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モスクワ攻防戦 -20世紀を決した史上最大の戦闘- [戦記]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アンドリュー・ナゴルスキ著の「モスクワ攻防戦」を読破しました。

11月の「クルスク大戦車戦」を読んでいた際に、妙に気になりだした「モスクワ攻防戦」。
その時にも書きましたが、もし1941年の冬にモスクワが陥落していたら・・??
といった妄想を更に深めてみようというのが今回の趣旨です。。
原著は2007年、本書は2010年に出た、ハードカバー484ページ、3000円弱の大作ですが、
いつの間にか、古書が700円台まで下がっていましたのでラッキーですね。

モスクワ攻防戦.jpg

序章では、スターリンとヒトラー、そしてジューコフとグデーリアンの4名が
各1ページづつ、写真付きで紹介されたあと、
このモスクワ攻防戦が世間から忘れられかけていると語ります。
歴史家は代表的な戦闘として、スターリングラードやクルスクの戦いを挙げ、
レニングラード包囲の感動的な人間ドラマに関心を寄せる・・。
しかし、最も多くの血が流されたとされるスターリングラード戦では、
360万人の将兵が駆り出され、両軍の犠牲者は91万人。
対してモスクワ攻防戦では、700万人もの将兵が投入され、250万人が犠牲になった・・と、
第1次大戦の「ソンムの戦い」、110万人と比較しても、史上最大の戦闘とします。

Moscou1.jpg

第1章では、「開戦前夜」として、2人の独裁者を比較します。
女性問題では、スターリンの妻ナジェージダや、ヒトラーの姪ゲリなども紹介し、
なんとなく「対比列伝 ヒトラーとスターリン」といった雰囲気。
1940年の西方電撃戦の勝利の後、パリを訪れたヒトラーは、
アンヴァリッド(廃兵院)に立ち寄り、ナポレオンの柩を眺めます。
後に、「ナポレオンと同じ過ちを犯すつもりはない」と語るヒトラー。

hitler I'm ready.jpg

自信過剰となったヒトラーは4ヵ月でソ連との戦闘を終了させるとして、
当初、侵攻開始日を5月15日としますが、
ムッソリーニがギリシャでドジを踏んだばかりに、1ヶ月延期・・。
よく、この1ヶ月の遅れがモスクワ攻略の失敗の原因とも言われていますが、
この年(1941)は、例外的に5月まで春の雪解けが長引いていて、
いずれにしても電撃的な侵攻は出来なかっただろう・・と書かれた本も以前に読みましたね。

Russland, Herausziehen eines Autos.jpg

東京からはゾルゲが「ドイツ軍の侵攻が始まる」と報告して、スターリンを激怒させ、
領空侵犯を繰り返すドイツ軍機を攻撃しないようにと、細心の注意を図ります。
4月18日、スターリンは珍しくモスクワ中央駅までわざわざ松岡外相を見送った後、
シューレンブルク大使を抱擁し、「これからも友人であり続けようではないか。
そのためには、あなた方ドイツ側も、そう努めてほしい!」と涙ぐましいほどに訴えます。

stalin matsuoka.jpg

しかし、スターリンの切なる願いは叶わず、6月22日、「バルバロッサ」が発動。
絶望的な戦況に6月30日、スターリンは別荘に引き籠ってしまいます。
しびれを切らしたモロトフにミコヤン、ベリヤら、政治局一行が別荘を訪れると、
「何をしに来たんだ!」と逮捕を恐れているかのように叫びます。
それでも話が新設の国家防衛委員会の話になると、議長に就任することを了承。
う~む。。この有名なエピソードはミコヤンの回想からのようですが、
個人的には議長という最高司令官に任命されるためのスターリンの作戦だったと思います。
もちろん、それが「賭け」であり、逮捕される可能性もあるわけですが・・。

German Panzer columns on the move.jpg

引き籠る前から、工場をまるごと、労働者も含めて、東部へ疎開させるよう
指示していたスターリンは、レーニンの遺体もチュメニに移送します。
腐敗しないよう定期的に特殊な溶液を塗ることが不可欠なレーニン。
科学者とその家族、警備員40名が特別列車で出発するのでした。

Мавзолей В. И. Ленина.jpg

8月、スターリンは有名な指令を発します。
「降伏した者は悪意ある脱走兵とみなし、その家族は裏切り者の家族として逮捕する。
包囲された兵士は最後まで戦い、味方の戦線に復帰できるよう努力しなければならない。
降伏を選んだ者はいかなる手段をもってしても殺害される」。
そしてNKVDには逃亡した自国兵の捕虜を撃ち殺す権利も与えられます。
ドイツ兵に捕えられても、どのみち死刑宣告に等しいことを悟る赤軍兵たち・・。
報告書によれば、「前線から逃亡した」兵士、66万人が10月までに連れ戻され、
そのうちの2万人が逮捕されて、1万人が銃殺。
残りの63万人で死の突撃を行う「懲罰大隊」が編成されるのでした。

Russian prisoners at the beginning of the war.jpg

この緒戦でのソ連軍の敗走ぶりを説明するために、「大粛清」の章があります。
トハチェフスキー元帥らが処刑された話だけでなく、
「人民の敵の妻」として、8年の禁固刑に処せられていた元帥の奥さんが
モスクワ攻防戦の真っ最中の10月に処刑された話なども・・。
ポーランドやバルト3国から撤退するNKVDは、その地の囚人たちも殺害してから逃亡。
そして今度はやって来たドイツ軍、アインザッツグルッペンが仕事を始めるのです。

where pro-German Lithuanian nationalists killed more than 50 Jewish men,1941.jpg

第4章は「ヒトラーとその将軍たち」。
8月まで快進撃を続けるドイツ装甲部隊ですが、突如としてモスクワではなく、
ウクライナの首都キエフが軍事目標となったことで、
中央軍集団司令官フォン・ボックは、ヒトラーを説得するためにグデーリアン派遣します。

「モスクワが産業、交通、通信の要衝であり、この都市を占領すれば
ソ連軍は兵士や兵糧を各地に輸送するのが困難となるだけでなく、
ドイツ兵の士気が上がり、敵に精神的な打撃を与えることによって、
ウクライナなど、他の地域で勝利することも容易である」と力説するグデーリアン。
しかし、ブラウヒッチュをはじめ、ヒトラーを支持する高級将校の前に孤立無援で、
モスクワ進軍の代わりに、しぶしぶ全速力でキエフに向かうことになるのでした。

Operation Barbarossa.jpg

次の章では相手方の将軍が登場。もちろんジューコフです。
ロコソフスキー曰く、「常に強固な意志と決断力を有し、
部下に対する要求が厳しく、ときに厳格さが許容範囲を超えたことも事実である。
例えばモスクワ攻防戦の最中に、時折、弁解の余地がないほどの激しさを見せた」。
1990年代に出版されたジューコフの回想録完全版からも引用して、
ソ連軍の主役となる元帥についてノモンハン、レニングラードも含めて紹介します。

T 26 tank detroyed after a battle with German forces shows the carnage of war.jpg

10月14日、北からモスクワへ雪崩れ込もうとするドイツ軍の玄関口となるルジェフが陥落。
モスクワへ通じる道には市民によって急ごしらえの対戦車障壁が設置されます。
そしてスターリンはヴォルガ川に面したクイブィシェフへの首都移転を決定。
外相モロトフを筆頭に、党、政府、および軍幹部を退避させるよう命ずるのです。

Битва за Москву2.jpg

第6章は「欺瞞の同盟」という章タイトルで、英米とソ連の駆け引きが・・。
フランスが降伏して以来、1年間、単独で本土と北アフリカでドイツ軍と戦ってきた英国。
地上からヒトラーの影を消し去るために、ボルシェヴィキの悪魔に手を差し伸べることを
意に介しません。しかしせっかくの援助も英国嫌いのスターリンの傲慢な態度に
苛立ちを隠しきれないチャーチルと、それよりは友好的な関係を築くルーズヴェルト

著者はポーランド系米国人で、ニューズウィーク誌の記者として、
モスクワ、ワルシャワ、ベルリンなど支局長を歴任したそうです。
そのため、本書では例えば「カティンの森」や、
ロンドンのポーランド亡命政府とスターリンの駆け引きなどにも触れられていました。

スターリンの側近であるミコヤンはバイクに乗ったドイツ兵が、
自分の別荘から30㌔離れた地点で目撃されたと報告します。
モスクワ防衛軍のサーチライトがドイツ爆撃機を狙う空中戦も激しさを増してきます。

Soviet 85cm M1939 (52-K) anti-aircraft guns at Gorky Park, Moscow, Russia, 28 Jul 1941.jpg

モスクワ攻防1941」にあった18歳の少女、ゾーヤ・コスモジェミャーンスカヤの破壊活動や、
日本はドイツ側の要請に応じずに、東南アジアに進出するという情報を送ったゾルケなど、
破壊活動家とスパイの章も面白いですね。
ゾルゲが逮捕されたのが10月18日、タイミングはギリギリです。

Richard_Zorge_memorial_Moscow.jpg

その10月18日、自分のための専用列車が待つ駅に向かったスターリン。
しかし乗車はせずに立ち去った後、11月7日の革命記念日に軍事パレードを行うことを決定。
大雪が降り始めて、空襲の危険がなくなった赤の広場にスターリンが姿を現し、
参加した軍人たちは深い感銘を受けます。
スターリンが首都を離れたという噂を聞いていた兵士たちも同様、
「スターリンは俺たちと一緒にモスクワに留まることを選んだのだ!
これで俺たちは、ナチス野郎の棺桶に、釘を打ち込んでいるかのような気分になった」。

Moscow 1941..jpg

そんなソ連軍兵士たちに手こずるドイツ軍。
第1装甲軍のフォン・クライストは驚きを隠せません。
「ソ連兵はあまりに原始的だった。無数の機関銃に取り囲まれても降伏しなかった。
ドイツ人の勇敢さは説明可能だが、ロシア人の勇敢さは、メチャクチャな蛮勇である」。

本書に限った話ではありませんが、敵兵を殺すという表現というのは、
英語や、ドイツ語などではどれだけのバリエーションがあるんでしょう??
例えば日本語では、
「ドイツ軍は赤軍1個大隊を包囲し、殲滅した」という表現もあれば、
「ドイツ軍は包囲したロシア兵1000名を殺害した」という場合もあります。
フォン・クライストの言う状況下の場合には、
「皆殺しにした」とか、「虐殺した」、「殺戮した」と書かれることもありますね。
降伏しない敵を殺した・・という事実が、言葉の違いによって印象が違ってきます。

「殲滅」だと、「敵を殲滅せよ!」なんて師団長命令の軍事用語にも感じますが、
「皆殺しにして滅ぼすこと」という意味ですから、その言葉から受けるイメージが違うだけ。
このようなことって日本語だから起こることなんでしょうか・・。

Битва за Москву.jpg

またモスクワ南方の武器製造都市トゥーラをグデーリアンから守るために
日本軍の侵攻の危機が去った東部からシベリア師団がやってきます。
そして気温は氷点下20℃から、35℃にも下がり、完全な冬季装備のソ連軍に対して、
夏季軍装のままのドイツ軍将兵は凍傷に苦しみます。

German soldiers surrendering to Soviets on the outskirts of Moscow.jpg

女性物の衣服やストールだろうが、何でも活用し、
耳を凍傷から守るためか、頭にブラジャーを巻きつけているドイツ兵の死体も・・。
この苦境をヒトラーに進言したグデーリアンは12月6日、部下に別れを告げるのです。

Germans soldiers plight at Moscow.jpg

ついに力尽きたドイツ軍に向けての反撃を陽気に指示するスターリン。
ジューコフは砲兵の弾薬が嘆かわしいほど不足していると警告しますが、聞き入れられません。
ヴャージマとルジェフのドイツ軍を包囲・撃破するハズが、逆に包囲されて全滅する始末。。
あのウラソフ将軍も登場して、見事な戦いを見せますが、
翌年、彼がドイツ軍の捕虜となり、裏切り者として最期を迎えるところまで書かれています。

Operation Typhoon.jpg

最後の12章は「あまりにも犠牲を出し過ぎた勝利」。
自国民の命よりも、銃弾や砲弾の数の方を優先するスターリンの非情な論理。
開戦当初の失敗は大祖国戦争の記録から抹消され、
モスクワ攻略を断念したヒトラーもまた、自らの戦略の失敗をグデーリアンをはじめ、
陸軍総司令官に軍集団司令官らを罷免することで責任を転嫁します。

Panzer General_Guderian.jpg

こうして著者は、「もしモスクワが攻略されていたら・・」と、推察。
グデーリアンの進言の通りに進んでいれば、8月末には首都を手に入れられていただろう。
そしてスターリンの指揮命令系統への打撃は、極めて深刻だっただろう・・とする説に、
戦いは長引いても、遅かれ早かれドイツ軍は敗退しただろう。
スターリンはどこまでも資源と兵士を投入し、最終的にはドイツ軍を撃退しただろう・・という説。
後者はソ連の大方の見方であり、多くの歴史家もこれを支持しているそうです。

ちなみにヴィトゲンシュタインはグデーリアン好きですが、それでも後者を支持します。
何故かと言うとグデーリアンはマトモですが、スターリンはマトモじゃないからです。。
言い方を変えると、1940年に電撃戦で敗れたフランス首脳からしてみれば、
マンシュタイン・プラン」やグデーリアンの突進は、マトモじゃなかったんでしょう。
このレベルでは常人が考えうる戦略を超えたところに勝敗が存在する気がします。

Red Square 1945.jpg

読み終えた印象としては、ソ連側7、ドイツ側3、という具合でしょうか。
ドイツ側の記述は、ほぼヴィトゲンシュタインが過去に読んできた本からの抜粋であり、
新たな発見はありませんでした。その一方、ソ連側は初めて知った部分は多く、
これは新たに公開されたNKVDの機密文書、重要人物の子どもたちへのインタビュー、
未刊行の日記、手紙、回想録の類を大いに活用していることによるようです。

敗戦国のドイツから新史料が発表されることはほとんどなく、
勝者であり、20年ほど前に崩壊したソ連からそのような史料が出てくるのは当然で、
また英米側の記述も、ソ連との連合軍の駆け引きとして取り上げられていることから、
ソ連側が大きなウエイトを占めてしまうのは、しょうがないところでしょう。
とは言ってもスケールが大きく、写真も所々掲載されていて楽しめました。
なかなかのボリュームですが、3日で独破したくらいですから。。



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コメント 8

ルー

ヴィト様、おはようございます。このたびも興味深く、お勉強させていただきありがとうございます。ヴィト様は、グデーリアンがお好きとのことでしたが、他にはどのような方がお好きですか?お差し支えなければお教えください。
by ルー (2014-01-16 05:49) 

ヴィトゲンシュタイン

好き・・の基準が難しいですが、こういうのは深く考えず、寝ぼけているうちにパッパと挙げてみます。

ドイツ空軍・・ギュンター・リュッツォウ
ドイツ海軍・・エーリッヒ・トップ
武装SS・・ミヒャエル・ヴィットマン
ドイツ陸軍・・う~ん。コレは難しい。。まぁ、マンシュタインかな?? ロンメルも好きですよ。お酒呑んだら、あと5人は思い出すでしょう・・。
by ヴィトゲンシュタイン (2014-01-16 08:17) 

ルー

ヴィト様、お答えありがとうごうざいます。ギュンター・リュッツォウ、エーリッヒ・トップ、ミヒャエル・ヴィットマン私は残念ながら(お恥ずかしくもありますが・・)全然存じませんのでこれから調べてみようかと思います。ヴィト様がどのような方を好きとおっしゃっていられるのかもとても気になりますので。
by ルー (2014-01-16 19:24) 

ヴィトゲンシュタイン

ど~も。クリームシチューで白ワイン呑んでるヴィトゲンシュタインです。
まぁ、みんな独破戦線で取り上げているので、タグを探してもらえれば写真とか出てきます。
呑みながら考えてみると、2通りに分かれてますね。
1.いかつい顔だけど、凄い男気がある軍人
2.可愛い顔してるのに、凄い戦果を挙げてる軍人

リュッツォウが「1」で、トップとヴィットマンが「2」です。
陸軍でもう一人好きな「1」を思い出しました。
フリードリヒ・ホスバッハ大将です。
by ヴィトゲンシュタイン (2014-01-16 21:12) 

あっき~

あけましておめでとうございますぅ~♪

さて、モスクワ攻防戦!
わたくし的には、ヨーロッパにおけるWW2のターニングポイントだと思います。
確かに、42年のスターリングラード攻防戦・43年のクルスク攻防戦も大きな会戦だったと思いますが、規模と参加人員などのスケールが桁違いでモスクワ会戦によって、ヒトラーの征服戦が終了したものと思います。
この会戦で被った物質的・人的損失(戦死・捕虜・凍傷)などを補うことができないまま戦争を継続したと思います。

仮にグデーリアン将軍他の野戦指揮官の意見具申を受け入れてキエフ攻略を実施しないで、モスクワ戦を開始していれば1941年9月上旬までには、モスクワを攻略できたのではと私も思います。
しかし、その後はモスクワ市東方を南北に繋ぐ線で膠着してしまうのでは
と・・・?

獲得した占領地で善政を布くのであれば、白ロシアは反革命的・ウクライナはスターリンの農業政策の失敗から共産主義政権を嫌う風潮有りで
施策を誤らなければ・統治も可能だったと思いますが、そもそもヒトラー政権自体がロシアの民を奴隷化し、ドイツ人を入植させようと計画していたのですから、無理な話ですね~~~
実際・グデーリアンをはじめとするドイツ将校団も戦争が落ち着いた後に
ロシアでの荘園生活を夢見ていたのかもしれません。

40年も前の高校時代に図書室で読みふけった「大祖国戦争史」
緒戦の大敗北など、都合の悪い歴史は残さない!!!
確かに、あの本でもモスクワ戦・スターリングラード戦などのポイント
には重点を置いて書かれていましたが、そこに至るまでの敗北の連続
は、どこに行ってしまったのかと独裁者の作る歴史書は、
妙なものだと高校生の頭でも???でした。

個人的には、「バルバロッサ・タイフーン作戦」よりも1941年12月6日にグデーリアンが第2装甲軍から去って翌年春まで続く、冬期戦におけるドイツ軍将兵の超人的な粘りに感嘆します。

by あっき~ (2014-01-16 22:02) 

ヴィトゲンシュタイン

あっき~さん、明けましておめでとうございます。

さぁて、ちょっと酔っ払い気味ですが頑張ってリコメします。
>モスクワ会戦によって、ヒトラーの征服戦が終了した
ボクも同意見です。結局のところ、ヒトラーは4ヵ月の電撃戦を想定していたのであり、それ以降はすべて後付の戦略論理ですね。

>そもそもヒトラー政権自体がロシアの民を奴隷化し、ドイツ人を入植させようと計画していた
これも同意見です。ボクが思うにヒトラーの対ロシア戦略は、軍人が考える「赤軍の殲滅」を目標にしたものではなく、スターリンを筆頭にしたボルシェヴィキの崩壊に伴う、ソヴィエト・ロシアの降伏、または和平だったと・・。
軍事的な勝利よりも、政治的な勝利が先に来るという読みが甘かったように思います。スターリンさえ失脚すれば、ボルシェヴィキも赤軍も崩壊し、あっき~さんの仰る様に白ロシアとウクライナも早々に立ち上がる・・、反ボルシェヴィキを利用した中長期的な統治政策は無用と考えていたように思います。

いや~、以上、日本語になっているか心配ですが。。

>翌年春まで続く、冬期戦におけるドイツ軍将兵の超人的な粘りに感嘆します。
そうですよねぇ。コレを焦点にした本はほとんどありません。
個人的には「デミヤンスク包囲戦」を主題とした本を読んでみたいところです。
by ヴィトゲンシュタイン (2014-01-16 22:44) 

しゅり

ヴィトゲンシュタインさん、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
相変わらず濃いブログですね。
私、読んだそばからどんどん忘れていくんですよ。。。。
ヴィトゲンシュタインさんにコメントいただいた
≪1945年 ベルリン解放の真実≫のベルリン陥落時の混乱のことも
いろいろな本で読んだはずなのに引用となると
あれ?どの本で読んだっけ?状態で使えない私の記憶のメモリ。。。。

さて、今、亀山郁夫の本を読んでいるんですけど
ちょうどレーニンの遺体がチュメニに疎開したという話が出ていて
ヴィトゲンシュタインさんのブログとのシンクロに嬉しくなった次第です。

しかし、モスクワまでドイツ軍が来るとスターリンは確信していたんでしょうかね・・・。
モスクワが陥落していたらどうなっていたのか。
興味深い想像ですね。
by しゅり (2014-01-18 02:06) 

ヴィトゲンシュタイン

しゅりさん、明けましておめでとうございます。
ボクもメモリ小さいんですよ。
だから読んだらすぐに書く! その週のうちに読み返しながら書く!
このBlogはもともと自分の備忘録ですから、この話、なにかで読んだなぁ・・と、独破戦線でキーワード検索したりして、実は1番の愛読者なのかも。。

レーニンの遺体がチュメニに疎開したということでシンクロするなんてのは、日本広しといえどもボクとしゅりさんぐらいのモンでしょう・・。

モスクワ陥落の想像は答えがないから楽しいですね。
ボクはスターリンは東に逃げても戦い続ける派ですが、側近たち、例えば、NKVD長官のベリヤにスターリンが逮捕されて、失脚、そして処刑。
モロトフが代表してドイツに和平を求めるも、モロトフ嫌いのヒトラーはせっかくの提案を台無しにして、また揉める・・とか、いろんなストーリーが浮かびます。。

by ヴィトゲンシュタイン (2014-01-18 08:21) 

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