界のナベアツ」にクリソツという評判もありましたっけ。。

安重根.jpg

いずれにしても震災当日の夜から「朝鮮人放火す」という声が横浜からあがると、
「朝鮮人強盗す」、「朝鮮人強姦す」と変化し、殺人や井戸へ劇薬を投じているとエスカレート。
横浜から東京へと避難する人々とともに噂は怪物へと成長します。

内容もより具体的となり、「いま、不逞朝鮮人千人ばかりが六郷川を渡って襲撃してきた」
と大声で叫びながら自転車で走り去る男・・。
その他、「上野駅の焼失は、朝鮮人2名が石油にて放火せる結果なり」など、
今なら震災の起こった時に「拡散希望」とかで変なメールを出す輩と一緒ですね。
どの時代にも愉快犯みたいなアホがいるもんです。
しかし「不逞」ていうのは、よく「ふてえ野郎だ!」と言うのと同じ意味なんだか。。

号外.jpg

この恐怖に被災者救援活動を行っていた在郷軍人会や青年団は自警団へと変身し、
日本刀や匕首、猟銃、拳銃で武装を開始します。
隊を組んで町を巡回し、通行中の人々を路上で尋問。
「国歌を唄ってみろ」とか、「いろはがるたを口にせよ」と命じて、間違えようものなら
日本人ではないと判定されて、暴行、縛り上げ、日本刀で文字通り一刀両断することも・・。
まるで「バルジの戦い」でスコルツェニーに脅えた米軍状態ですね。。
「カブスがアメリカン・リーグなどと言うヤツはドイツ野郎に違いない!」

警察は当初から朝鮮人襲来は事実ではないと自警団に訴えますが、
政府は231人の朝鮮人が殺害されたと発表。
しかし後の調査ではその10倍にも及んだと、いくつかの数字も挙げ、
また突然、囲まれたことでシドロモドロになったり、訛りのある秋田県人などが
「不逞朝鮮人」と勘違いされて悲惨も殺されています。

上野駅前9.1.jpg

後半、280ページからは「復興へ」。
そう言うのは簡単ですが、まずやらなければならないことは「死体処理」です。
遺体は家族・縁者に引き渡すことが原則ではあるものの、ほとんどが焼死体・・。
しかも9月の初旬であってはすぐに腐乱してしまいますし、疫病が蔓延することも。
死体集めの作業員は、道路工事の労働者の賃金が2円30銭が相場のこの時代に
倍以上の5円と破格で募集。しかも3食弁当付きです。
被服廠跡では88人が集まりますが、あまりの惨状に嘔吐を繰り返し、
その日の午後まで残っていたのはわずか4名です。弁当付けるなよ・・。

本所被服廠跡.jpg

このようにして集められた遺体は9月9日から3日間で焼却され、
火葬に付された骨は3mの高さにも達します。

本所被服廠跡の白骨.jpg

これ以上に困難だったのは河川に漂い流れてた溺死体。
それが終わると、やっと倒壊したビルの瓦礫の下の圧死体の回収が・・。

隅田川下流.jpg

焼け野原に建てられ始めたバラックでの市民の新生活も衛生状態は悪く、
特にトイレの類はヒドイもんです。もう書きたくないなぁ。
それから泥棒などの犯罪の増加に、女性を誘拐して売春婦として売り飛ばす悪党も出現。

9月10日には早くも米軍艦ブラックホークと、英軍艦ホーキンスが
食糧や燃料などの救援物資を満載して、品川沖に到着します。
その後は800万ドルもの募金と30隻の輸送船が日本に送りこまれますが、
ソ連汽船「レーニン号」だけは簡単にはいきません。
中央執行委員会議長カリーニンの命令によって、ウラジオストックから
食料と医薬品を積み込んだレーニン号ですが、
日本政府としては援助はありがたくも、天皇を中心に構成された日本の国家体制を
完全に否定する性格を持つ、共産主義思想のソ連から救援は迷惑なのです。
そして12日に横浜港へやって来た厄介者。
闇夜に紛れて扇動者を上陸させられないよう、戦艦「伊勢」が睨みを利かせます。
結局は気持ちだけ有難く頂戴して、お引き取り願うことに・・。

Simbirsk_Lenin.jpg

中だるみの無い一冊でした。
震災そのものも、非常に生々しい回想を中心に細かい数字も掲載。
2人の地震学者のエピソードに、端折りましたが、憲兵隊の起こした「大杉事件」も。
日本史にも弱い人間ですから大正12年と書くとピンときませんが、
1923年とすれば、ドイツやロシア/ソ連の状況もいくらかわかります。
その意味でも共産党やレーニン号の話は勉強になりましたし、
朝鮮占領の件も同様です。

「朝鮮人襲来」説は読みながらもいろいろと調べてみましたが、
「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」という本など、
案の定、本書とは違う見解も世の中には根強くあるようです。
今回、当時の「新愛知新聞 号外(9月4日付)」をあえて載せてみましたが、
地方の新聞社がどれだけ正確な情報を摑めたのか、あるいは流言なのかは
本書を読む限り、やはり怪しいなぁと思います。
新聞に書いてあるから正しいって解釈はちょっとどうでしょうね??
朝鮮人襲来があった、朝鮮人虐殺があった・・、
まぁ、そういうことにしたい人の気持ちはわからなくもないですが・・。







タグ:関東大震災
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