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ゲーリング言行録 -ナチ空軍元帥おおいに語る- [ヒトラーの側近たち]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

金森 誠也 著の「ゲーリング言行録」を読破しました。

先日の「ゲッベルスの日記」に続いて、「ゲーリングの日記」・・・ではありません。
まぁ、ゲッベルスとは対照的にゲーリングが日記を書いていたとはとても思えませんからね。
2002年に発刊された223ページの本書、過去にモズレー著の「ゲーリング」を読んで以来、
気になってはいましたが、ど~も、このタイトルがちょっと敬遠させていました。
それと言うのも、表紙の写真も1930年頃と思しき「演説で吼えるゲーリング」といった感じですし、
戦時中の「大口叩き」もいろいろな本に書いてあるので、
内容的にも、そんな彼の発言の集大成のようなものかな・・と思っていましたが、
実は1946年のニュルンベルク裁判における拘留中にブロス弁護人に語った、
1950年発刊(未訳)の「ゲーリングとの対話」をベースにまとめられたのが本書ということです。
ニュルンベルク軍事裁判」のゲーリングは絶好調でしたから、
これは楽しい1冊のような気がしますね。

ゲーリング言行録.jpg

第1章ではゲーリングの略歴が10ページほど解説され、
続く第2章の「青春時代」からゲーリングは語り始めます。
最初の妻、カリンとの出会い、酒を飲んでも泥酔したことはなかったという話。
若い頃はスマートだったのに・・というところでは、
「後年、ビールの飲み過ぎのせいか、体重が増えすぎた。最高で125㎏もあった」そうです。

「ヒトラーとの出会い」の章では、この時でも依然として
「ヒトラーはチンギス・ハーンと比較されている人物だ。100年後には犯罪者ではなく、
政治的改革者として評価されるだろう」と語ります。
ふ~ん。。チンギス・ハーンって、当時のドイツ人に凄い評価なんですねぇ。
最近、「ジン、ジン、ジンギス・カ~ン」て歌う、1980年頃の動画見ちゃったんで、なんとも。。

hitler_goering.jpg

興味深かったのは彼が創設した「ゲシュタポ」についてです。
それまで社会民主党が占めていたポストであるプロイセンの内相となったゲーリングは
警察官僚らの人事を刷新してナチ党員に入れ替えて、ゲシュタポを創ったとされていますが、
彼によれば「明白に政治的反対者を撃破するためのゲシュタポと変わらない政治警察があり、
官僚を入れ替えた後、この警察がもっぱら国家の安全に取り組んでいることを明白にするために
『秘密国家警察 = ゲシュタポ』という名前を与えた」ということだそうです。

1932 preußischer Innenminister unter dem Reichskommissar für Preußen.jpg

国防相ブロムベルクと陸軍最高司令官のフリッチュに対するでっち上げ事件への関与を問われると、
「国防相のポストはこの事件がなくても廃止されたし、すでに空軍最高司令官だった私が
フリッチュのポストに就いても、それは昇進でもなんでもない」と否定します。

1936年のラインラント進駐の計画を事前に知っていたことについては、
ニュルンベルク法廷でのジャクソン検事とのやりとりを記載しています。
「ドイツが国際協定に違反して計画を立てたのはけしからん」と追及するジャクソンに
「米統合参謀本部も、軍の動員を前もって公表したことはないだろう」と反論して、
ギャフンといわせたゲーリング。
スポーツのように痛快だった・・といわれ、米国の新聞も「ゲーリングの判定勝ち」と書いたほどの
有名な反対尋問ですね。

Nuremburg Goring.jpg

1938年のチェコ問題とミュンヘン会談では、外交に関する自分の立場を語ります。
ムッソリーニはドイツ外務省を通さず、私に直接使節をを送り、
そもそもリッベントロップを信用していなかった」とし、
さらに「総統は外国人に対しては常にぎこちなく、リッベントロップは嫉妬心と野心に駆られ、
私の出席を拒んだ」

1940年のフランスでは、旧友ウーデットと共にSS護衛兵を撒いたゲーリングの様子・・。
とある店でカメラを略奪している兵士を偶然見つけますが、
「これだけで我慢しろ、と1つだけ手渡し、残りはクルマに積み込んで、前線の兵に配ったのだ」
と、自慢げですが、お店に返してあげないところがなんともゲーリングらしい・・。

Goering_Udet in WWⅠ.jpg

その有名なゲーリングの略奪・・ではなく、美術品収集も
「ヒトラーがリンツの美術館用に集めている芸術品と競合しないように
値段の手頃なものを買った」と説明しますが、そのお金の出所を追及されると、
「まぁ、そりゃ一部は国の費用で買ってもらったのさ・・」と、カリンホールに集めた絵画も
文化施設に合流させようと思っていた、と必死で弁明・・。
この手の本は「ナチの絵画略奪作戦」とか何冊か出ているので、今度読んでみようと思っています。

Goering_hitler nazi_art.jpg

さすがの大言壮語のゲーリングといえども、戦局に影響を及ぼしたルフトヴァッフェの話になると
あまり乗り気でない・・どころか、ほとんど語らなかったようです。
中止命令の間に合わなかったロッテルダム爆撃に、ダンケルクの失敗、
バトル・オブ・ブリテンスターリングラードで包囲された第6軍への補給、
連合軍によるドイツ本土爆撃・・と、空軍最高司令官の立場から語るのは、
ロッテルダム爆撃の原因と英国本土上陸作戦(あしか作戦)くらいです。
特にあしか作戦では、陸軍が空軍の4個降下部隊を無理やり引き抜かなければ、
その部隊によって、英国に上陸していただろう・・としています。

German Paratrooper.jpg

西部戦線の状況でゲーリングが熱く語るのは1944年の「アルデンヌ攻勢」です。
「うまくゆけば戦争の行方を変え、和平交渉が可能になったかもしれない!
あれは総統の最後の真に天才的な作戦であった!だが、彼は決定的な推進力を持つ、
6個戦車師団をゼップ・ディートリッヒごときに委ねるべきではなかった」
確か、「バルジ大作戦」を書いたトーランドも、このゼップを「肉屋の親父」扱いしてましたねぇ。

sepp_hitler.jpg

ユダヤ人問題の最終的解決をハイドリヒに指示したとされるゲーリングですが、
「私は一度もユダヤ人の虐殺などは望まなかった」と語り、
妻の友人のユダヤ人を救った例などを挙げます。
大量虐殺についても何も知らなかったとし、
「そりゃあ、200人とか2000人が殺されたっていうニュースだったら場合によっては
信じたかもしれないが、数百万が殺されたという外国の報道はありそうもないように思われた」

Goering-with-Heydrich.jpg

「ゲーリングの見た同僚と知人たち」の章では、リッベントロップを非難する一方で、
ルドルフ・ヘスの健忘症にも触れながら、勇敢だと誉めています。
「すっかり節度を無くした被告連中が同じドイツ人として恥ずかしい」として、
毅然としているのは、「ヘス、フンク、そしてデーニッツだけだ」

Joachim Vo nRibbentrop Rudolf Hess Nurnberg.jpg

ゲシュタポから常に監視され、最後にはSSに逮捕されたゲーリングは、
SS全国指導者ヒムラーに対し、恨みすら抱いていたようで、
「ヒムラーが「SS空軍」を創ろうとしていた努力も台無しにしてやり、個人用の1機を除いて、
己の命令どおりに発進できる飛行機をまったく持っていなかった」と勝ち誇ります。

またカリンホールの監視兵がSS兵士だったいう話は面白かったですね。だいたい、ココは
ヘルマン・ゲーリング師団の分遣隊が警備していたと思いましたが、こんなことを言っています。
「監視兵はまったく無気味であった。家のいたるところを歩き回り、夜中に空腹のために
台所に行って、大根を切って食べようとしていると、背後でSS監視兵が私を見守っていた・・」
ヴィトゲンシュタインは呑んだ後、よく大根の味噌汁を作りますが、
ドイツ人ってどんな風に大根食べるんでしょうかねぇ?

Hermann Goering stands next to a Volkswagen convertible at Carinhall hunting lodge, with Robert Ley and Ferdinand Porsche.jpg

「女秘書たちにも嫌われていた」ボルマンと、「裏切り者」シュペーアも餌食となり、
シュトライヒャーカルテンブルンナーも大笑いのネタになっています。
ヒトラー暗殺未遂事件で、あわや巻き添えで死ぬところだったと言うヨードルの証言を取り上げて、
「爆発の際、巨大なシャンデリアがヨードルの頭に落下した。だが、彼は幸運で
重い鉄製の輪は彼の首をスッポリ囲む形で両肩の上に落下したのだ」

Martin Bormann, Adolf Hitler, Alfred Jodl, Albert Bormann, Luftwaffe adjutant Nicolaus Von Below, and Hitler's pilot Hans Baur of Wolfschanze.jpg

最後はゲーリングが心から愛し、心配する妻エミーと8歳の娘エッダです。
ゲーリングから渡された32項目の質問状を持って、妻子を訊ねる弁護人ブロス。
そしてゲーリングは、この2番目の妻と、まるで主のようにこの家に住み着く
老家政婦との間に起こった結婚生活の障害を語ります。
「熱狂的な忠実さを示した彼女は、後妻などむしろ私の負担になっていると考え、
夜に妻が私の部屋に訪れても、寝室の前に仁王立ちになって
『元帥閣下は大変お疲れで、すでに眠っておられます』と宣言した」
こんなおばちゃんをクビにすることもできずに苦労するのも、実に彼らしい気がします。。

Emmy Goering-and-daughter.jpg

223ページで写真は前半に2枚ほどの本書は、すべてがゲーリングとの対話という訳ではなく、
著者の解説と、モズレーの「ゲーリング」などから引用しながら進みます。
また、ゲーリングに対する他のナチ戦犯たちの批評も
第二次世界大戦ブックスの「ニュールンベルク裁判」から抜粋しているようですね。
これはまだ読んでいないんですが、副題の「暴虐ナチへ“墓場からの告発” 」というのが素敵です。。
全体的な印象としては「ニュルンベルク・インタビュー」のゲーリング版といったところでしょうか?
ゲーリング・ファンや「ニュルンベルク軍事裁判」を楽しんだ方には、一読をオススメします。







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ゲッベルスの日記 -第三帝国の演出者- [ヒトラーの側近たち]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヨーゼフ・ゲッベルス著の「ゲッベルスの日記」を読破しました。

第三帝国の宣伝大臣ゲッベルスの日記は過去に「大崩壊 -ゲッベルス最後の日記-」
紹介していますが、あちらが1945年2月~の終戦間際の日記であったのに対し、
1974年の発刊で、334ページの本書はそれ以前の期間の日記です。
具体的には1925年~26年のゲッベルス青年期にヒトラーと知り合う部分の日記と
1932年から翌年にかけて、ナチ党が政権を奪取する部分の2部構成です。

ゲッベルスの日記.jpg

はしがきでは「ゲッベルスの日記」と云われるものがなんなのかを解説しています。
しかし、このはしがきがおそらく1962年の英訳版、「1925年~26年の日記」という
古いものであることから不明な部分も多く、ちょっと混乱したので、
1984年発刊の「大崩壊」のはしがきを読み返してみました。
この2冊からの情報を整理すると、だいたいこんな感じです。
1924年6月以来、ほとんど毎日、1941年7月まで自筆で日記をつけていたゲッベルスは、
それ以降の1945年まで口述の形でタイプさせ、そのタイプ用紙は4万枚にも及び、
ゲッベルスはこれを最新技術のマイクロフィルムに収めて、現物は破棄するように命じますが、
なぜかそれは実行されず・・。

Time_1933_07_10_Joseph_Goebbels.jpeg

終戦時、総統官邸を占拠したのはソ連軍なわけですが、彼らが置いて行ったのか、忘れたのか、
1942年~43年の日記が断片的ながら発見され、1948年に「ゲッベルスの日記」として
初めて陽の目を見ます(未訳)。
さらに脱落のない1925年~26年部分の192ページの日記が見つかって、
これが本書の第1部に該当します。
西側の手に入ったこれら以外は、1960年代末に元総統官邸敷地で建設工事が始まった時に
放置され、忘れられていた痛んだ大量の日記とマイクロフィルムを東ドイツ当局が
改めて発見したのでした。そしてこれを手に入れた出版社は、
最後の6週間だけを公刊し(「大崩壊」)、残りは現代史研究所などに売却。

と、いうことで第1部の「1925年8月14日~26年10月30日」までの日記。
いきなり「スイスから手紙をくれる、かわいいエルゼ・・」のことから始まるため、
この1925年8月という時期のナチ党やヒトラー、ゲッベルスの立ち位置がわからないとツライですが、
はしがきにもコレがちゃんと書いてあるので問題ありません。

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簡単に紹介すると前年の暮れにランツベルク刑務所から釈放されたヒトラー。
すぐにナチ党を再建し、ドイツ西北部はグレゴール・シュトラッサーに任せ、自分はミュンヘンに・・。
ラインラントの大管区指導者カール・カウフマンの元で書記局長となったゲッベルスは
シュトラッサーの秘書も兼ね、新しく出版する雑誌の編集にも加わります。

strasser Goebbels.jpg

日記でシュトラッサーを「ユーモアのセンスがあるすばらしい人物」と評するゲッベルス。
ルール大管区のSA指導者のルッツェなども頻繁に登場し、各地での党の講演にも向かいますが、
ドルトムントでは「怒り狂った赤の暴徒との市街戦。ぼくらの負傷者は49名。気ちがい沙汰だ」
さらに「会場は超満員。シュトライヒャーが話す。ぐでんぐでんに酔っていた」
登場人物にはカッコ書きで役職(フランケン大管区指導者)などと書かれているので助かります。。

Julius_Streicher.jpg

10月、ゲッベルスは党首ヒトラーと初めて対面します。
「食事中のヒトラーは急いで立ち上がり、ぼくと握手。あの大きい青い目。星のようだ。
ぼくが来たことを喜んでる。天にも昇る心地だ」

Goebbels und Hitler.jpg

面白かったのはラジオについて書いているところですね。
曰く「俗物を生産する現代的装置」
写真で見る ヒトラー政権下の人びとと日常」では、「最先端大衆感化装置」
と書いてありましたが、訳が違うだけかも知れません。。
また3つ歳下のヒムラーについてはこんな風に書いています。
「気のいい人間だ。極めて物わかりが良い。ぼくは彼が好きだ」

hitler's-men-heinrich-himmler.jpg

そして1926年の6月にもなると、上司の立場であるカウフマンやシュトラッサーよりも
ヒトラー崇拝が激しくなっていきます。
「演説家としてのヒトラーは身振り、演技、言葉をものにして、このバランスが実に素晴らしい。
生まれながらの大扇動家だ!彼とならば世界を征服することもできる」

Adolf-hitler.jpg

ナチ党の演説というと、どうしてもヒトラーのものが有名ですが、実際はゲッベルスを含め、
党のお偉いさんたちがあちこちで、しょっちゅうやっていたことがわかります。
シュトライヒャーが"ぐでんぐでん"だったり、良いも悪いも客観的に見ていたようですね。。
こうして10月30日、ゲッベルスは首都の大管区指導者となるべく、
ベルリンへ旅立って行くのでした。(おわり)

Adolf Hitler in happy time with Joseph Goebbels.jpg

第2部の1932年元旦からの日記は、ちょっと特殊な日記であるといえるでしょう。
それはこの日記は終戦後に発見されたものではなく、
ゲッベルス自身が「ベルクホーフから総統官邸へ」というタイトルで
1937年に発表した、日記形式の本であるということです。
ちなみにベルクホーフとはベルヒテスガーデンのヒトラーの山荘ですね。

Goebbels_Hitler.jpg

当時の首相はブリューニング。とにかく選挙に次ぐ選挙の1年間ですから、
ナチ党がどのような宣伝戦術を行使して、ヒトラー首相が誕生したのか・・その内幕が語られます。
いきなり登場するのは「刺殺されたヒトラー・ユーゲントの少年」・・、
あのノルクスくんですね。。「すぐに社説を口述。編集局がまた活気づく」
ベルリンの4月の選挙では「うそのような大勝利だ。断然、群を抜く第1党だ」

ヴィルヘルムスハーフェンを訪れ、就役したばかりの「技術の奇跡」軽巡洋艦ケルンを見学。
そして「海軍の態度は素晴らしい。将校も水兵もみなぼくらを支持し、
フェルキッシャー・ベオバハターを読んでいる」
その翌日にはブリューニング内閣が総辞職・・、混乱の続く国内。
「共産党が行進中の突撃隊(SA)を襲撃。15名の死者。50名以上の負傷者」

Sturmabteilung.jpg

そんななか、ヒンデンブルク大統領の信任を得る2人、シュライヒャーパーペンはヒトラーに
副首相のポストで満足するよう執拗に迫ります。
「総統と党を使い捨てにしようという意図が丸見えだ」
しかし11月の選挙では敗北・・。
ヒンデンブルク大統領はヒトラーに「国会で過半数の支持を得よ」と語り、
自ら首相に指名する気はありません。
結局、シュライヒャーが指名されますが、ゲッベルスは「この内閣はもって2ヶ月だ」

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そんな折、「爆弾が炸裂する。シュトライヒャーが党の役職をすべて辞任すると言ってきた」
これは「総統と党に忠誠を尽くすよりも大臣のポストが欲しい」という裏切りです。
最終的には武装SS師団の名前にもなっている1月30日、首相官邸の窓際に立つヒトラーの姿に
「数10万の群衆が感謝と歓喜の声を浴びせる」ことに・・。

それでも内閣に入閣したのはフリックゲーリングだけであり、この後は国会を解散し、
3月の選挙でナチ党内閣を確立するという最後の戦いが残っています。
「こんどやっつける相手はマルキシズムだ。あらゆる手を使うことになるだろう」
そしてゲッベルスの予言通りか、2月27日には「国会議事堂が火事だ!」
共産党の放火によるものとされるこの事件、
「総統は一瞬も平静を失わず指示を出している。ゲーリングはまったく生き生きとしている」

Reichstagsbrand am 27.02.1933.jpg

彼のつけていた日記がベースにはなっているものの、彼個人やヒトラー、
またはナチ党にとってあまりに都合の悪いことは書かれていない・・と思います。
でも「ゲーリングはまったく生き生きとしている」というのは、なにか意味深ですね。。
それでもシュライヒャー将軍やシュトラッサー、共産党に社会民主党などについては辛辣で、
基本的には遠慮のない、ナチ政権が誕生するまで繰り返される選挙戦の死闘の様子を
中心人物が語ったものとしてみれば、当時のハチャメチャな国内情勢を
ドキュメンタリー風に別の角度から楽しく知ることのできるものだと思います。
ひょっとしたら1941年に日本でも発刊された「勝利の日記」は、コレと同じかも知れません。

goering goebbels.jpg

本書はこのように2つの時期の異なる形式の日記(原著)をまとめた一冊で、
特に手の入っていない第1部は、20代後半のゲッベルスが本命の女の子がいるものの、
あの娘は素敵だ・・とか、この娘も・・と、浮気性というかなんというか、恥ずかしいほどで
(男がそうなるのを否定はしません。日記に書いていることが恥ずかしい・・)、
後にマグダと結婚後も、片っ端から女優に手を出したエロおやじの片鱗がうかがい知れます。

Dr. Joseph Goebbels in Graz.jpg

まぁ、古書でもかなりのプレミア価格で、この1年間チェックしていても
amazonでの最安値は、12,980円というものです。
しかし今回たまたま、1/10の価格、1290円で帯付きの綺麗なものを見事ゲットしました。
amazonでは、たまにこういう破格の値段というのがあって、以前にも注文しましたが
(「特殊戦闘車両」が"1円")、そういうのは出品者が間違いに気づいて「キャンセル」してきます。

今回も最安値の設定を1桁間違えたんだろうな~・・と思いつつ、ダメもとで注文しましたが、
気づいたのか気づかないのか、売買成立してちゃんと送ってきてくれました。
状態を確認するまで不安でしたが、開けてみて思わず、「け・・けけけ」と
筒井康隆の小説のような、いやらしい笑いが・・。





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ヒトラー最期の日 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

H.R.トレヴァ=ローパー著の「ヒトラー最期の日」を読破しました。

先月の「ヒトラー最後の十日間」に続いて、いわゆる”ヒトラー最期”モノの元祖ともいえる
トレヴァ=ローパーの有名な一冊をやっとご紹介します。
原著は1947年・・で、その後、数回、見直しなどの版を重ねた1971年の第4版が本書に、
日本では第2版が1951年(昭和26年)に翻訳され、本書は1975年に出版されたものです。
著者のトレヴァ=ローパーは戦時中、英国秘密情報部(SIS)の部員として
カナリス提督の防諜部アプヴェーアのメッセージを傍受する任務に就き、
終戦直後、ヒトラーの死の真相を突き止める任務を託されて、
第三帝国のさまざまな生き残りの証人たちから聴取を行い、本書が完成しました。

ヒトラー最期の日.jpg

「序文」では50ページを割いて、トレヴァ=ローパーが如何に証人を尋問したか・・が書かれおり、
ボルマンの秘書であったクリューガー嬢、ヒトラーの専属運転手ケンプカ
女流テスト・パイロットのハンナ・ライチュ、ヒトラー・ユーゲント指導者アクスマン
そして命令に従い、ヒトラーの「遺言」を持って総統地下壕から脱出した3人、
ハインツ・ローレンツ、ヴィルヘルム・ツァンダー、ヴィリィ・ヨハンマイヤーらの行方を突き止め、
ヒトラーとエヴァの「結婚証明書」を含む文書を発見します。

さらにはヒトラーの秘書だったクリスティアン夫人とユンゲ夫人も1946年に発見・・。
しかし後年、ヒトラーの最期の重要な証人となる、護衛隊長ラッテンフーバーと侍従長リンゲ
副官ギュンシェに、お抱えパイロットのバウアらはロシア側に逮捕されており、
本書の証言者とはならなかったそうです。
それでもこの版では、解放されて帰国した彼らの口から裏付けを取り、
それらは(注)としてあらわされています。

Traudl_Junge.jpg

第1章では「ヒトラーとその宮廷」と題して、第三帝国とは如何なるものだったのか・・を
解説します。
No.2、ゲーリングに副総裁のヘス、個人秘書ボルマン、そしてヒムラーといった側近たち。
さらにはヒトラーと国防軍との不仲な関係にも言及。
特にヒムラーについては「行政官としての有能さと、思想家としての無神経な軽信ぶりとの
二重性格こそは、彼の奇怪な生涯を解く鍵だ」として、最も分析しています。
確かに表紙の写真もヒトラーとヒムラーの2ショットですねぇ。

Hermann Göring, Himmler and Hitler were all smiling.jpg

第2章では、敗北に当面した第三帝国として、ヒムラーについての本書の証言者である
SDの国外諜報局局長だったシェレンベルクの話をかなり引用します。
例えば「シェレンベルクが話してくれたことによると・・」といった感じで、
陸軍の東方外国軍課ゲーレン少将がポーランドの抵抗地下運動のような組織を計画し、
シェレンベルクがその草案をヒムラーに提出すると、
「そんなことはまったく気違いざただ!
そんなことを検討しようものなら敗北主義者と非難を受けるに決まっている!」

Schellenberg Gehlen.jpg

このライバルのスパイ・マスター2人が協力していたような話も興味深いですが、
敗戦後に抵抗運動を行わなかったのはドイツだけだった・・という解説では
ヒムラーも激怒したように、そのような考え方(ドイツ敗北後ということ)が
公式には許されなかったわけで、そこがポーランドやフランスのようなレジスタンス組織が
作られなかった理由としています。
また、じゃあ「人狼部隊」はどうなの??ということにもちゃんと触れて、
指揮官のプリュッツマンSS大将も「敗戦後の活動などというのは問題外」と語っていたとして
あくまで、連合軍の背後で戦うゲリラ部隊・・という位置づけだったそうです。

Werwolf woman_SS.jpg

「ヒトラーの建築家」シュペーアはなかなか評価しているようで、彼の回想録も
「無批判に引用するわけではない」としつつ、大いに引用しています。
逆に先に述べたシェレンベルクの回想録は、「引用しても役に立たないだけではなく、
不適当であり、それはヒムラーの外交上の顧問だったこの男の知性の貧困さと
その視野の狭さを示しているだけにすぎない・・」と、だいぶ手厳しいですね。
他に財務相を務めていたフォン・クロージックの日記も、
「13年間大臣をしていたわりには観察の愚かさのために」と重要な扱いにはしていません。
結局、本書はそのようなダレソレの著作の引用というより、1945年から1946の間の
供述をあくまで中心とし、それらを整理しながら進めていくといった展開です。

Schwerin von Krosigk.jpg

そういえば本書の巻頭には17~18枚の写真が掲載されていますが、
ベンチの両端に離れて座る、ヒトラーとシュペーアの写真・・。キャプションでは
オーバーザルツベルクでの散歩の途中、意見が対立してヒトラーの不興をかったところ」
だそうで、まるで中学生のデートレベルのいじけ方が笑える一枚です。

hitler_speer.jpg

半分ほど進んだ第4章から、いよいよ1945年4月20日からの様子が始まります。
例のシュタイナー軍集団がまったく反撃していないことを知ったヒトラーの様子も、
「彼は金切り声をあげて、裏切られたと絶叫した。陸軍を罵倒した。
誰も彼も裏切り者だと叫んだ。ついに声も出なくなった彼は、最後が来た、と宣言した」
と、この当時から映画「ヒトラー 最期の12日間」と同じですね。。

Der_Untergang_Downfall.jpg

そして、この総統地下壕の様子と並行して語られるのは、ヒムラーのスウェーデンとの
和平交渉の様子です。シェレンベルクにヒトラーを見限るようにそそのかされ、
すっかりその気になって、新政府の代表者として、新しい政党の名前は何にしようか・・とか、
アンゼンハワーに会った時にはお辞儀するべきか、握手にするべきか・・。
これはシェレンベルクの証言がもとになっているようですが、
「役立たずの回想録」ではなく、供述から得たものを参考にしているのかも知れません。

結局は、ゲーリングに続き、ヒムラーもボルマンの手によって裏切り者とされて、
ヒトラーの絶望的な怒りを招きますが、お馴染みのSS副官フェーゲラインが処刑される件については
彼が無断で逃亡を図ったことではなく、シュタイナー軍集団と、ヒムラーの和平という
SSの「裏切り」についての責任を取らされた・・という解釈のようですね。

Hermann Fegelein_colorized.jpg

さすがに”ヒトラー最期”モノの元祖として、その後のヒトラー本のネタ本である本書ですから、
新発見・・などということはありませんでした。
そんななかで印象的だったのは、最初に書いたヒトラーの「遺言」を持って脱出した3人、
ゲッベルスの宣伝省の役人ローレンツ、ボルマンの個人的顧問ツァンダー、
総統付き陸軍副官ヨハンマイヤーの3人の脱出行です。
それぞれミュンヘンでの保存、新大統領デーニッツへ、新陸軍総司令官シェルナー元帥へと
届けることが目的です。

Willy Johannmeyer.jpg

そして「ヒトラー最後の十日間」の参謀将校ボルトとローリングホーフェンと途中、合流したり
そのローリングホーフェンの証言として、ボルトが薬で自殺を図り、彼が助けたという
あの本には書かれていなかった話が出てきたり、
空軍副官のフォン・ベローも脱出を決意して、参謀総長クレープスから妻への伝言と、
ヒトラーからカイテルへの手紙、「ドイツ全軍に対する告別の辞」を手渡されます。
この手紙自体は、破棄してしまったそうですが、フォン・ベローの証言から再構築していて
なかなか興味深いものでした。

At Hitler's Side_Nicolaus von Below.jpg

最終的に西側連合軍はヒトラーの遺体は発見できなかったわけですが、
この版では、後にロシアで発表されたエレーナ・ルジェフスカヤ著の
ヒトラーの遺体の検視結果などにも触れられていて、
これは「ヒトラーの最期 -ソ連軍女性通訳の回想-」の最初の版ですね。
先日、あの本を読んで、今回、この本を読むことになったんですが、
なんとも因縁がある2冊のようです。
なお、西側ではヒトラーは「拳銃自殺」と解釈していますが、ロシア側は「服毒自殺」だとして、
著者はコレを「愛犬ブロンディを毒で殺したのと同様、軍人らしくない、犬のような死・・」
という印象をロシア側は与えようとしていると考えています。

hitler-blondi.jpg

著者トレヴァ=ローパーは、本書によってナチス・ドイツの権威となりましたが、
1983年、突然、世の中に出てきた、1932年から1945年までが綴られた「ヒトラー日記」を
本物であると認めてしまい、それが科学的に真っ赤な偽物であると判明したことで、
その権威も一時、失墜したそうです。
この顛末が書かれた「ヒットラー売ります 偽造日記事件に踊った人々」も
近々、読んでみるつもりです。

hugh-trevor-roper.jpg

読みながらいろいろ気になって調べていると、総統専属運転手で
エヴァの遺体をボルマンから奪い取って火葬したことでも知られるケンプカの回想録が
1953年(昭和28年)に日本でも翻訳されていたことを発見しました。
その名もズバリ、「ヒットラーを焼いたのは俺だ」
いまでもamazonで手に入るんですねぇ。
でもこんな古いの読んだことがないから悩むなぁ・・。







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詳解 西部戦線全史 -死闘!ヒトラー対英米仏1919‐1945- [戦記]

ど~も。風邪っ引きのヴィトゲンシュタインです。

山崎 雅弘 著の「詳解 西部戦線全史」を読破しました。

以前に「ポーランド電撃戦」と「ロンメル戦記」と合わせてまとめ買いしていた本書。
先月、名著「電撃戦という幻」を読んで、西方戦役モノが無性に読みたくなっていたのもあり
今回、644ページという文庫の限界に近い厚さの本書を選んでみました。
しかし副題が微妙ですね。。「ヒトラー対英米仏」と言いつつ、「1919‐1945」。。。
「1939‐1945」じゃないのか・・? とタイトルにこだわるヴィトゲンシュタインとしては
ちょっと心配です。。

西部戦線全史.jpg

「はじめに」では、その「1919‐1945」の理由が書かれていて、
第1次大戦後のヴェルサイユ条約から「一本の大きな河の流れ」で記述することを
目的としたということです。
そして第1章では、フランスが次なる戦争では防御戦の方針を固めており、
それを「兵士の生命を重んじる立派な発想」と国民に解釈された・・とか、
スペイン内戦に参加した「コンドル軍団」のⅠ号戦車が非力過ぎることから、 
バンバン鹵獲したソ連のT-26戦車で4個大隊を編成した・・というような話を紹介します。

T26-Vickers.jpg

第2章は「ポーランド戦」、そしてポケット戦艦グラーフ・シュペーなどの活躍した
「通商破壊戦」をドイツ海軍を中心にデンマークとノルウェー侵攻までを・・。
160ページを過ぎた第3章から、いよいよ西方戦役に向けたマンシュタイン・プランの誕生と、
電撃戦」によるパリ陥落、さらにバトル・オブ・ブリテンと続きます。
英国本土上陸の「あしか作戦」では、長さ18mのホース状のシュノーケルをつけた
「潜水戦車」についても触れられています。

TauchpanzerIII.jpg

この西方戦役の章はまるで「電撃戦という幻」のダイジェスト版のようでした。
読んだばっかり・・というのもありますが、「あ~、アソコねぇ・・」と思ったり、
自分が書いたレビューとソックリな箇所があってビックリしたり(もちろん、本書が先です)、
巻末の参考文献にもしっかり載ってましたが、ちょっと参考にし過ぎてるような気も・・。
まぁ、逆に言えば、それだけ「電撃戦という幻」が素晴らしいということになりますね。
それでも電撃戦後は、クルップの列車砲が英国本土に向けて砲撃を開始した・・など
楽しい話もいろいろとありました。

Aberdeen_Tank-Museum-283mm-Leopold.jpg

ゲルニカ、ロッテルダムと続いたドイツ空軍による爆撃も、ヒトラーが首都ロンドンへの 爆撃
禁止していたにも関わらず、目標を見失ったHe-111が適当に爆弾を投下した結果、
ロンドンの市街地へと吸い込まれてしまい、これを契機にベルリンへの報復爆撃と
さらにロンドンへの爆撃禁止令の撤回・・ロンドン市民の7人に1人が住居を失い、
地下鉄のホームでの生活を余儀なくされた・・ということです。
この激しくなった爆撃合戦は1943年のハンブルク爆撃で3万人の市民が命を落とすまで
なかなか詳しく書かれています。

Elephant and Castle tube station during the Blitz.jpg

フランス・レジスタンスも有名なジャン・ムーランが紹介され、彼がゲシュタポに捕えられて
クラウス・バルビーの拷問を受けた後、死亡・・や、
逆にドイツの傀儡政府であるヴィシー政府の後押しを受け、反独抵抗組織の壊滅に一役買った
フランス人の武装組織ミリス(フランス民兵団)も、団長ジョゼフ・ダルナンとともに登場。
本書によると彼らによって殺されたレジスタンスの数は3万人を下らないそうですが、
神々の黄昏」を読んで気になっていた組織なので、大変勉強になりました。
まぁ、1ページだけなんですけどね。。

Milice française.jpg

中盤はメインとなるノルマンディ上陸作戦です。
ヴィレル・ボカージュの戦い」では、武装SSの戦車野郎ヴィットマンが大活躍。
そして、その死までも書かれていますが、本書は基本的に
個々の兵士のエピソードは書かれていないので(尉官レベルは皆無)、
このヴィットマンは完全に特別扱いですね。

ϟϟ-Hauptsturmführer der Waffen-SS Wittmann.jpg

戦況図が5ページに一枚の割合で出てくるのも、わかりやすくて良かったところです。
100枚ほどの戦況図が載っているそうですが、特にパリ解放後のドイツ本土へ向けた
モントゴメリー案とアイゼンハワー案の違いも上下で比較して見せたりして、
単なるやっつけ戦況図ではなく、簡潔ですが、
それぞれ意図を持ったわかりやすいものだと思いました。
もちろん彼らの確執に、パットンブラッドレーらの絡んだ連合軍バトルも頻繁に登場します。

Generals Montgomery, Eisenhower, and Bradley.jpg

本書には独英米仏と、実に多くの師団や軍団、軍、軍集団が登場しますが、
その名称の後にカッコ書きで師団長などの名前が記載されています。
例えば、第1SS装甲師団<テオドール・ヴィッシュSS少将>という書き方で、
一度、出てくれば師団長の名はなくなりますが、その後、師団長交代すると、
第1SS装甲師団<ヴィルヘルム・モーンケSS少将>となります。

有名師団だけではなく、弱小師団についても、このルールは適用されているので
バルジの戦いで「突撃砲兵」のギュンター・ホフマン・シェーンボルンとか
「総統付き陸軍副官」ゲルハルト・エンゲルが国民擲弾兵師団長と書かれていると
「おぉ~、こんなところで頑張っているとは・・」と、なにか懐かしく感じたりもしました。
こういうのは親切かつ、発見もあったりして、実に良いですね。

Gerhard Engel.jpg

ラストにはエルベ河畔で米軍第9歩兵師団がソ連第58狙撃兵師団と握手を交わし、
西部戦線と東部戦線が結合・・。ヒトラーも大急ぎで自殺して終わります。
遠すぎた橋」などもちろん登場しますし、ドイツ側の将軍もロンメルモーデル
クルーゲルントシュテットと沢山登場しますが、特別目新しい記述がなかったので
今回は思いっきり端折って、個人的に興味のあった部分のレビューにしました。

American and Soviet troops meet east of the Elbe River2.jpg

また、本書は各戦役や各々の戦いについては著者独自の見解というものはなく、
あくまで、一般的なものに留まっています。
例を挙げれば「ダンケルクの停止命令」も、いろんな説があって真相は不明・・・という表現です。
600ページ越えとはいえ、全体的にダイジェスト的な印象なのは否めませんが、
お弁当に例えるなら定番のおかずがたくさん入った「幕の内弁当」ですか・・。
ものめずらしい食材や、斬新な味付けがされているわけではなく、
「遠すぎた橋」が海老フライで、「バルジ大作戦」が唐揚げ・・なんて感じです。
しかし小さいおかずがたくさん詰め込まれてあるよりは、
「牛肉どまん中」みたいな、肉だけ食ってろ的なお弁当・・じゃなくて
戦記の方が好きな人も多いでしょうね。

german_soldiers_00.jpg

最後に、この本がどんな読者をターゲットにしているのか・・?
う~ん、難しいなぁ。
初めて本格的に第二次大戦の戦記を読む人には大変だと思いますし、
詳しい方には物足りない・・。まさにいま、勉強中という人や、
20年前に「グデーリアンの電撃戦」や「史上最大の作戦」を読んでいたような方が
「懐かしいな~」なんて呟きながら楽しめる一冊なのかもしれません。



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ワルシャワ蜂起 1944 [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヤン・ミェチスワフ チェハノフスキ著の「ワルシャワ蜂起1944」を根性で読破しました。

1944年8月の「ワルシャワ蜂起」については、以前に第二次世界大戦ブックスの
「ワルシャワ反乱 -見殺しのレジスタンス-」で勉強していましたが、
1989年発刊の本書もほとんど同時期に購入していたものの、
写真タップリの第二次世界大戦ブックスとは違って、上下2段組で345ページ、写真も皆無・・と
かなり専門的で難しそうなオーラを放っていることから、気後れしていました。
今回は、本棚で2年も3年も熟成している連中をやっつけてやろう・・という気になりましたので、
2年半前に1000円で買っていた本書を気合を入れて、いざ挑戦です!

ワルシャワ蜂起 1944.jpg

いつものように「訳者あとがき」から読んでみますが、実はコレが本書を手強そうと思わせる部分で
ポーランド人の著者の経歴・・・
1930年生まれで、弱冠13歳で国内軍(AK)に所属し、1944年のこのワルシャワ蜂起に参加。
戦後は英国に渡り、1968年、「ワルシャワ蜂起に関する政治的、イデオロギー的背景」と題する
学位論文をロンドン大学に提出して、哲学博士号を・・。
この学位論文の一般読者向け改訂版が本書ということです。

Powstanie Warszawskie 1944.jpg

第1章では1941年6月のドイツ軍によるバルバロッサ作戦後のポーランドと
ソ連、英国、米国の3大国との関係を解説します。
もともとポーランドは1939年にドイツと、そして東からはソ連に侵攻されていた国・・
しかしドイツのソ連侵攻から1ヶ月後にはソ連=ポーランド間の外交関係回復、軍事協力などが
ロンドンで調停されます。
これにはチャーチルを中心とした英国政府の関心と、ロンドンのポーランド亡命政府との
切実なる思いがあるわけですが、難航するのが国境線で、
戦前の領土を主張するポーランドに対して、1939年の侵攻で獲得した領土は
すでにウクライナと白ロシアに属しているとするソ連です。

チャーチルにとってポーランド問題は「名誉」にかかわること、
スターリンにとっては「国家安全保障」の問題、そして
ルーズヴェルトには国内の「大統領選挙戦略」の問題であり、
このような3大国の思惑の前に、ポーランド亡命政府と新首相ミコワイチックは
現実的な支援を受けることはありません。

Spotkanie Roosevelt-Mikołajczyk.jpg

続く第2章はレジスタンス運動創成期で、1939年9月に創設された「地下軍事組織」から
その他の「武装闘争団」が1942年に統合され、
亡命政府に忠実な「国内軍(AK)」が誕生する過程、
それとは別に、共産党翼下の「人民軍(AL)」も存在しています。
「国内軍(AK)」司令官、ブル=コモロフスキ将軍は、最後まで
「兄弟殺しの闘争」に頭を痛めるのでした。

Bor Komorowski.jpg

1943年秋、すでにドイツ軍はスターリングラードで敗北し、クルスク戦以降も敗走・・。
このようなソ連の攻勢に、それまでドイツの敗北のみを期待していた彼らですが、
新たな悩みの種が現実的な問題として頭をもたげてきます。
それは勝者として勝ち誇ったソ連の強要に直面するであろう・・という問題です。
妥協的な解決策を模索するのか、結果を鑑みず、進撃してくるソ連と対決するのか・・。

Armia Krajowa.jpg

このような間にも「カティンの森」事件が発覚し、当初、亡命政府の首相だったシコルスキも
飛行機事故で死亡するという悪循環に陥り、ソ連との関係も断絶状態に・・。
亡命政府はミコワイチックが首相、最高司令官にソスンコフスキが任命されて、
ポーランド国内に潜っているブル=コモロフスキと頻繁に連絡を取り合いますが、
意見の相違も大きいようで、直接、顔を突き合わせての会議なども出来ないことからか、
命令文などの解釈を巡って、基本方針がなかなか定まりません。

Generał Władysław Sikorski.jpg

1944年、東部のルヴォフでも独ソ両軍による激しい戦闘が起こり、
いよいよ、首都ワルシャワでも「蜂起」の準備に入ります。
それはドイツ軍がワルシャワから撤退し、ソ連軍が辿り着く12時間前の絶妙なタイミングで、
充分に武装した4000人のAK兵士が市外で戦い、ポーランド人によるワルシャワ解放という
既成事実をつくろう・・というものです。

Powstanie Warszawskie.jpg

ワルシャワに近づくソ連軍。モスクワ放送はポーランド語で起ち上がるよう呼びかけ、
7月22日からパニックに陥って撤退するドイツ軍を市民は目撃しますが、3日後には立ち直り、
精鋭ヘルマン・ゲーリング師団数部隊がワルシャワ防衛に向かいます。
7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の報によるドイツ軍の動揺や、
ミコワイチック首相がスターリンとの会談のため、モスクワへ飛び立ったという情報も入り、
ソ連軍との軍事協力と外交関係の再確立のために、7月30日、遂に「蜂起」が決定。

しかし現場レベルでは、ソ連軍との事前の連絡や協力体制は一切行われず、
機関銃20梃、軽機関銃98梃、自動小銃604梃、ライフル銃1367梃という数字は
「軍」としてはあまりに弱体であり、このように不足している軽火器以外に必要な
迫撃砲、対戦車砲などの重火器はありません。
また、AK兵士も著者のような少年兵や女性兵士も多く含まれています。

Powstanie Warszawskie 1944.jpg

そしてその結果は良く知られているとおり、ソ連軍はワルシャワ目前で停止し、
20万人のワルシャワ市民がドイツ軍との戦闘に巻き込まれて戦死する悲劇。。。
モスクワまで軍事協力を取り付けに行ったミコワイチック首相も、
結局はスターリンに「助けてください」と言いに来たようなものとなって、
最終的にスターリンの完全勝利となってしまいます。

後半、「こりゃ、まずいなぁ・・」と思って読んでいたように、本書では、
ワルシャワ蜂起での、ドイツ軍との戦闘には一切、触れられていませんでした。
本書は「いつ、どのようにして蜂起指導部がこのような蜂起を決定したのかを明確にすることが狙い」
と書かれているとおり、「蜂起した時点」で終了・・・なんですね。。。

Pomnik Bohaterów Powstania Warszawskiego.jpg

いや~、キツかった・・・。
こんな苦しい思いをしたのは久しぶりです。何度、途中で止めようと考えたことか。。
300ページに近づき、パラっとめくって最後の40ページほどが「原注」だと分かったときの喜び・・。
残りがあと10㎞だと思ってたのに、角を曲がったら直線の先にゴールが見えた・・って感じです。
ちょっと古いですが「自分を褒めてあげたい」とは、まさにこのことですね。
馴染みの無い△△△△△スキさんとか、□□□□□スキさんがコレだけ出てくると、
いちいち「誰だっけ??」と瞑想に耽ってしまったこともしばしば・・。
勉強になったことはなりましたが、ちょっと敷居が高すぎました。
しばらくは、本来の「第三帝国」モノに集中しようかなぁ・・。



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