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消えた将校たち -カチンの森虐殺事件- [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

J.K.ザヴォドニー著の「消えた将校たち」を読破しました。

2009年に公開されたアンジェイ・ワイダ監督の映画「カティンの森」。
当時、その映画の原作本を先に読んで、映画も鑑賞しましたがインパクトありましたねぇ。
それ以降、何度かこのBlogでも取り上げたことのある事件ですが、
2010年に出た最新の研究書「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」をチェックしつつも、
2012年に同じみすず書房から出た280ページの本書を選んだ理由は、
「カティンの森の夜と霧」という1963年の古い本を大幅に改訂した新版であり、
1944年のワルシャワ蜂起にも参加した著者による、冷戦時代の謎解きのような内容・・
という紹介に惹かれたことです。

消えた将校たち.jpg

1939年8月31日、ハイドリヒの命を受けたナウヨックスによってグライヴィッツ事件が起こり、
翌日、ドイツ軍によるポーランド侵攻が始まります。
ポーランド政府はルーマニアへと逃れ、東から侵攻してきたソ連軍とに分割されるポーランド。
ドイツ占領下はハンス・フランクが「ポーランドのドイツ人国王」を自認し、
一方のソ連占領下では、すぐさまソ連北部への大量国外追放が始まって、
一家全員が無理やり列車に積み込まれ、その人数は120万と推測されます。

それとは別にソ連軍に捕虜として捕えられたポーランド軍将兵は25万人。
その内、将校は1万人です。
そして8000人以上の将校を含む、15000人の捕虜が完全に地上から姿を消えうせ、
この行方不明者の運命を辿るのが本書の目的としています。

Warsaw_1939_Polish_POWs.jpg

独ソの侵攻から2年後の1941年7月、ロンドンのポーランド亡命政府とソ連の間で、
正式に外交協定が交わされます。
ソ連がドイツに襲われた結果、英ポとソ連は手を組むことになったのです。
議定書には「ソ連で自由を剥奪されているポーランド人捕虜と市民に対する大赦」が明記。
元捕虜による在ソ連ポーランド軍が編成され、釈放されたアンデルス将軍が指揮を執ることに・・。

Władysław Anders.jpg

しかし毎日、数千人単位でやってくる釈放された捕虜たちですが、将校は滅多に現れません。
14人いるはずの将軍も、現れたのはわずかに2人だけ。。
高級参謀将校300名もやってきたのはたった6人。大多数が行方不明なのです。
労働収容所中央管理局(グラーグ)に問い合わせても埒が明かず、
逆に勝手に動き回っていることをNKVDから抗議される始末・・。
遂に外交レベルの捜索へと発展し、ロンドンのシコルスキ将軍はモスクワへと飛び立ちます。
「彼らはどこにいるのか?」という執拗な問いに、スターリンは答えます。
「彼らは満州へ逃亡した」。

あらゆる努力にもかかわらず、たった一つの手がかりすら掴めずに1年8ヶ月が過ぎると、
1943年2月、スモレンスクの西方数㌔に駐屯していたドイツ軍部隊が
「革長靴を履き、胸には勲章を付けたままのポーランド軍将校の死体」を多数発見するのでした。

Massaker von Katyn 1943.jpg

4月9日の「ゲッベルスの日記」には、この事件について記載されています。
「ボルシェヴィキはポーランド人捕虜1万人をあっさりと撃ち殺し、
穴に放り込んで埋めてしまった・・」。
そして宣伝大臣の本領を発揮して、ドイツのラジオ放送は全世界に発表。
連合国の一政府が同盟国の将校団の半分近くを殺してしまったことを暴露することで、
その連合国の結束に亀裂を入れることを狙ったものです。
1943年4月、すなわちスターリングラード戦と、クルスク戦の間・・という時期がミソですね。

Himmler and Goebbels.jpg

2日後にはソ連が声明を発表します。
「1941年に建設工事に従事していたポーランド軍捕虜は、
ドイツ・ファシストの死刑執行人の手に落ち・・」。
ナチス占領下の人々や連合国は、ドイツの言うことなど信用しません。
そこでゲッベルスとヒムラーは12か国から成る国際調査団を要請。
ベルギー、ブルガリア、デンマーク、フィンランド、オランダ、チェコ、ルーマニア、スイスといった
国々の著名な法医学の学者や専門家が、完全な行動の自由のもとに解剖を行います。
さらにはポーランド赤十字の医学チームもやって来ますが、このチームには
地下組織の秘密メンバーも含まれていて、ロンドンの亡命政府へ情報を伝えるのです。

katyn 1943.jpg

犠牲者は冬外装を着て、白い縄で両手を後ろ手に縛られ、その縄はソ連製であることが判明。
おがくずを口いっぱいに詰め込まれた遺体もあれば、腕や腿に銃剣の傷がある遺体も・・。
必死に抵抗した彼らの傷は、ソ連軍が使用していた銃剣によるものということもわかります。

ポケットの中は個人情報の宝庫であり、身分証明書に日記や手紙、写真の数々。
立ち合ったポーランド人もこれらが本物であることを確認します。

Katyn, Öffnung der Massengräber, polnische Rot-Kreuz-Mitarbeiter.jpg

予備役将校の遺体が多いのも特徴です。
数百人の法律家と小中高校員、21名の大学教授、300名の医者やジャーナリスト・・。
また、女性もひとり含まれます。
彼女はソ連の捕虜となっていたポーランド空軍の中尉で、
調べたところ、Janina Lewandowskaという名だと思いますね。

Janina_Lewandowska.jpg

4000体を超す遺体がこのカチンの森から発見され、埋められたのは1940年の春と特定。
独ソ戦の始まる1年以上前であり、当時、ここはNKVDの保養所だったのです。
あ~、映画「カティンの森」のシーンを思い出しますねぇ。観てて怖かったです。

Katyn_2007.jpg

この当時、ワルシャワにいた著者。この事件は大ニュースとして伝わりますが、
ドイツの宣伝にも関わらず、下手人が誰かは確信が持てません。
なぜなら、あのシュトロープ将軍による「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の大鎮圧作戦
ポーランド側から言えば「集団殺戮」が同じ時期、1943年4月には始まっていたからです。

Warsaw Ghetto Uprising.jpg

ソ連はポーランド政府に対し、「カチンの虐殺がドイツの犯行である」という
声明を出すように求め、それを拒否するポーランド政府。
腹を立てたスターリンはルーズヴェルトとチャーチルへ書簡を送ります。
「現在のポーランド政府がヒトラー政府と共謀するまで堕落し、事実上ソ連との同盟関係を断ち、
敵対的態度を取るようになったと見なさざるを得ない。
この理由により、ソ連政府はポーランド政府との断交を決定した」。

Sikorski stalin.jpg

チャーチルはシコルスキ将軍にお灸をすえ、忠告します。
「もし死んでいるのなら、何をしようと彼らを生き返らせることは出来ない」。
また、ルーズヴェルトの反応も同様です。
そんなシコルスキ将軍の乗った搭乗機が7月4日に墜落・・。
一応は事故ですが、タイミング的に「謀殺」説が強いそうな。。

Gen Sikorski, Winston Churchill and de Gaulle.jpg

ドイツ軍が埋め直した遺体が再び、掘り返されます。
このカチンの森まで進撃してきたソ連軍が改めて調査を行おうとしているのです。
結局、ドイツの報告書の1/15ほど、ポーランド調査団の1/20の報告書を作成。
もちろん都合の悪いことには一切、触れられません。

こうして終戦を迎え、始まったニュルンベルク裁判では、米英の反対を押し切り、
「ドイツによるカチンの森虐殺」を告発するソ連。
ソ連側の証人には1943年にドイツが組織した国際調査団のひとりである
ブルガリア人のマルコフ博士が含まれ、
博士はかつての自説を完全に覆し、全員がドイツに強制されて署名したと証言します。
実は「ドイツがやった」と主張したマルコフは、ブルガリアへ進軍してきたソ連軍によって逮捕、
数ヵ月の投獄の後、国際調査団に参加したことで「人民の敵」の罪を認めていたのです。。
ソ連側検察は奮戦するも、関与したとされるドイツ人の反論の前に告発はウヤムヤに・・。
英空軍将校の捕虜50名が殺害された「ザガン事件(『大脱走』)」については徹底的に究明され、
関係者が裁かれたものの、ポーランド人捕虜4000人の死は無視されるのでした。

The Great Escape_Attenborough.jpg

実はここまでの経緯は本書の前半部分で書かれ、中盤からは虐殺の再現へ・・。
1939年に捕らわれたポーランド兵25万人は138か所の収容所に集められ、
そのうちソ連領内の3ヵ所の収容所の捕虜が虐殺の対象となります。
半年間、NKVDから徹底的に尋問され、思想教化が図られ、448人が合格。
大多数が「ポーランドに送還される!」という噂が意図的に流され、出発する捕虜の名簿が発表。
先陣を切るのは将軍たちで、盛大な喝采を浴びながら収容所を出発します。
残された448名は希望を失いつつありますが、実は彼等こそが生き残れるのです。

比較するのは不謹慎ながらも、映画「コーラスライン」の最終選考シーン・・、
名前を呼ばれて一歩出て、合格と信じて笑みを浮かべたのも束の間、「お疲れさん・・」、
を思い出してしまいました。

katyn Andrzej Wajda.jpg

ベルリング大佐は思想教化された生残りとして、NKVD長官のベリヤに食事に招かれます。
ポーランド軍装甲師団をつくりたいと述べるベリヤに、部下の将校を呼びたいと語るベルリング。
ベリヤは答えます。「我々は大変な失敗をした。大変な誤りを犯した・・」。

beria.jpg

独ソ戦が始まるとベルリングは、アンデルス将軍の新ポーランド軍に入隊しますが、
一年後には脱走。
アンデルス部隊は英第8軍と合流するために中東方面に向けて出発し、
英国構成部隊として、モンテ・カッシーノで甚大な死傷者を出しながらも勝利。

1943年にポーランド共産主義者が組織したポーランド部隊を率いることになったベルリング。
こちらの部隊は赤軍に加わり、ベルリン攻略に挑むのです。
ふ~ん。「スターリンの外人部隊」を再読したくなってきましたねぇ。

Zygmunt Berling wysyłając swoich żołnierzy na drugi brzeg Wisły.jpg

なぜ、ソ連がポーランド将校を大量虐殺したのか・・?
本書では様々な角度からその理由を探りますが、こんなエピソードも。
1943年にカチンの森が発見されたというニュースがドイツの捕虜収容所にも伝わります。
ここにはベルギー、ポーランド、ロシアの捕虜が収容されていますが、
超有名な捕虜、ヤコフ・ジュガシヴィリ、すなわちスターリンの息子の姿もあります。

Yakov Stalin con oficiales de la Luftwaffe durante su cautiverio.jpg

「1万のポーランド人が殺されたくらいでこんなに騒ぎ立てるとは何事かね?
ウクライナの集団農場化のときには300万人くらいが死んだぞ!
ポーランド軍将校・・あの連中は知識人で、我々にとって最大の危険分子だ。
絶滅しなければならなかった」。
ついでに、ドイツの残忍な方法と違って、人道的な方法で絶滅されたから安心しろ・・と語ります。

katyn-2007.jpg

戦後、共産主義政権となった著者の母国ポーランドではカチン事件に触れられることも少なく、
相変わらず、ドイツ軍によるもの・・と結論付けた研究書が出版されます。
また、著者はルーズヴェルトもチャーチルも、ソ連政府を犯人とするより、
ソ連を反ドイツ陣営に引き留めておくことが大事であり、なにより勝利が優先し、真実を封印する。
そして戦後も、国連組織にソ連の協力を確保する方が大事だった・・と理解しています。
最後には戦勝国の犯罪、敗戦国の犯罪にかかわりなく、審理する法廷の必要性を訴えます。

Katyn_massacre.jpg

本書の発刊当時は冷戦時代であり、未解決であったこの事件は、
単なるポーランド軍将兵の虐殺という問題だけでなく、
後の独ソ戦によるドイツ軍捕虜に対する「思想教化」、朝鮮戦争の捕虜に至るまで裏で指揮し、
国際的な大きな懸念であったことが伝わってきました。

末尾の「解説」で2012年現在の最新の情報が書かれていました。
この「カチンの森事件」の被害者は最大2万5千人であり、その現場は複数に及びます。
2001年になってもキエフ郊外の森で2000人の遺体が発見されており、
ゴルバチョフが明らかにした後も、封印されていたすべての資料が公開されておらず、
全ての発掘も終わっていない・・、この事件はまだ進行形なんですね。
ロシア人学者の書いた「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」も読み比べしたくなりました。








:st
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