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グスタフ・マンネルヘイム フィンランドの“白い将軍” [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

植村 英一 著の「グスタフ・マンネルヘイム」を読破しました。

先日、たまたま見つけてしまった1992年に日本人著者によって書かれた本書。
いや~、こんな本があるんですねぇ。。
マンネルヘイムといえば、戦時中にフィンランドの元帥、大統領としてドイツ軍と共同して戦い、
末期にはその盟友と戦うことになるという、これだけで波乱万丈の人生ですね。
ハードカバー、259ページというソコソコのボリュームで、定価2600円ですが、
決して世の中は甘くなく、Amazonでは8000円のプレミア価格・・。
まぁ、そういう場合には地元の図書館が助けてくれるのです。ありがたや・・。

フィンランドの白い将軍.jpg

1867年生まれのカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム。
おおっといきなり、ちょうど100年違いの方でしたか。。
男爵として生まれた彼ですが、父は会社が倒産すると情婦と共にパリへ逃避。
傷心の母は1881年に亡くなり、子供たちはばらばらに親戚に預けられるという子供時代。
スウェーデン王国の統治下だったフィンランドが1809年に帝政ロシアの手に移り、
マンネルヘイム家の祖先もスウェーデンから移住して来たなど、
この18~19世紀のフィンランドの歴史についても並行して進んでいきます。

Mannerheim1889.jpg

体格も良く、活発なマンネルヘイム少年は、ロシア帝国陸軍に身を投じて、
ツァーの将校となる道を選び、当時、最も人気の高いザンクト・ペテルブルクの
騎兵学校へとなんとか入学。卒業後は黒龍連隊で2年勤務、その後、念願かなって、
王妃を名誉連隊長に仰ぐ、シュバリエール近衛騎兵連隊へ・・。
1896年のニコライ2世の戴冠式には皇帝の天蓋のすぐ前に、銀のヘルメットをかぶり
煌びやかな礼装をまとった2mもの長身が写真に収められるのでした。

Kejsar Nikolaj II_s kröning i Moskva 1896. Framför kejsaren går Chevaliergardets officerare Gustaf Mannerheim.jpg

そして彼にとっての最初の戦争がやってきます。それは「日露戦争」。
旅順要塞の攻防戦、いわゆる二百三高地の決着がついた後の、日本第3軍に対する攻撃、
チネンスキー・ドラゴンズ連隊の2個騎兵隊を指揮するマンネルヘイム。
しかしコサック騎兵は重い装備品を携行し、盛大な砂塵を巻き上げる割には、
1日にわずか30㌔しか前進せず、攻撃は失敗。
コサックの実力と無統制、乱暴狼藉にに失望するのでした。

Mannerheim1904.jpg

帰国すると今度は未開の地、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の軍事偵察に出発。
2年にも及ぶ大冒険であり、ダライラマとの面会を果たし、西太后が統治する北京へと進んだ後、
天津から長崎に上陸し、8日間の日本滞在を経て、舞鶴からウラジオストックへ・・。
ただ、残念ながら、このマンネルヘイム日本見聞録の詳細は不明なんだそうな。。

Mannerheim taking notes during his 1906-1908 Asia Expedition.jpg

第1次大戦が始まると、レンベルクの会戦でオーストリア軍の初動を頓挫させる大活躍。
ロシア革命が起こった頃には、中将にまで昇進し、3個師団から成る第6騎兵軍団長に
任ぜられます。しかし祖国フィンランドが独立を宣言すると、故郷に凱旋した彼は、
ロシア赤衛軍相手にフィンランド国軍総司令官として戦うことになるのです。
フィンランドの歩兵博物館には「メイジ30」、「メイジ38」と名付けられた小銃が展示されていて、
このような日本の三十年式歩兵銃、三八式歩兵銃を3万丁以上も保有していたそうです。

Mannerheim1918.jpg

独立戦争が終わった後、フィンランドの政治家は親ドイツに走り、
議会はドイツ皇帝の皇弟ヘッセン公フリードリヒ・カールを国王として向かえる決議に至ります。
その途端、ドイツは降伏してカイザーも退位・・。
ヘッセン公も当然、辞退しヘルシンキに現れることもありません。
それどころか親独政策によって「被告」となることを怖れた政府は、この危機に
西側列強との友好関係を回復させるため、ロンドンとパリにマンネルヘイムを派遣するのでした。

Friedrich Karl von Hessen-Kassel.jpg

しばし隠居していた65歳のマンネルヘイム。
1932年になって大統領に請われ、軍事委員会の委員長に就任すると同時に「元帥」の称号も。
彼の軍事に関する考え方は以下のようなものです。
「小国は戦争の圏外に立って、中立を維持しなければならない。
大国からの援助は魅力があり、安心感を与えるが、それは抜き差しならぬ束縛と
義務を負わせ、これほど危険なものはない。」
そして自力による武装中立を目指します。
「自らを守ることの出来ない国を、一体どこの国が守ってくれるのか」。

う~ん、最近、どこかの国で議論になっていることを思い出しますねぇ。

Le maréchal Mannerheim dans son quartier général.jpg

ちょうど真ん中あたり、135ページから「冬戦争 1939-1940」の章がやってきました。
1932年に不可侵条約を締結していたソ連とフィンランドですが、
ナチス・ドイツのバルト海への進出に脅威を感じたスターリンが、
再三にわたり、国境調整を要求してきます。
マンネルヘイムは譲歩するよう政府に要請しますが、ソ連の要求は条約無視だと憤慨する政府。
その結果、スターリンはフィンランドの「抹殺」を決意するのです。

Stalin, Voroshilov.jpg

戦争に反対し、辞職を決意したマンネルヘイムですが、武人としての職はそれを許さず、
総司令官として日々命令を発することに・・。
この章は35ページほど、もちろん「雪中の奇跡」にはかないませんが、なかなかのもので、
戦況図も掲載しながら、最後には過酷な条件で休戦に至るまでが書かれています。

Mannerheim 1939.jpg

こうして再び、もう一つの大国であるドイツとの関係が親密になっていくフィンランド。
防衛のためにドイツに渡って近代戦の訓練を受ける志願兵の若者たちに加え、
1941年3月になると、SS戦闘部隊の志願兵をフィンランド国内で募集することを承認し、
やがて彼らは武装SSヴィーキング師団となって、遠くウクライナで戦うことになるのです。

nazi_Finn.jpg

始まった「バルバロッサ作戦」。
ドイツとフィンランドには外交上の同盟や条約は何も結ばれず、軍事上の協定も
文書として残すことを拒み、ドイツ軍との合意は道徳的な「口頭の了解」に留めるマンネルヘイム。
同盟戦争ではなく、たまたま、共通の敵に対して戦う共同戦争であって、その目的は
1940年3月の講和条約で失った国境線の回復と、民族の故郷である東カレリア地方の領有。
よってフィンランドにとっては「継続戦争」なのです。

Karjalankannaksen valtaus 1941.jpg

レニングラード攻略を目指すドイツ軍と、マンネルヘイム・ラインからそれを眺めるフィンランド軍。
ドイツ軍が耐寒装備を持っていないことを知ったマンネルヘイムはショックを受け、
その軍事力に対する信頼を失い、戦略の根本的な転換を考えるのです。

信頼するディートル将軍をドイツ・ラップランド軍(第20山岳軍)の長として進捗を図り、
1942年6月、75歳を迎えたマンネルヘイムのもとをわざわざ訪れたヒトラー。

Mannerheim-Hitler.jpg

しかし翌年2月、すなわちスターリングラードで第6軍が全滅した頃、
早い時期に戦争から離脱するべきである・・という危険な政策転換に切り替わり、
ベルリンでの外相同士の会談で、フィンランドの戦線離脱の意向を暗に打ち明けたものの、
予想通り、リッベントロップの怒りを買い、単独講和を縛る政治協定の締結を要求してくるように
なるのでした。

1944年、フィンランドに戦争継続を要求しつつも、武器弾薬の供給を停止していたヒトラー。
連合軍がノルマンディに上陸すると、東部戦線でもすっかり近代化されたソ連軍が大攻勢に出て、
フィンランド政府はパニックに陥り、講和を求めようとしますが、マンネルヘイムが押しとどめ、
気心の通じた純情熱血のディートル将軍が要望に応えて、ドイツ軍の倉庫から
最新式の対空対戦車火砲が運び出されることに・・。

Dietl Mannerheim.jpg

さらに救援の要請をヒトラーに直談判したディートルですが、その帰りの飛行機が墜落・・。
ロンメルの場合と同じく、ヒトラーの謀殺であったとの説もある」と書かれていますが、
まぁ、コレはないでしょう。ロンメルは7月20日事件への関与を疑われたのであり、
ディートルの事故死は6月の出来事。
そもそも、どんな人気将軍であっても、気に入らなければ簡単に罷免するのがヒトラーです。

Dietl_Hitler.jpg

「ドイツの同意なしにソ連との講和を結ばない」という協定に縛られたリチ大統領は、
この協定から解放されるために退陣し、新たにマンネルヘイムが大統領に就任します。
表敬のために飛来してきたOKW総長に前大統領が結んだ協定に縛られないことを伝えると
「憤慨し異常な興奮を示す」カイテル・・。
パリは西側連合軍によって解放され、ルーマニアはソ連軍に占領されるという難しい時期・・。

Keitel,Mannerheim.jpg

そして遂にドイツとの国交断絶。ヒトラー宛に自筆の書簡も送るマンネルヘイムですが、
ディートルの後任、レンドリック将軍とは険悪な雰囲気です。
ソ連の「踏み絵」の如き要請により、自国からドイツ軍を叩き出ことになったフィンランド。
しかし将兵の間には戦友愛が育まれ、尊敬と信頼で結ばれているのです。

german finn.jpg

ドイツ軍は事前に部隊の撤退日時を連絡し、フィンランド軍はその後、突撃を仕掛けるという
「いかさま戦争」を繰り返してソ連の目を欺こうとします。
実際、ドイツ軍の主要な司令部にはフィンランド軍の連絡将校が勤務したままで、
「秋季機動演習」と呼ばれていたそうです。
このラッブランド戦争も思ったより、書かれてますね。

Finnish infantry batallion as it begins the encircling maneuvers against Germans positions in Lapland, Finland, October 1944.jpg

こうして戦後は公職から引退したマンネルヘイム。
回想録が完成に近づいた1951年、84歳で永眠するのでした。

非常に読みやすい一冊でした。
フィンランドと帝政ロシアの歴史、マンネルヘイム個人の人生に、
彼が体験した数度の戦い、そして第2次大戦のフィンランドの戦略と状況の変化、
大国に翻弄されながらも、自立を目指す一貫した姿勢・・と、
必要な事柄がバランスよく配されていると思いました。

Von Falkenhorst and Mannerheim.jpg

「ドイツのノルウェー軍司令官フォン・ハルケンシュタイン将軍とは最後まで馴染めなかった」
のところが、まぁ、敢えて書けば、「フォン・ファルケンホルスト」だろ・・なんて。。

でも日本人著者ならでは、一般の日本人にも理解しやすいように記述していると感じますし、
日本人武官の証言を取り上げるなど、親近感が湧くような仕組みもあるのかも知れません。



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