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誰がムッソリーニを処刑したか -イタリア・パルティザン秘史- [イタリア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

木村 裕主 著の「誰がムッソリーニを処刑したか」を読破しました。

前作「ムッソリーニを逮捕せよ」は、なかなか勉強になった一冊でしたが、
本書はその続編、スコルツェニーに救出されたムッソリーニが復権を目指すものの、
最終的には、パルチザンによって処刑・・そして、ヴィトゲンシュタインが30年前に
初めて見た「ムッソリーニの写真」・・有名な逆さ吊りにされた姿となるまでが描かれています。

誰がムッソリーニを処刑したか.JPG

イタリア本土は既に南部から連合軍が上陸し、ドイツ軍はいまだ支配下にある北イタリアで
ムッソリーニを首班とした「イタリア社会共和国(サロ政権)」を樹立します。
首都ミラノにはカール・ヴォルフSS大将の親衛隊本部を置き、
ローマにはケッセルリンク元帥率いるイタリア占領軍が本陣を置いて、
イタリア全土のドイツ軍20個師団を指揮します。

Albert Kesselring in uniforme bianca.jpg

そんなローマ市内中心部で1944年3月23日の午後、
突如、市内全域で聞こえるほどの大爆発が起き、このスペイン広場に近い
ラセッラ街を行軍中のドイツ親衛隊156人が吹き飛ばされてしまいます。
このパルチザンによる12㎏と6㎏の2つの爆弾テロによって、現場は血の海となり、
散乱した肉片、ちぎれた軍服など酸鼻の極み・・即死したSS隊員は32名だそうです。

Via Rasella bomba.jpeg

激怒したヒトラーは「24時間以内にドイツ兵1人に対し、イタリア人50名を処刑せよ!」。
更には「ラセッラ街まで全域爆破」という命令まで出され、最終的な死者33名の50倍、
1650名もの処刑対象者をどのように集めるかに困窮したケッセルリンクは
ロシア戦線での「1対10」の割合を適用することでなんとかヒトラーの了解を得ます。

この命令を遂行するためローマのゲシュタポ長官、37歳のヘルベルト・カプラーSS中佐が登場し、
大急ぎで「処刑者リスト」が作成されますが、ゲシュタポが監禁している反ナチ・ファシストや
刑務所の政治犯や死刑囚だけでは330名に遥かに届かず、
不足分にはユダヤ人があてがわれます。

Kappler dopo la cattura.jpg

食肉運搬車に詰め込まれたイタリア人をローマ南郊の「アルデアティーネの洞窟」へと運び、
次々に銃殺し、証拠隠滅のため、入り口を爆破・・。
戦後のカプラーの裁判の様子まで書かれていて、少年をも含めた死を待つイタリア人の様子や
逆にカプラーから叱咤激励を受け、コニャックをラッパ呑みしながらこの命令を実行した
若いSS隊員たちの証言などは印象的でした。

なお、本書ではカプラーが処刑現場で指揮を取っていますが、
実際にはエーリヒ・プリーブケというSS大尉が実行したようです。

Erich Priebke.jpg

この「アルデアティーネの虐殺」というのは、なんとなく聞いたことがあったものの、
その発端となったパルチザンによる爆弾テロはまったく知りませんでした。

ローマのこの町の住人たち、すべてがパルチザンであったろうハズもなく、
静かに戦争をやり過ごしたかった人たちや、335人の犠牲者からしてみれば
「なんちゅうことをしでかしおって!」と思っていたのかもしれませんね。。
実際、戦後、この爆弾テロ実行犯は遺族から訴えられたそうです。

Fosse Ardeatine_44.JPG

本書のようなパルチザン活動は、最近でも中東のある国でアメリカ軍に対して行われ
連日、日本のTVニュースでも報じられる、「爆弾テロ行為」となんら変わりがありません。

占領軍や占領政府からしてみれば、このようなテロは容認出来るものではありませんが
では、どうすれば円満な「占領」や「統治」が可能か・・という問題は
アメリカをみても未だに解決不能な難しい問題だと思います。

ムッソリーニ政権を転覆させた娘婿チアーノのその後も出てきました。
妻エッダとともにスペインへ逃亡するところをドイツ軍に捕えられ、
その後、ドイツではなく「サロ政権」によって死刑判決を受けます。
これは裏切り者チアーノの処遇をムッソリーニに押し付けたヒトラーの意思であるとして、
その裁判と続く銃殺のシーンも非常に詳細です。

striscia_ciano_1944.jpeg

また、チアーノから彼の「日記」の場所を探り出すため、ヒトラーの命により
美貌のSS隊員「ビーツ夫人」が囚われのチアーノの世話を焼く場面がありますが、
女好きとして知られるチアーノもこれを賢明にも適当にはぐらかし、
逆に「ビーツ夫人」はチアーノの人柄に負けて、遂には任務放棄・・。
しかし、この話はちょっと出来すぎの感じがしますね。

Frau Beetz.jpg

連合軍がローマを開放し、日本人3人がパルチザンに殺されるという話が続き、
「マルツァボット虐殺」という初めて聞く話が出てきました。。
1944年8月、ドイツ軍の防衛戦「ゴシック・ライン」の背後を襲うパルチザンに
業を煮やしたヴァルター・レーデルSS少佐の指揮するSS部隊が
マルツァボット村での1800人を頂点に複数の村落を次々と焼き払い、
計3000人の村人を殺害した・・というものです。

LA STRAGE DI MARZABOTTO.jpg

このSS部隊が気になって調べてみると
「第16SS装甲擲弾兵師団 ライヒスフューラー・SS」のようです。
また、このヴァルター・レーデルSS少佐は写真の通り、元「トーテンコップ」ですね。。。
「パルチザンが潜伏、利用すると思われる村々」というのがこの虐殺の理由と書かれていますが、
いくらなんでも、もうちょっとマシな理由がありそうなものです。

Walter Reder 3.SS-Panzer-Division Totenkopf and the 16.SS-Panzergrenadier-Division Reichsführer-SS.jpg

後半はタイトルどおり、誰がムッソリーニを処刑したかを大きな組織となっていった
パルチザン組織と、この傀儡政権におけるムッソリーニの生活、
そして愛人クラレッタ・ペタッチとの逃避行の様子を描きます。

clara_petacci.JPG

追い詰められたムッソリーニは戦いつつも名誉ある降伏を模索しますが、
ヴォルフSS大将は”カール・ハインツ”(ムッソリーニの暗号名)には内緒で
連合軍側と降伏交渉を行います。

Karl Wolff.JPG

スイスへの逃亡も護衛に付くSS隊員と偶然に合流した撤退するドイツ軍一行。
ムッソリーニは泥酔したドイツ兵に変装させられますが、パルチザンに見破られ、
山の一軒家に監禁されてしまいます。
そして4月28日、処刑人として登場して来たパルチザンによって、クラレッタと共に銃殺・・。
その他の側近たちも同様の運命を辿り、ミラノのロレート広場で晒しものにされ、
群集が数千から数万へと膨れ上がると、良く見えるようにと、
ガソリン・スタンドの屋根から吊るされることに・・。

Mussolini et sa maîtresse Clara Petacci.jpg

このムッソリーニ処刑の下手人は様々な説があり、本書でもいろいろと紹介しています。
また、クラレッタまで処刑したことには「やりすぎ」との声も多く、
気の毒に思った市民のなかには、ムッソリーニの頭をクラレッタの胸に乗せてあげたり・・と、
自分が見た吊るされる前の写真でも、2人が腕を組んでいるショットもありました。
新聞を読んだ英首相チャーチルも「ショックだ!」と憤慨していたそうです。

パルチザンやレジスタンスと呼ばれ、英雄視される彼らも
対する占領軍からしてみれば、軍服も着ずに一般市民のフリをして
背後から襲ってくるという、まったく卑怯な連中であり、
まして、昨日までの友であったイタリア人がそのような行動に出てきた場合
報復が報復を呼ぶ展開になることは想像できます。

結局、パルチザンやレジスタンス活動は、それによる「報復」というのも
充分に考慮に入れて置くべきもので、それゆえ第二次大戦中でも政府レベルな作戦は
ハイドリヒの暗殺以外あまり知られていません。

The_place_where_Reinhard_Heydrich_was_killed.jpg

このドイツ目線から見たブログとしては、本書の真逆な視点も楽しめ、
その結果、三国同盟の数十年経った日本人という微妙な客観的立場からして、
今まで以上に、このパルチザン・・或いはテロ行為、
それに伴う報復処置というものを改めて考えさせられました。



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イタリアのパルチザンを考えるにあたって、まず念頭に置かねばならないのは反ファシズム運動という大きな流れの一部ということです。
イタリアのパルチザンは軍事的にはユーゴとフランスの中間に位置づけられていますが、一番の特徴はナショナリズムに喚起された抵抗ではなかったという点です。
『パルチザン日記―イタリア反ファシズムを生きた女性』という書籍をお勧めします。
by お名前(必須) (2017-04-12 00:00) 

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